第二十七話 やっぱり動く
氷で封じられた二階中央扉。
それを背もたれにして、フロンはぺたんと座り込んでいた。
その顔色は良くない。
左側の探索を終えてここに戻ってから、なかなか動き出せないでいる。
この先が、おそらく二階最後の調査箇所になるであろう。
後少しで調査を完遂できるのに、どうして止まっているのか。
「えうぅ……。気持ち悪いよぉ……」
胸をさすりながらの呟きは鼻声。
目の端には涙の粒が見受けられる。
フロンも見たのだ。
保管されていた生き物たちの、夥しい数の亡骸を。
中には、その体を容赦なく弄くり回された個体もいて。
コロナが協力を拒むはずである。
危険な目に遭わせたくないというだけではなく。
余計なものを見せたくなかったのだ。
その可能性があることを、いつもは想定して、今回は確信していた。
フロンだって、一階で異形となった人々を見てきた。
だから、覚悟しておくべきだったのに。
……違う。慣れたつもりだったんだ……。
生き物の死骸を目にすることなんて、もう当たり前で。
生きるために殺すことも、“知っている”から。
「お姉ちゃん……いつもこんっ、ぐっ……」
胃が蠢き、中身が逆流しようとしている。
いただいた命を無駄にすまいと、フロンは全力で堪えた。
堪えている間、その肩ではユララがあたふたとしていて。
フロンが落ち着いたら、その頬に心配そうに張り付いている。
さっきからこれの繰り返しだ。
何もできなくて、さぞ歯痒い思いでいることだろう。
「――っ、はぁっ、はぁっ、はぁ……」
二階の右側奥の部屋で。
下へと続く空洞から漂った臭い。
それが何を意味するのか。
今のフロンなら流石に想像できる。
フロンが見てきた光景などとは、比較にすらならない悪夢が待ち構えているはずだ。
荒くなった呼吸を整えながら、そんなことを考えていた。
「……行かなきゃ」
震える足に力を込めて、よろめきながらも立ち上がる。
「ちょっとくらい役に立たなくて、どうするんだ」
そもそも、手伝うと自分から言い出したのに。
二階は任せてなんて言っておいて、これじゃあ格好が付かないじゃないか。
(こんな情けない姿、お姉ちゃんに見せたくないもん……!)
振り返りながら氷の封を解き、思い切って扉を開け放つ。
すると――。
「ひっ!?」
化け物がいた。
部屋の正面奥にある、大きな円筒形の容器の中。
濁った液体に満たされたそこに、化け物が浮かんでいる。
「……し、死んでる、よね……?」
いきなり近づくのは怖いので、まずは見える範囲を観察する。
人間の頭くらいの大きさの、つるつるとした丸い頭部。
編み込まれた触手と、隙間を埋めるゼラチン質で構成された、横長の胴体。
背面からその一部を晒しているのは、折り重ねられていると思しき、蝶や蛾の類の物に見える毒々しい模様の羽。
三角錐を逆さにした形状の下半身は、木の根を捩り合わせて作られている。
至る所に鳥類の嘴や鉤爪が生えていて、実に刺々しい。
体の側面から伸びているのは、植物の蔓と動物の腸めいた物。
だらりと垂れ下がったその先に、肉食獣の鋭い牙を晒す上顎が二つ。
まるで鋏みたいな状態になっていた。
「どんな混ぜ方したら、こんな形になるんだろう……」
そもそもこれは、生き物なのか。
廃棄予定の残骸を繋ぎ合わせた、ただの悪趣味な展示品なのでは――。
実際、容器の中に気泡は見受けられず、液体にも流動性が感じられない。
管理機器が停止しているので、それは当たり前なのだが。
どうにも嫌な感じがする。
その感覚は、屋敷に入った時に感じたものと酷似していた。
フロンは容器を意識しつつも、化け物の異様に奪われていた目を室内に向ける。
壁沿いに並んでいるのは前文明の機器か。
種類は様々。
フロンが知っている物は少しだけ。
どれもこれも手を加えられているのは、取り付けられた術具らしき物のおかげで明白だ。
いくつかの機器は、色とりどりのケーブルやコードで容器と繋がれていた。
部屋の中央には、大きめのテーブルがある。
その上には、ガラス容器や薬品などの道具に、整頓された資料の束が置かれている。
他は、沈黙した端末が寂しげに佇んでいるくらいか。
「そーっと、そーっと行けば大丈夫……」
余計な物には触らず、無駄な衝撃も与えず。
コードなどで転ばないよう慎重に行動して。
化け物の前を通るなんて、“絶対に”しない。
そうすれば何事もないはず。
本当は化け物を氷で封じたいけれど。
姉に屋敷ごと焼却処分してもらう際の妨げになるから、ここは止めておこう。
資料だけ回収して、機械や道具の類は氷結保護するだけだから、きっと大丈夫……。
「これでよし……」
紙の資料が多くて、本に全部は挟み込めなかった。
書き写すにしたって量が膨大。
要約しようにも、読むだけでも相当な時間がかかりそうで。
……そもそも、内容を理解できるかすら不明だけど。
というわけで仕方なく全て回収してみたら、片手が塞がってしまった。
一通り調べた結果、他に行けそうな場所はもうないようなので、まあいいだろう。
後は入り口で姉の帰りを待つだけだ。
右奥の部屋に“上”があるのかどうかについては、コロナと相談してからにしよう。
そうと決めるや、フロンはこの場から早々に立ち去ろうとする。
部屋から、半歩外に踏み出した時だっただろうか。
ピシッ、という聞き慣れた音が背後から聞こえたのは。
薄氷に亀裂が生じた際に聞こえるそれは、ガラスなどに罅が入った時のそれに似ていて――。
「な、何も聞こえてないから!」
聞かなかったことにしたフロンは、さっさと扉を閉めた。
扉越しのため、現在の規模なら罅割れの音は届かなくなったようだが。
一度綻びが生じてしまった以上、次第にその規模は拡大して音量も増していくわけで。
当然それは、フロンの耳にもはっきりと伝わって。
「ひいっ!? やっぱり動いた!?」
アレが出て来れないよう、慌てて部屋を氷で閉ざそうと試みる。
一際大きな破砕音を耳にしたのと、フロンが扉どころか周囲の壁まで氷で封じたのは同時だった。
「な、何とか間に合った……」
見るからに危険そうな化け物との交戦を、無事に回避できたと安堵するフロンの前で。
――何の前触れもなく、雷鳴が轟いた。
「うひゃあ!?」
突然の轟音に、フロンはびくっと身を竦ませる。
その拍子に体勢を崩し、尻餅を付いた。
「いっ、たたた……」
でも今気にするべきは、お尻の鈍痛ではない。
音の正体だ。
「今のは何……?」
音は似ていたけれど、こんな場所で雷なんて鳴るわけもなく。
考えられる原因なんて一つしかない。
中の化け物が何かしたのだ。
固唾を呑んで見守っていると、立て続けに雷鳴を彷彿とさせる轟音が屋敷を揺るがし――。
氷に。
罅が。
一息に。
広がって。
「う、嘘……!?」
フロンの目の前で。
扉や周囲の壁諸共。
創主の氷は、呆気なく砕け散った――。




