いっぱつ貫け
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ほう、ここがつぶらやのお部屋か。結構、整っているじゃないか。
――ん? 客が来るなら、掃除するのは当たり前?
うん、分かっていて言ったんよ。お前が昔、散らかり具合を自虐的に語っていたのを、覚えているからな、俺。ああいう気楽な談笑場面だと、結構、ホントのことをさらす奴が多いんだ。これがさ。
ま、作為的な床はともかくとして、壁紙に関しちゃマジできれいだと思うぞ。
油、たばこのヤニとかはなし。張り替えをしたような箇所もなし。穴が開いているような箇所もなし……。
うん、オール5の通信簿みたいだな。そのこころは、「平らで、面白くない」だ。
――あ、ちょっとちょっと。追い出す方向はなしでお願いできませんかねえ、家主さん。
面白くないこと、骨折り損に終わることこそ、世の中の平和に貢献しているのは、お前もご存じの通りだろ? これでも褒め言葉なんだぜ。
きれいな壁を維持する。気にする人と気にしない人の差が、はっきり出るところだろう。
その後者にあたる、俺の兄貴の話を、耳に入れておかないか?
アパートで念願の一人暮らしを始めた兄貴は、ポスター集めにはまるようになったらしい。
ポスターによっては画鋲必須のものもあったりして、兄貴は四角いポスターの四隅に一本ずつ画鋲を打っていったらしい。
当初はセロテープを使っていたんだが、ポスターが引力に負けたのか、おじぎをするような格好で、上の方から「びろーん」と垂れ下がった。
その際、壁紙がやわかったのか、接着面に表面部分がほんのり付着。気持ち悪いと思ってそいつを剥がしたら、今度はポスターの絵柄まで一緒に剥がれて、悲惨な状態に。
ほとんど自分のせいなんだが、兄貴は心底、むかっ腹が立ったらしい。その時からポスターは、意地でもプラスチックの頭を持つ画鋲でひっつけることにしたそうだ。
「穴を開けるんじゃ、ポスターも傷つくんじゃ? というか、そもそも借りた部屋でいいの? それ?」と尋ねたものの、兄貴が言うには「あの屈辱に比べたら100倍はましだ」とのこと。自分が「こうだ」と信じたものに関しては、意固地なんだよなあ、兄貴は。
たとえ裏面に両面テープが貼ってあって、表面さえ剥がせばオッケーなものでも、あくまで画鋲。
そして兄貴の中での流行は移り変わりが早い。ひとつのポスターが飾られているのは、せいぜい長くて二ヶ月程度だったとか。
住み始めて、もうじき一年が経とうとしていた頃。
また兄貴はイベントでゲットしたポスターを、部屋の貼ろうとスタンバイをした。
貼る場所はいつも決まっていて、布団などがしまっている押し入れの脇の壁。毎晩、布団を引っ張り出す時、目にする位置らしい。
壁にはすでに無数の穴が。剥がれることを嫌う兄貴は、たとえ差し込みやすいとしても、一度使ったものは使わない。新しい傷を壁に向かってつけ出す。
ポスターを貫いた画鋲を、ぐりぐりと壁へ押しつける兄貴。ネジのように同じ方向へ回し続けるのではなく、右へ左へ回ったり戻ったりを繰り返し、力を込めていく。その力をガソリンにして、未開の地を掘り進んでいく画鋲は、なんとも勇気あふれる開拓者だ。
自分のたどり着いた場所こそが、そのまま世界の端と化し、角となる。
その立ち位置。まさにたった一つの頂点という奴だ。ロマンを追う者として、なんとも胸躍る設定じゃあないか?
――おっと、話が逸れたな。
そうして、ポスターの貼り付けを終える兄貴。今回はいつもにも増して手こずった。
額に浮かんだ汗を拭いつつ、無数の穴が開いた壁を今一度、見つめてみる。
何ヶ月も前にこさえたものから、つい最近まで作ったものまで、もはや時期はぼんやりとしか分からない。だが、その穴同士の間隔は、狭かったり広かったりと、ほどよくばらつきを帯びている。
「お空に浮かぶ、星座のようだな」と兄貴は思ったそうだ。
意図せずして生まれ、そこにあるものを、何かに関連付けて考えにふけるのは、古来より人間が続けてきたこと。やはり人は偶然や運命の流れって奴を解き明かし、自分でコントロールしたいと思ってしまうんだろうな。
ひとまず作業を終えて、ご満悦の兄貴。その日はようようと、床に入ったそうだ。
次の日。珍しく、兄貴は目覚ましがなるより30分ほど早く目が覚めた。いつもだったらぎりぎりまで二度寝をするところだったが、その時は雨戸を閉めなくなった時期。カーテンの隙間から漏れてくる陽の光が、壁紙と同じものが覆う天井の一部にかすかに差した。
そこに、小さい穴がたくさん開いている。ちょうど昨日、ポスターを貼る際、目に留めたものと同じようなものだ。
でも、兄貴は天井にポスターを貼った記憶はない。一年近く暮らしてきて、気づかないということも、まず考えられない。
もしや、と兄貴は体を起こし、押し入れのはす向かい。自分が頭を向けている壁にも目をやってみる。そこにはすぐに着ることができるよう、制服が何着かハンガーを通され、帽子掛けに引っかかっているばかり。のはずだった。
だが、制服に隠されていない部分の空白。そこにもやはり、昨日はなかったはずの、穴がぽつぽつと……。
もちろん、兄貴はこちら側の壁に画鋲を突き立てた記憶はない。
――誰かに開けられた? まさか、眠っている間に?
自分の部屋へ誰かを上げた記憶はない。ましてや、昨日だって始終、一人だけで過ごしていた。
可能性があるとしたら、寝る前にするはずの、鍵の閉め忘れ。この一年間の間で、うっかり数回ほどやらかした。幸い、これまで誰かが入り込んだ形跡は見当たらず、現金を初めとする貴重品も盗られてはいない。
今まではそうだった。だが、その事実はは、これからも同じであるということを、保証してくれるものじゃない。兄貴はパジャマのまま、のそのそと歩き出したんだ。
その動作が、兄貴の命を救った。「どん」と壁を叩くような音が背中からして、兄貴は振り返る。
先ほどまで自分が頭を乗せていた枕。その上スレスレを、注射器のような細い針が突き通っていた。
針はとても長く、壁から布団の端まである。あのまま二度寝を続けていたら、頭から尻まで突き通り、最後の眠りになっていたかもしれない。
すぐに察した兄貴は玄関へと駆け出そうとするが、向き直った瞬間、目前の視界を紙一重で突き通った針に絶たれて、ブレーキをかけざるを得なくなる。かがんで潜ろうとすると、待っていたかのように、丸まった背中のすれすれを、何かがかすめていく感触が。
なぶられている。兄貴は肌が粟立つのを感じながら、できる限り音を殺しながら、玄関までの十メートル足らずをのろのろと進んだ。
自分の近く、遠くを問わず、次々と針は突き通る。その思い切りのよい貫き方は、見てかわすことなど、とうていできそうにない速さ。直撃しないことを祈るよりない。
床には穴が開いていなくて、そこから針が出る気配はなさそうというのが僥倖といえた。でも、それは油断させる策かもしれず、とどまる理由にはならない。
仮に四つん這いになったとしても、横の壁に開いている穴の位置は、完全に自分を蜂の巣にできそうなくらい、抜かりなくはびこっているのだから。
ようやく玄関ドアにたどり着いた時、すでに部屋の中は束ねた針金細工を思わせる様相だったとか。
夢中でドアを開けて、外に飛び出た兄貴。だが、本来だったらコンビニを見下ろし、その先に延々と立ち並ぶ民家を収める景色は、そこになかった。
兄貴の目の前を埋め尽くすのは、巨大な唇。その合わせ目の一部だけだったんだ。
やおら開いた、とがった歯で埋め尽くされた口内が、音をつむぐ。
「飛び出た。飛び出た」
町内放送のように大きく響く声。巻き起こる風にひるんだ兄貴の体が、自然と持ち上がり始めた。
必死に手足をばたつかせるが、自分が立っていた通路は遠ざかっていく。目の前の唇は、なお途切れることない大きさを誇っている。
せめて顔だけでもと、見上げかけたところで、ぽんと身体が投げ出されて背中に衝撃。どうやら屋根の上に放り投げられたようだった。
しびれる身体。かろうじてよじった兄貴が見たのは、四方八方から針を刺されている、自分のアパートの姿。その先はいずれも、自分が使っているようなプラスチック画鋲によく似た、頭部を持っていたという。
思わず目をまたたかせた時には、もう針も唇も消えていた。眼下のコンビニでは、いつものように何台かトラックが停まり、車内で肉まんを頬張っている運転手の姿がちらほら。
そうっと屋根から降り、部屋の中をのぞき込んでみる兄貴。あの無数の針はやはりなく、壁の穴も自分が開けたものを残して、消え去っていた。ただ、針が身体をかすめた痛がゆさだけは、確かにある。
そしてその日、アパートで騒ぐような人は誰もいなかったらしい。
兄貴はすでに引っ越しをして久しいが、件のアパートはすでに取り壊されて、残っていないのだとか。