第二十五話 赤衣桜飾
触手は謎の粘液を撒き散らしながら、一直線にコロナに迫った。
耳元で聞こえる、じゅるっ! とした音も相俟って一層気持ち悪い。
間近に迫った触手に、嫌悪感から鳥肌が立つのを自覚しながら。
コロナは粘液まできっちり回避ないし焼却して距離を詰める。
触手の化け物はコロナを敵と見なしていないのか、とりあえず触手を差し向けてはくるものの、その本数は極一部だ。
しかも、それらを複雑に動かすこともなければ、他の行動を起こそうともしない。
だが、簡単に近づけるのかというと、そうでもない。
実働の触手よりも、待機している触手の方がずっと多いのだ。
本体に接近するほど、触手の量と密度が増していく。
どれが、どれだけ、どのタイミングで差し向けられるか。
困難になる予測に加えて、距離が詰まれば、それだけ回避のための時間的猶予も減少する。
万一大量に動かれでもすれば、回避は不可能。
コロナとしては、触手にはどうしても触れたくないので、物理的な防御も論外だ。
となると、残る手段は限られてくる。
一番手っ取り早い手段はもちろん、焼き尽くすことなのだが……。
ところがである。
この触手、凄まじい再生力と、べとべとした粘液をたっぷり有している。
腹立たしいことに、生半可な火では瞬間焼失どころか、焼き尽くすこともできそうにない。
下手に火力を上げて焼き払おうとすれば、資料どころか屋敷を崩しかねず、焼くに焼けないのだ。
「なんて面倒な……」
ひらひら舞う腰リボンにすら触れさせることなく、地道に距離を詰めていたコロナの口から、ついつい愚痴が零れる。
不本意ながら、傍目には触手と踊っているようにも見えるこの現状に、「はぁ……」と憂鬱そうな吐息を一つ。
(ん……? 踊って、る――?)
「でもこんな場所で、こんなの相手にだなんて」
いかにも嫌そうに呟き、不意に立ち止まったコロナ。
そこに襲いかかった触手が、
――火縫・赤火羽衣。
どこからともなく現れた赤い火により、瞬時に焼滅した。
コロナの肩に音もなくふわりと落ちたそれは、まさしく火で編まれた羽衣。
間もなく羽衣から、髪やドレス風ワンピースへと火が移り始める。
その火は髪や服を焼くことなく、むしろ護るように燃え盛り、触手を寄せ付けない。
熱量のせいなのか、火の揺らめきによる錯覚なのか。
スカートとリボンが、風もないのにはためいている。
対象に火をぶつけたり、対象を熱線で射抜いたりするように、こちらから直接焼こうとするのではなく。
向こうから近づいたものだけ、焼却されてもらおうという魂胆だ。
気は進まないけれど、これなら屋敷を気にせず高火力を維持できる。
「せめて、さっさと終わらせよう……」
言いながら、集中するように目を閉じ一呼吸置いたコロナは、
――火装・桜火纏旋。
上に向かって螺旋を描くように燃える、桜色の火炎を手足に纏う。
二色の火は武装というよりも、煌びやかにコロナを飾っているように見えた。
「いきます」
目を開き冷静に宣言したコロナは、触手の化け物に向かって、今度は真っ直ぐゆったりと踏み出した。
「踊り子に触るのはマナー違反だよ?」
不機嫌や嫌悪を閉じ込めた、すまし顔で冷ややかに。
小首を傾げて告げるコロナへ、しなり迫った触手は焼滅。
火衣となった服により、あっと言う間に焼き消され。
道を遮る邪魔な触手は、四肢に灯した桜火が焼き払う。
その様は戦闘のそれではない。
前に進むというルールを添えて、コロナは踊っているだけだった。
火で着飾り、火の粉を散らし、火花を咲かせ、くるりひらりと舞い踊る。
信じられない密度で、服という形に凝縮された圧倒的な火力。
ただそこにあるだけで、触れた存在を焼失させるそれこそ、コロナの踊り子衣装に他ならない。
それ故に、普段は障害物のない広い空間でしか、この衣装による演舞はお披露目できない。
例外は、結界を張るなどして周囲の存在を保護した場合と、今回のように周りの“もの”がある程度燃えていい場合だろう。
――そもそもフロン以外の人前では“そんなに”踊らないけれど。
自身の触手が次々と消える。
異変に気づいた化け物が、ようやくコロナを敵と認識。
ついに本気で迎撃するも、残念ながらもう遅い。
昆虫のそれらしい、ぶよぶよとしていそうな化け物の腹の前。
そこに、コロナはいとも簡単に迫った。
熱に晒され、化け物は不快げに呻くような声を上げた。
重苦しい重低音。
酷く耳障りな、濁りのある音が地下に木霊する。
「奇遇ね、私も不愉快なの」
大きな化け物の前、そいつを見上げるコロナの視線に、初めて憐れむような色が混ざる。
化け物は、腹にできた隙間から、こぽこぽという珍妙な音色と共に、謎の液体を排出しながら。
どことなく口めいた開閉可能な器官から、外にいる連中よりも更にぐちゃぐちゃとした、原形を留めなない異形を産み落としている。
……いや、取り込み切れなかったものが溢れ出している。
コロナに向かって触手を振り下ろしていたことが原因なのか、既にこうなっていたのか。
化け物の体は、崩壊が始まっていた。
「……もう休みなさい」
ベルトから爽やかな緑の術石を抜き取ると、コロナはぴょんと飛び跳ねた。
資料の部位へと術石を放り投げる。
それは緑の光を瞬かせてから砕け散り、風を生んだ。
軽やかに着地したコロナはそちらには目もくれず、くるっと一回転。
勢いを乗せて威力を上げた回し蹴りを、化け物の虫腹に叩き込む。
火の粉を伴いふわりと翻ったスカートが、いつもの位置に戻る頃。
送り込まれた桜火は、化け物を内側から焼き尽くし。
先んじて生まれた風は、周囲の肉塊ごと資料を切り落とした。
耳を塞ぎたくなるような化け物の断末魔を、顔色一つ変えずに聞き届けつつ。
肉塊から資料を丁寧に焼き出し、回収するべく手を伸ばそうとして、
「おっと、危ない」
その身を包み込んでいた火を全て消火。
改めて拾い上げる。
暑いのを我慢してまで残したのに、うっかり無駄にするところだった。
――捕獲対象者及び“飼育”予定地――。
タイトルを視認した瞬間、コロナの表情に安堵の色が浮かぶ。
「回収して正解だったみたいね」
資料をざっと流し読みしてから、本に挟み込む。
「ふぅ……。いつものことだけど、纏うと格別に暑いというか熱いよ……」
ようやく一息吐いたコロナは、自らを抱くように体に腕を回した。
内側からの熱で、肌がひりひりとした痛みを訴えている。
「ええっと、他に回収するべき物は……ない、よね……?」
暑さと痛みを堪えながら部屋を見渡し、他には何もないことを確認すると。
どこか物言いたげに見える異形たちの視線を背に受けながら、コロナはその場を後にした。
残る通路は一つ。
その先にはおそらく――、
「人、なんでしょうね……」
他の生き物同様、異形と化しているのか。
まだ人の姿なのか。
どちらにせよ、活動の気配だけは感じられる。
ほどなくして分岐点に到着。
一旦そこで立ち止まったコロナは、
「さっさと済ませましょう」
意を決し、最後の通路を進み始めた。
靴音を響かせながら、堂々と――。




