第十二話 水霊クラゲを焼く前に
町中を音もなく歩むコロナの編み上げブーツの底が地面に触れる度。
橙色の火の粉を散らしながら水面に立つ波紋のように広がる紅蓮が、クラゲ達をゆっくりと蒸発させていく。
急がなければ多くの人が犠牲になるが、かといって今すぐ“一つ丸ごと町ドッカーン!”というわけにはいかない。
人はもちろんのこと、物資や建物、燃やすと有毒なもの、焼却禁止指定の物質など、ピンポイントで火力を外すべき地点を予め把握しておかなければ、みんなまとめて消し飛んでしまうからだ。
これは、間違ってもそういう余計なものを焼かないようにするための措置。
――紅蓮静波。
並びに、
――橙塵炎舞。
静かに広がる紅蓮の炎波が生物他有機物を。
その炎波から舞い散る橙の火の粉が物資他無機物を。
それぞれ感知し、空間に熱を残すことで、コロナに正確な“もの”の位置を知らせる標となる。
物への影響は皆無に等しく、人以外の生き物には少し暑い程度。
肝心の人には――。
この際ちょっとくらい熱くても我慢してもらいたい。
感覚としては、熱くし過ぎたお風呂に浸かるようなもの。
目に見える症状としては、一時的に肌が赤みを帯びるくらいで、遅くとも一日あれば治まる。
コロナを苛む熱に比べれば、熱いどころか暑いにも及ばない、その程度のものだ。
感覚を研ぎ澄ませ、独自の感知の火術を可能な限り広域に展開して。
念のためそれらの位置を頭の中の地図に記録しつつ、“そのついでで燃やされている”クラゲ達について思案する。
突然の大量出現と消火の早さでもしやと思ったが、フロンの行動で今は確信している。
いくら触手を好むからといって、クラゲのそれをそのまま無警戒不用心に口へと運ぶことなど、フロンだって普通はしない。
ならばなぜそうしたのか。
決まっている。針も毒もなく安全だからだ。
「やっぱり水霊クラゲよね。ということは……」
――水霊クラゲ。
水そのものに取り憑く性質を持つ変異霊が核となり、クラゲの姿を模したもの。
形や動作がクラゲというだけで、成分は水のみ。
憑依できるだけの水がある限り何度でも蘇る、まさにアンデッド。
海で発生されでもしたら大変面倒なことになるのは確実。
なぜクラゲの形をしているのかは不明。変異霊の好みだろうか。
たまに目的の姿になり損なったらしい変な形状の個体があたふたしている。
クラゲ以外にも猛禽だったり甲虫だったり、人型の目撃例もあって。
とりあえず水霊の後に、形成された姿の名前をくっつけて呼称されている。
川から水を供給されていた水路が幾本もあり、井戸や小型の貯水池も多いため、このままではクラゲをいくら焼いたところで無尽蔵に湧き続けてしまう。
だから人を掘り返しても、火の結界で包んでおかなければ、またすぐに埋もれることだろう。
「早く水霊そのものをなんとかしないと、あっという間に町の水が枯れるわね、これ。……水源はもう枯れてるでしょうけど」
最初に現れた大量のクラゲは、町が水源としているどこかの湖や川から流れ込んできたはずである。
今頃そこは、ぽっかりとクレーターめいた穴が開いているだろう。
――水源が枯れる。最近どこかで聞いた話だ。
そういえば……。
水を使い果たし、残った体も時間経過で蒸発した水霊たちは、新たに水を求めて大地を放浪し続けるという。
「“あっち”もコイツらのせいってことでいいのかな?」
飛竜たちの水飲み場を枯渇させた犯人……いや、犯霊か。
水霊によるものだとすれば痕跡が残らないのも道理だ。
本体は霊魂なので実体はなく、他に何かしらの物理的な作用をもたらすこともない。
実体を得ても結局は水なので、行動の度にぽたぽたと少しずつ堆積を減少させていったり、徐々に気化していったりと、方々に散った水霊の実体はやがて跡形もなく消失する。
今回の水霊はクラゲ型で個体のサイズはそう大きくない。
雨でも降らなければ数日で消えることだろう。
湿度が高かったとしても、それは遠くまで実体のまま移動する――というより大半は川へ流れ出る――時間があったということになる。
結局のところ、実体を持った二、三日以内に出会わなければ発見するのは困難だ。
――そういえば。
『実体を得たところで、彼らに明確な目的などはありません。
実体を得られるようになったのはただの偶然ですからね。
彼らは朧気な記憶だけを持ち、ただあてもなく迷子を続けているだけなのです。
だから、もし見かけたらその時は――逝かせておやりなさい。もう迷うことのないように』
昔、師匠にそんな話を聞かされたのを思い出す。
「……思い出したわ、師匠。ええ、もちろん逝かせますとも」
触手で色々なところを、フロン以外には触れさせたくないところまで存分に触れられて。
びしょ濡れになり、恥ずかしい格好を晒す羽目になって。
ああ、考えただけで腹が立つ。
でも、そんなことよりもコロナは――。
「フロンなら、水なんていくらでも用意できるよ。あの娘なら、店主さんのこともあるし、この町のために、町とその水源の即時復旧も引き受けてくれるわ。夜岩竜たちの時みたいに、ね」
それは創主としての力を使えば容易いこと。
ちょっとお願いして、フロンが超特大の氷塊を創造し、コロナが火で無駄なく迅速にそれを溶かす。
たったこれだけだ。
しかし、本来創主の力は人の身には過ぎたる力。使った力の分だけ相応の反動がくる。
湖一つを満たせる水分量の氷となると、なかなかに酷なものがくる。
戦闘にさえその一割も使わないため、体が慣れていないこともあって余計に辛い。
お互いに抱き合ってすれば、かなり和らげることもできるけれど。
それでも、全く辛くないということにはならないのだ。
「私はともかく、フロンに余計な負担をかけた罪は重いよ?」
もうすぐ、もうすぐだ。後少しで選別が終わる。
「ああ、早く焼きたいなあ!」
コロナは目を細め、口角を吊り上げて笑う。
愛らしい少女の顔に、水霊への情など微塵も見つからない、残忍酷薄な悪魔のような笑顔を浮かべている。
呼応するように大気は揺らめき、踏みしめた大地からは湯気が立ち上る。
「……あ」
不意に、そんなコロナの表情が元に戻る。
ふと何かを思い出したような、そんな感じだった。
「……いくらなんでも、こんなにいるのはおかしいと思うの」
嫌悪や怒りや恥じらいでそれどころではなかったとはいえ、今更過ぎる話だった。
吸い上げた水で巨大化するならまだしも、町一つ埋め尽くす勢いで増殖中なのは、どう考えたっておかしいだろう。
超常種と化した本物のクラゲなら、無限に思えるくらい増えても不思議に思わないが……。
今町で増えている彼らは、あくまでも水霊クラゲだ。変異霊によるクラゲの模造品でしかない。
ということは、全てのクラゲには核となる変異霊が存在するはずだ。
何らかの霊が変異すること自体、珍しい事象だというのに。
どうしてこれほど多くの変異霊が存在するのだろうか。
どうして一様にクラゲになるのだろうか。
(やっぱり何かおかしい……)
自然にこうなったとは、どうにも思えない。
人とは限らないが、何者かの作為に端を発しているのでは――?
即ち、コロナが本当に報復するべき存在が他にいると。
そういうことなのだろうか。
コロナが抱いた疑問に対し、この場で唯一その答えを知り得るはずのクラゲたちは、ただ闇雲にウネウネとしていた……。




