第三話
赤と黄色で敷き詰められたのを、ざくざくとかきわけていけば、多少余裕が生まれてきました。太陽の下では、あんなにきらめいていた景色も、しっとりとした夜に吸い込まれて、今は眠っているようでした。
ざ、ざ、ざ、ざ、と靴の音だけが辺りに響いています。
ようやく、遠くのほうに明かりが見えました。あれは、確かクラスの誰かが住んでいたような、古びたアパートで、ほら、部屋の灯りも、ぽつぽつと並んでいるでしょう。
あのようにか細い光ですら、道しるべとなり得るのです。一人で歩くには、少々勇気のある道ですから。しかし、私はこの道が好きでした。湿った土のにおいも、柔らかい地面もなんて心地いいのでしょう。これこそが、私の知っていた世界のありようだと思えるほどです。
しかし、今日は寒い日でした。だからか、鳥も、虫も、草も、人も、なんだか静かなようでした。着ぶくれしたアウターの下が汗ばんでいて、身体はこんなに暑いのに、風がひどく冷たい。……
ようやく森を抜ければ。このすぐ先には、公園があるのです。遊具がすべり台しかない、小さなものが。それでも幼少のころにはよく遊びました。でも今は、もう遅い時間ですから、もちろん、誰もいないようでした。
ああ、そういえば、今日は誰にも会っていないような、家族も、クラスメートも、友人も、子供も……ただ一人、あの人を除いて。
「ああ、こんなところにいたのですね」
後ろから、声が聞こえました。
聞き覚えのある、あの声が。
私は慄然としました。どうして、足音なんて聞こえなかったのに。
「さあ、話の続きを」
「もう話すことなんてありませんから」
「どうでしょう、ね、みてください。今日は月がとても綺麗。それに、ほら、空もあんなに遠いです」
「それがなんですか」
「そこのすべり台の柱には蔦が絡んでいるでしょう。わかりますか、もう少し成長したら、きっと実がなります。大きくて、ぐらぐらしていて、とっても甘い。そして真っ白な粉がかかっているのでしょう」
「それがいったい……」
「特に理由はありませんよ。それで十分じゃない」
「意味がわかりません。どうして私の居場所がわかったんですか。これ以上付きまとったら、通報しますよ」
「意味もないのに、ここには私とあなたしかいませんから。それに、離れろだなんて、とっても寂しいことをいうのね」
「もういいです!」
結局、取り合うだけ無駄でした。私は携帯を取り出して、急いでロックを解除しようとしました。彼女はそんな私をじっと見つめたまま、微笑を浮かべていました。
「ああ、彼女の言葉に意味はありませんよ」
それなのに、思うように指が動きません。ですから、電話することを諦め一目散に駆け出しました。バッグがガチャガチャと不快で、マフラーもほどけてしまったから、抱えて走りました。息がこんなにも辛い。胸が苦しい。今にも足がもつれてしまいそうでした。一体彼女は何者でしょう。いや、余計なことを考える暇なんて。
得体のしれないものをひしひしと感じながら、走り続けました。
しばらくもしない内に、玄関についた私は、かじかんだ手でカギを差しいれ、部屋になだれ込むと、急いでチェーンを閉めました。
呼吸を整えようと息を吸い込んだら、思い出したかのように汗が噴き出して、涙が勝手に滲んできました。
一呼吸するごとに感情の波が襲ってきます。ごちゃまぜになった飛沫が、目指すところのないまま、私の心をかき乱して、かってにはねていくようでした。
机の上にブレザーを脱ぎ捨て、清潔な寝間着に着替えました。洗ったばかりとはいえ、なんだか懐かしいにおいがして、いくらかましになりました。
もうこれ以上できることはありませんから、最後に小窓や玄関のカギを確認してから、布団に身を隠しました。目深く、そうでもしないと、彼女が入ってくるようで、恐ろしかったのです。
通報はしませんでした。受話器を持ち上げた瞬間に、なぜだか彼女の声が聞こえてくるような気がしていたのです。
じっとして、静かになればなるほど、不安は膨らみました。
身動きすら満足に取れず、あのドアを思いっきり叩かれたら私は死んでしまうかもしれません。……
――シィィィィ……ィィイイイィ…………ィ――
もう、夜も更けました。
――シィィィィ……ィィイイイィ…………ィ――
真夏のセミのようにどうしようもない喧騒が私を襲っていました。
――シィィィィ……ィィイイイィ…………ィ――
そう、その喧騒に耳を澄ませば、なんだか声が聞こえてくるのです。
――シィィィィ……ィィイイイィ…………ィ――
それは、頭から手が伸びてくるようでした。ずぶりと、あの白魚の手が、細長い指先が私の髪をかき分けてやってくるのです。駄目だ、駄目だ、と思っても止まることはないのです。
やはり聞こえてくるのです。鈴の音のような……彼女の声が。