ラインラント進駐のその後
各国の対応
ラインラント進駐は明確なロカルノ条約違反であり、ルール占領の時のようにラインラントに英仏が再出兵することはできたと考えられる。しかし、イギリスは融和政策を堅持しフランスの軍事行動をとる場合支持しないとフランスに通達した。これは融和政策に加え、ドイツは当初の構想でイギリスを中立国、うまくいけば同盟国にしようと外交政策を展開していた結果、英仏に温度差が生じていた可能性もある。そしてフランスは孤軍奮闘か融和かを迫られ、選挙が近いこと・ドイツのプロパガンダに騙され過大評価したことなどから軍事行動は見送った。そして債権国であったアメリカはヨーロッパへの不干渉を貫く『モンロードクトリン』により放置した。
すすむドイツの戦争準備
1936年にドイツは第二次四か年計画を発表した。第一次は失業対策という面が強かったが、この第二次計画は食料・工業をほとんどすべて自国で賄えるようにすることを計画したものであり、本格的に東方生存圏という自給自足の経済圏を手中に収めるための戦争準備に他ならない。
また国防軍は「8月計画」という形で、更なる「攻撃的防衛」の概念の定着と、「陸軍の攻撃力の向上」を政府に打診した。またそれ以後開戦までの間に「攻撃性と加速性」という言葉も軍備拡張のキーワードの一つになり、WW2のドイツ軍の戦略の「電撃戦」も視野に入れるようになった。
これによりドイツ国防軍は国防のための軍から、侵略のための軍として拡大していくのである。
宥和の限界
ラインラント進駐後、ナチスはその支持を確実なものとし、ヒトラーは英仏の干渉はないと確信してオーストリア併合・ズデーテン割譲など領土を拡大していき、英仏は次第に融和政策に限界を感じていきます。そしてドイツがポーランドの元ドイツ領ダンツィヒを要求したところ、ダンツィヒはポーランドの唯一の海への出口であったためポーランドはこれを拒否。領有争いに対し英仏がポーランドに独立保障をかけドイツを封じ込めようとしました。しかし、ドイツは一歩も引かず第二次世界大戦が始まることとなる。