反転の国のアリス
「特別になりたいな…」
有栖 定萌。
社会人3年目。何事もそつなくこなす普通の美容師。
「普通になりたいな…」
不知 意都奈
定萌の同期。ケアレスミスと遅刻が目立つ美容師。
「その願い、叶えてしんぜよう」
彼女達の願いは唐突に叶えられた。
「なにこれ!?」
知らない部屋で目が覚めた定萌は、思わずそう叫び、部屋を飛び出した。
部屋の外は、リビングになっており、ドアが2つついていた。
片方のドアをそろりと開けると廊下になっており、もうひとつのドアをそろりと開けると部屋になっていた。
そして、その部屋のベッドには人が寝ていたが、定萌がドアを開けた音に気付いたのか、寝返りをうった。
「意都奈!?」
「んー、定萌ちゃん…?」
ぼんやりとしてる意都奈を叩き起こし、定萌は、リビングへと連れ出した。
そうするとどうだろう、先程まで無かったはずの封筒がリビングのテーブルの上に置かれていた。
「なにこれ…?」
警戒しつつも開けなければ始まらないため、定萌は封筒を開いた。
封筒の中には、「二人の願いを聞いて反転社会に連れてきたよ。就活頑張ってね。by神様 」と短く書かれており、読み終わると通帳が現れた。
通帳には100万入っており、とりあえず当面の生活は出来そうであった。
うだうだと受け入れがたい現実を悩みたい心もあったが、お金は確実に減る以上、悩む前に就活を始めなければいけない。
「反転社会って何が反転してるんだろうね?」
意都奈との買い物の帰り道、特別違和感を感じることもない社会に意都奈は首を傾げていた。
「さぁ?何だろうね?」
家は、2LDKで家賃10万程度。
防音性が高いのか隣の部屋の音も外の音も聞こえない。
食器洗い機洗浄機や洗濯乾燥機、自動掃除機等が完備され、反転前より発達してるのが特徴的だった。
良い家の筈なのに随分と家賃がお手頃だと定萌は訝しんでいた。
「とりあえず、仕事を探そう」
ご飯を食べ終わった二人は、各々で求人サイトを探した。
「よく分からない世界だし、職場は同じにしよう」
「うん、いいよ」
求人サイトに条件を記入して絞り混んでいく。
「ここかな」
「だね」
二人の希望に沿った美容室が見つかった。
休日:週休2日
勤務時間:9時半~18時半
休憩時間:1時間
残業代(時間外手当て)あり
有給あり(内6日を長期休暇で消化)
稀にみる好条件だが、二人は首を傾げていた。
「なんかどこもこんなんだよね」
「勤務時間の早いか遅いかの違いというか…」
「まあ、期待せずにいよう」
反転前の美容室では、週休の条件は守られても(会社によっては撮影の仕事などで守られないし、元々隔週2日の店もある)、勤務時間は=で営業開始~受付終了時間で労働時間の目安にしかならない。
もちろん、受付終了時間で縮毛矯正等が入り、+3~4時間働いたとしても残業代などでない。
有給と長期休暇は別に書きながら、お店の長期休暇(お盆やお正月)=有給消化とされるパターンも多いし、まず10日(多くて6日)も有給が貰えない事と多い。
求人サイトなど鵜呑みにするだけバカを見るのである。
その事を一度転職してやっと意都奈は身に染みて理解していた。
そして二人は店舗の見学に向かった。
「はじめまして」
そう挨拶してくれたのはオーナーだった。
「うちの労働条件は、こうなってて、カリキュラムはこうなってる。質問ある?」
労働条件の詳細とスタイリストになるための練習のカリキュラムが書かれた紙を見て、二人は目を見張る。
「え!?営業時間、10時から18時終了なんですか!?」
「確か、求人サイトでは9時半から18時半って書いてあった気がするんですが…」
「?何を言ってるんだ…。9時半から18時半まで仕事をしたら掃除が出来ないだろう。
労働時間は休憩時間を除いて1日8時間まで、週40時間までだ。会社の掃除を労働時間外にするなんておかしいだろう。
ああ、もしかして前の会社は営業前か後に清掃会社を雇ってたのか?」
「えっと…そうです」
とりあえず話を合わせるために定萌は、イエスと答えながらも戸惑っていた。
確かに何かおかしい。
労働基準法なんてあってないようなもののはずなのに…。
何よりそれを厳守しようとしてるこのオーナーが変わってる。
変な店に当たったなと内心、萎えていた。
「この固定残業代ってなんですか?」
労働条件の詳細を見ている内に見慣れない単語が出てきた。
「ああ、これはスタイリスト限定で、希望者は1日に2時間半営業時間を伸ばせる制度だよ。
希望者のスタイリスト以外は労働時間外だから帰って良いからね」
「おお…」
要するに18時半を越えたらお客様が居ても帰って良いということだ。
反転前なら仕事がなくなってもお客様が帰るまでは帰れなかったのが嘘のようだ。
「あの、カリキュラムの1ヶ月で合格出来なかったものは後回しってどういう事ですか?」
「普通に得手不得手があるから、ムダに不得手のものの習得に時間をかけるより、他の技術を平行して教えて、不得手のものもカリキュラム終了時に終わってれば良いってだけだよ」
「な、なるほど…」
なんとなくぐにゃりとした違和感を感じつつも定萌がそれを確信することはなかった。
その後に2つ、3つ他の店舗を見学したが、定萌の言い知れぬ不快感は増すばかりだった。
「やっぱり最初のお店が良いな」
これ以上就職に時間をかけるわけにもいかず、最終的には意都奈の気に入った一番最初のお店へ二人で就職することが決まった。
それから3ヶ月。
定萌は辟易としていた。
「なんであんなことしたんだ?」
「申し訳ございません」
「謝って欲しいわけじゃないんだ。理由を聞いてるんだ」
「お客様が咳をされてたので…」
定萌は訳が分からなかった。
お客様が咳をしてたから、飲み物がいるか聞いただけでなんでこんなに怒られるのだろう。
咳をするということは、喉が乾燥しているかもしれないから気を利かせて飲み物を渡すなんて、接客業の常識ではないのか…と。
「咳をしたからなんなんだ」
「え、だから、咳をしたから飲み物が欲しいかなって」
「なんで咳をしたからって飲み物が欲しいと思うんだ」
「え、その喉が乾燥したのかなって」
「お客様がそう言われたのか?」
「い、いえ…」
「なら、なんで飲み物を聞くんだ。お客様が困惑してただろう」
「すみません…」
「お前のその思い込みの激しいところ治した方が良いぞ。お客様はお前じゃないんだ。お前のものさしではかるな。飲み物が欲しかったら言われるから」
「はい…」
この3ヶ月で定萌は、反転の現実にぶつかっていた。
反転前は、そつなく仕事をこなしていたのは定萌で、ケアレスミスや遅刻を連発して周囲を困らせていたのは意都奈の方だった。
だが、反転した事でその現状すら反転してしまったのだ。
「意都奈、後よろしく」
「はい」
ケアレスミスや遅刻を連発していた意都奈は、こちらに来てからその頻度が極端に減った。
まず、小さなミスや遅刻、掃除が苦手なのは女性あるあるで、マイペースさや寛大さこそが女性らしいとされる社会で、意都奈のケアレスミスなど普通で、ミスですらないのである。
もちろん、お客様の女性もケアレスミスを頻発する人達なので、意都奈のケアレスミスなど気にならない。
その上、カラーの台にはカラーの手順が、パーマの台はパーマの手順が事細かに書かれた紙があり、それはお客様にも渡され、ケアレスミス予防に繋がっている。
遅刻も30分から1時間前に来るように言われているため、30分から1時間程度の遅刻は遅刻にカウントされないのである。
「意都奈、もうそろそろ帰ろう」
営業後の練習を1時間したところで、定萌は隣で練習していた意都奈にそう言った。
「あー、…うん」
少し迷ってから意都奈が頷くと定萌は、さっさと片付けを始めようとした。
だが、それは先輩の声によって止められた。
「別に不知が良いなら良いんだけど、有栖はもうちょっと一人で行動できた方が良いよ。子供じゃないんだから」
「え…」
「大丈夫です。先輩、私、定萌ちゃんと居るの嫌いじゃないんで」
「あ、そう。それならごめんね。余計なお世話だったよな」
「いえ、大丈夫です。行こう、定萌ちゃん」
お店からの帰路、不思議な沈黙が二人を包んでいた。
「ごめん、私、迷惑だった…?」
「ん?え?全然。逆に前の世界で話しかけて、一緒に居てくれて嬉しかったよ。一人は嫌いじゃないけど、集団の中で一人になったら流石に虚しさとかあったし。
だから恩返し!」
そう言って朗らかに笑った意都奈に少し心が救われた気がした。
「有栖って多分発達障害ですよね」
「こら!発達障害じゃなくて均一的発達脳だろう!」
「あ、すみません」
翌日、スタッフルームの扉を少し開けた時に聞こえた言葉に有栖はギョッとした。
可もなく不可もない生活を送ってきた自分が発達障害だと信じられなかったのだ。
「勝手にお客様の気持ちを想像する所とか絶対にそう」
「まあな。別の人間なんだから違う考え方をしていて、違うものの見方をしていて、違う捉え方をすることがなんで理解出来ないんだろうな」
「均一的発達脳の特徴ですよね」
なにソレ!?
驚いた有栖は、ケータイを取り出すと、急いで「均一的発達脳」を検索した。
均一的発達脳
・均一的に発達しおり、脳の偏りが足りない。
・幼少期から拘りが少なく、周りに合わせようとする傾向が強い。
・女性に多いと言われているが、男性は女性に比べて拘りがあるために見落とされ、社会に出てから上手く馴染めずに発覚する場合が多い。
・一貫性のない言動が多く感情的で、状況によって言葉の解釈を変えるため論理性に欠ける。
・発言も曖昧な言い回しを多用するため、意思の疎通が難しい。
・他者に対して干渉的で拘りに対しての理解が著しく低く、批判的。
・他者を傷付ける発言を冗談として使う傾向が強い。
・拘りが少ないため、寛容になり、他の人と上手い具合にハマった場合、先を読んで行動するため、最高のアシストになれる。
「なんだこれ…」
その時定萌は、やっと反転世界の意味を理解した。
ADD、不注意優勢型の発達障害の意都奈は生活しやすいはずである。
この世界は、発達障害と定型発達の多数派が反転した世界。
拘りが強く、規定に従順で、嘘や虚勢を嫌い、端的な物言いをするのが普通で、拘りの違いから理解し合うのは不可能なのを理解し、相手の拘りの妨げにならないために干渉を減らし、白黒ハッキリしたものを好むため、規定に従順で発言が端的な世界。
何故そんなにムダに拘るのか、何故そんなに効率無視の従順さを持つのか、何故周りに自分をよく見せようと思わないのか、何故相手を想って柔らかい言葉で言えないのか、定萌には理解出来なかった。
それと同時に理解した。
ぼんやりとして、的外れなことばかりする意都奈に「しっかりしな」って何度も伝えたが、「しっかり」など出来るはずもなかったのだ。
反転前の世界でしっかりしてた定萌でさえ、反転した世界では、拘りの持てない集中力もアイディア力もない、すぐ手を抜くサボり魔で、理解の出来ない嘘をつく、何が言いたいのか分からない人間になってしまうのだ。
そして、「天然」で「不思議ちゃん」な意都奈は、仕事をそつなくこなす、可もなく不可もない普通の人になった。
意都奈は意都奈なりに「しっかり」しようと頑張っていたのだ。
理解不能な思考回路を多数派だからと「常識」「普通」と押し付けられて、全く違う思考回路を理解出来ないまま「常識」「普通」と記憶する。
1言って10出来る筈がないのだ。
全く理解出来ない「常識」「普通」を自分の思考回路によってもたらされた「常識」「普通」を殺して、ムリヤリ結論だけ納得しているだけなのだから。
その立場になってやっと定萌は理解出来た。
自分の思考回路を否定される苦しさを。
自分の思考回路を異常だと言われる苦しさを。
真面目にしているのに評価されない苦しさを。
気遣いなど「結論」を覚えない限り少数派には出来ないのだと。
同じ思考回路でなければ「気遣い」など「余計な事」にしかならないのだと。
「普通に戻りたい…」
自然と定萌の口からそんな言葉が漏れていた。
「その願い叶えてしんぜよう」
数ヵ月前に聞いた言葉が甦った。
「戻れるの…?」
「もちろん、望むならば」
その言葉に喜んだ定萌は、意都奈の部屋に駆け込んだ。
「意都奈、意都奈!元の世界に戻れるって!」
「え…」
喜びのあまり飛び跳ねる定萌を横目に意都奈は絶望だと言わんばかりに顔を真っ青にして震えだした。
「え…?」
その反応に定萌も熱が冷めて唖然とする。
「っ…、嫌だ!私、戻りたくない!!」
それは始めて聞いた意都奈の叫び声だった。
「いと、な…」
「ごめん。でも嫌なの!またあの世界に戻って、天然だって笑われながら良い個性だよ、なんて訳のわかんないこと言われるの嫌なの!
こっちに来て、普通に仕事が出来るようになったし、周りも私の言いたいことを理解してくれる!
なんでわざわざ理解者の少ない向こうに、足手まとい扱いされる向こうに戻んないといけないわけ!?
定萌ちゃんには悪いけど、私は戻んないよ!」
「あ…」
どうして分からなかったんだろう。
定萌が多数派になれる元の世界に戻れることを切望したように、意都奈も多数派になれるこの世界を切望していたのだ。
定萌が少数派の世界で絶望したように、意都奈も少数派の世界で絶望していた。
「それが答えか?」
「はい!」
「そうか」
神様の質問に力強く意都奈が答えると定萌の身体が薄れ始めた。
「待って!待って!」
「ごめんね、定萌ちゃん。元気でね」
「意都奈!!」
定萌の姿は完全に消えてしまった。
「意都奈…」
「あの娘の望んだことだ受け入れろ」
元に戻った世界で意都奈の事を知ってる人は誰一人居なくなった。
そして、定萌は、言わなくても理解し合える世界に戻り、安堵した。
もう、2度とあんな世界迷い込みたくないと心の底から思ったのだった。
作中で書けなかった設定。
防音完備
・音に過敏な人が多いので相当のボロアパートじゃない限り整ってる。
食器洗い機、洗濯乾燥機、自動掃除機
・家事が苦手な女性が多いので反転前の社会より高性能。
・室内洗濯機置き場レベルで食器洗い機置き場もある。
・ヒロイン達の仕事が美容師なのは、作者がOLの仕事を知らないから。