第二話
「はあ……あなたは?」
「なんでしょう」
「あなたの名前は?」
「私の名前など関係ないじゃありませんか」
「もう寒くなってきましたし、手短にお願いします。あなたが名乗ってくれれば私も付き合いますから」
「知らなくても話は聞けるじゃありませんか」
「いや、それだとなんだか……気持ちが悪い、です」
彼女はどうやら考え事をしているようでした。彼女がその顎先に手を添えれば、肩にまでかかった黒髪がはらりと落ちました。
「ええ、そうですね。そうですか。なんだかあなたは気難しい人のようですし、なら私のことは×××とお呼びください」
「×××ですか」
それが彼女の名前のようでした。本名なのか、そうでないのか私には判別つきません。悪い名前ではありません。どころか、なんだか懐かしいような。そう、名前を知ったその瞬間から、なぜか、彼女に親近感を覚え始めていたのです。
「満足しましたか、琴美さん。それでは話を戻しましょう。祈りは好きですか」
彼女は再三にわたってそのことを問いました。
しかし、祈り……正直、意図が分かりませんでした。
こうしてまで私に聞きたいこと、彼女のいう祈りとは何でしょう。なぜ祈りなのでしょう。先ほど彼女がいっていたように、宗教勧誘ではないのでしょうか。だとしても、なぜ。
「意味がわからないです」
「わかりませんか。祈りです。とても大切なこと。なら質問を変えます。あなたにとって祈りとはなんでしょう」
「私にとって……それは、神様に対して、平和にして貰えるように祈ったり、勉強がうまくいくように祈ったり、みたいな、願いを叶えてもらうことですか?」
「ええ、ええ、そうですか。そうともいえますね」
「はい、そうだと思います。これで、いいですね。良かったです」
「ねえ、本当にそう思いますか」
彼女は不服なようでした。
辺りはますます暗くなっていました。それなのに、彼女の雰囲気はより濃密になっています。きっと彼女の存在がこの夜を生み出すのだろう、と妄想してしまうほどに。
「そう言われても、祈りなんて考えたこともありませんし」
そういった言葉とは裏腹に、私の鼓動はどんどん速くなって、もう完全にかじかんでいた指先ですら無理やり広げられました。
「失礼しました。なら、願いはありませんか」
「願い。仮にあなたに言ったとして、それが何になります」
「あなたならその願いを叶えられますから」
「私が……?」
「はい! そうです。そう、神様はいると思いますか」
彼女は嬉々としていました。
「はあ、いるのではないでしょう」
「その通りです」
「それで、どうして私に叶えられるのですか。私には何も力はありませんよ。それに叶えたい願いだってないのですから」
「それは違います。そうでなければ私はここにはいませんから」
「どういうことですか?」
「どうもこうもありません。私がここにいる理由、あなたと話している理由、それはあなたが生み出しているからでしょう。望んでいるからでしょう」
そういって、彼女はずいっと近寄ってきました。幸せそうな笑みを浮かべながら。そうしてみると、彼女は案外幼い顔をしていて、もしかしたら、私と同年代なのかもしれません。
「え、それは、あなたが話しかけてきたから」
「ああ、私は怖いのです。不安なのです。行く末が、何をすればいいのでしょう。あなたならわかりますよね」
「私、知らないです……あなたのことも、どうして私にそんなこと聞くんですか」
「ああ、神様。私を導いてください! 私の神様! あなたの力になりたいのです。あなたの助けになりたいのです」
彼女は天を見上げると、がっくりとうなだれました。ふんわりと桜のにおいがすれば、その顔は髪に覆われて、それっきり、言葉も発しませんでした。
「どうして、私なんですか」
返事はありません。それでも、私は話しかけることにしました。ここでやめてしまったら、大切な何かを取りこぼしてしまうようでしたから。
「あなたは一体誰なんですか……」
彼女はピクリと震え、ゆっくりとこちらを見ました。
じっと、こちらを睨むでもなく、私の少し後ろを見透かしているように。そして、ゆっくりとまばたたきをしました。
ただ、やはり何も言わないのです。微動だにしないのです。
ああ、なんて怖いのでしょう。彼女の仕草が常人のそれではないと気づいたとき、私の頭は酷く痺れました。
そうすると彼女は、しっとりと濡れた口角を、にんまりと上げたのです。先ほどの、花が咲いたようなものではない、悪戯めいた笑みでした。
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
その表情を見て、その言葉を聞いて、きっとこの人は狂っているのだろうと思いました。彼女は虚ろでした。
ずりずりと距離を詰めてきて、早くここから離れなければ、そう思うと、じっとりとした汗が背中を伝うのです。
「もう帰ります! それでは」
私はその場から立ち去りました。踵を返し、振り返ることもせず、足早に、いつもの岐路を辿りました。家はここからそう遠くはありません。
彼女が追いかけてくる様子もなかったので、ひとまずは安心しました。ただ、かろうじて平静を装うことはできていましたが、内心は今にも走り出したい気持ちでいっぱいでした。
それなのに、脚は思うように動かない。
切れかけた外套のジジジジといった音を聞いていると、知らない街に来たような、そんな感覚に襲われてしまうのです。
気付けばもう森の入り口でした。
ここから先は真っ暗でなにも見えません。でも、そのずっと向こうに私の家があるのです。
暗闇は不安にも駆られます。しかし、その鬱蒼とした中にも、時には踏み入らなければなりません。何があるかもわからない、一寸先も見えないこの暗闇こそが、安心を与えることもあるのです。何よりこの暗闇は近道でもあって。……