第一話
気が付けば、帰り道にある、何の変哲もない下り坂を歩いていました。
舗装もされていない、むき出しで、ふかふかした地面に、少し湿った樹皮のにおい。
早めにまいたマフラーは歩くたびに上下して、スクールバッグの紐をひしと握りしめた私は、前へ前へ引っ張られるように歩いていました。
この坂を下るには、私の身体はちょっと軽い。
それにしても、私はなぜこのような場所にいるのでしょう。今日なにをしていたか覚えていませんでした。もしかしたらなにもしていなかったのかもしれません。
そしたらここは夢の世界なのかしら、そんなことを考えていました。
そうしている内に、足元はコンコンと音がなる鉄板になって、じゃりじゃりとした感触が混じり、視界が開ければ、そこはもう橋の上でした。
右手側には田園が見えていて、足下には川が流れていました。
辺りは清涼な水のにおいに包まれ、つんざくような蛙らの鳴き声は、そこかしこから漏れ出る水の上をすべりました。
とても大きいのに、心地の良い音色です。雑音をかき消す音ともいえるのでしょうか。決してうるさくはありません。
ふと振りかえれば、空は広く、あの小山のてっぺんに学校が見えました。そのふもとからそこまで森が連なっていて、もうあんなに遠い。ちょうど、薔薇のように赤い光線が、地平線の彼方へ流れていくところでした。
欄干に手をのせれば、ざらっとしていて、それに少し冷たい。ひゅうと風が吹けば、熱っぽくなっていた両足が途端に冷えていきました。
少しの間、ここで休もうと思いました。私以外に生徒もいませんから。
一呼吸おいて、ゆったりすれば、こんなに雑多としている世界にも、つかの間の休息が与えられたようでした。
もう沈もうとしている夕日を見据えれば、それを遮蔽する木々の陰ですら、なんだか懐かしく、哀愁を帯びているようで。……
そんな時、私はふと呼びかけられたのです。
それは長い黒髪の女性でした。知り合いではありません。黒いような、赤いような、とても深い色の服を着ていました。
「祈りは好きですか?」
彼女はそういいました。
鈴の音のように聞き心地のいい声でした。
「祈り……」
「そう、祈りです」
一体この人は誰だろうと、頭をひねり上げても、痛いだけで。
「どちらさまですか」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。あなたの名前は何でしょうか」
彼女は新手の宗教勧誘でしょうか。単なる変質者でしょうか。その服装をみるに、葬式帰りの方かもしれませんし、どれも違うように思えます。
なによりも、黒々としている、その瞳が印象的でした。
「私の名前、ですか。あなたの名前ではなく」
「だって、私の名前など関係ないではありませんか」
「それでも、あなたから名乗るべきでしょう」
「いいえ。あなたが、あなたの名前さえあれば、それで、いいじゃありませんか」
頷きながら、彼女は言います。ますます話が通じていないようでした。失敗です、話しかけられたその瞬間、初めから無視するべきだったのです。
それなのに、彼女に付き合ってしまうのは、どうしてでしょう。
彼女の瞳を見てしまうのは、どうしてでしょう。
それほど魅力的だったのでしょうか、いいえ。
とにかく、そういった気分であったのです。
「そうですか……私は琴美といいます。それでいいんでしょう」
「ああ、琴美さんですか。ありがとうございます。それでは、私の話を聞いてくれますか。どうか、お願いしますから」
「宗教勧誘ならお断りです。私は無宗教なので、別の人をあたってください」
「いいえ、私は宗教勧誘などではありません、どうか、お願いします。少しの時間だけでもいいんです」
「家に帰りたいのですが」
「それでも」
視線をそらせば、先ほどまでの光線はもう消えてしまっていて、辺りは暗く、青々とした夜色が這い出ていました。あの紅葉もすっかりくすんでしまって、ああ、せっかくの夕焼けも見納めでしたのに、季節柄か、夜が近いのでしょうか。だからこんなにも寒くて、かじかんでしまいそうなのですね。
すると、街灯が次々に点いていきました。
「どうか、どうか、お願いします」
ぼうっと照らされた彼女の顔、さほど関心をむけていなかった彼女は今、震えているようで、かわいそう。
ただ、もう眠気と疲れが私を襲っているのです。
それでも、宗教勧誘などではないといった、彼女の言葉がひどく気になりました。
もう少しだけなら、いいでしょうか。
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