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 ルカシスの部屋を辞したイザーラは、もはやこの場にいることさえ耐えがたいと、振り返ることもなくその場から立ち去ろうと歩き出す。


 あなたを妃に選ばなかった、私へのあてつけか。

 強情で可愛げがない。


 あの場で、あの雰囲気に流されて思わず口にしてしまったという様子ではなかった。あの言葉は間違いなく悪意を持って自分に向けられたもの。


 ルカシス様はわたしのことをそう思っていた。


 ずっと心の中で思っていたからこそ、あのような言葉が口から出た。つまり、ルカシスが呟いた言葉は彼の本心。

 愛した男性(ひと)の言葉が冷たい視線が、これまでの何もかもをいとも簡単に、もろくも崩壊させてしまった。


 泣いて取り乱すことがなかったのがせめてもの救いだ。

 が……。

 ルカシス様はわたくしのことをそのように思っていらっしゃったのか、と悲しみに打ちひしがれて泣き崩れれば、それこそ可愛げのある女だと思われただろうか。

 あの男は自分が悪かったと動揺し謝罪してくれただろうか。

 イルミネなら、あの娘ならきっとそうするだろう。だが、自分はイルミネとは違う。

 たとえ、演技であったとしてもそんな無様な真似などさらせるものか。


 しかし、イザーラはふと表情を翳らせた。

 悲しみも怒りすらも感じないと思っていたが……。

 形のよい唇にくつりと笑いを刻む。


 何を傷つくことがある。

 何を憤ることがある。

 ルカシスが悪いのではない。

 あの男を責めるのは筋違いだ。

 何故なら、あの男の本質を見抜くことができなかった、自分が愚かであったのだから。 そんな男を今までひたすら一途に慕っていたとは、何と滑稽なことであったか。

 自分が腹立たしい。

 そう思うと、もはや笑いしか浮かばなかった。


 途中すれ違う王宮勤めの侍女たちが、そろいもそろってイザーラを避けるように廊下の脇によけ、目を合わすまいと下を向いてしまった。けれど、すれ違った後、背後から聞こえてくる彼女たちのひそひそと会話を交わす声。何を話しているのかまでは聞き取ることはできなかったが、その声は好意的とはいえなかった。

 だがもし、彼女たちの前を歩く人物が未来のこの国の王妃であったなら、みなその顔に笑顔を張りつけ、こぞってご機嫌をうかがうようにすり寄ってくるであろう。

 人など、世の中などこんなものだ。

 その時であった。

 一刻も早くこの場から去ろうと歩き出したイザーラの前に、ひとりの男が前をふさぐように立ちはだかった。

 誰だと、イザーラは怪訝な目でその男を見上げる。

 陽に焼けた褐色の肌に濃い茶色の短髪。筋肉の盛り上がった逞しい身体つき。こちらを見下ろし威圧させるような鋭い眼光。腰には幅広の剣。身なりは上等だ。

 無遠慮にこちらを見下ろすその人物が、アルガリタ国第二王位継承者のダルバス殿下、つまりルカシスの弟だと知る。


 何故、ダルバス殿下がここへ? 


 驚きを胸のうちに押し隠し、イザーラは優雅にダルバス殿下に向かって礼をする。


「ふん、この女か……最近、あちこちで噂されている女とは。顔を上げろ」


 頭の上で威丈高なダルバスの声が落ちる。

 イザーラは緩やかに面を上げた。すると、ダルバスがほう、と声をもらし大仰に片方の眉を上げた。


「噂以上に美しい娘だな……」


 ダルバスの視線がイザーラの全身を舐めるように這う。


「だが、気に入らぬな。それに、男に混じって学問を学ぼうとか、剣を持って闘おうなどという女にろくな奴はおらん。女は家でレース編みでもして、とりまきどもとくだらんお喋りに興じておればよいものを。女は黙って男の言うことをきいていればいい。しかし、愚かな兄上も女を見る目だけは確かだったと誉めねばならんな。優柔不断な兄上のことだ、こんな女を妃にでもすれば尻にひかれること間違いない。イルミネとやらを選んだことは、ふん、兄上にしては珍しくも良い選択であったわけだ」


 イザーラは表情をいっさい変えず、漆黒の瞳で静かにダルバスを見つめた。


「なかなか狡猾そうな目をした女だ。腹黒さがにじみでている」


 ダルバスはにやりと唇を歪めた。


「兄上は女のおまえをこの国の官職につけると言っていた。頭のいいおまえのことだ。すべては計算のうちか? 妃に選ばれなくともこの国の官職となれば世間の、おまえに対する見方もかわるというもの。それに、おまえのような女が本気であんなぬるま湯に浸りきった兄上を好いていたわけではあるまい」


 ダルバスの手が伸び、加減のない力でイザーラのあごをつかみ上向けさせた。


「どうだ? 何か言ってみろ」


 しばしの間、イザーラとダルバスは互いの思惑を探るように見つめ合う。

 力強いその手に抗う素振りすら見せず、ましてや脅える様子もなく、イザーラはまっすぐな視線でダルバスを見上げ口を開いた。


「お言葉ですが、わたくしは官職につくつもりなどございません」


 はっきりと、そして、強い口調で言い切ったイザーラに、ダルバスは不機嫌に眉をしかめた。


「怯えてその目に涙を浮かべるかと思ったが、なるほど、いっさい動じないというわけか。だが、そんな生意気なことではこれから先、嫁の貰い手もなかろう。気の強い女は男には好かれぬ。だが、俺は嫌いではないぞ。そういう女ほど屈服させてみたくなるというもの。征服欲が満たされる」


 イザーラはわずかに眉宇をひそめた。


 嘆かわしい。

 この男が本当に尊き王家の血をひく者だというのか。

 それに……。

 おまえごとき男に支配されるわたしではない。


 はじくようにイザーラのつかんでいたあごから手を離し、ダルバスは鼻白む。


「わざわざおまえを見に来たかいがあったというもの」


 楽しませてもらったぞ、と言い残しダルバスは身をひるがえして去っていった。遠ざかっていく、その背中を食い入るように見つめ、イザーラはきつく唇を噛みしめた。



 ◇



 その夜、自室のソファーに深く腰をかけ、イザーラは老婆から貰った小さな瓶を、長い間指でもてあそんでいた。瓶の中の透き通った液体はまるで水のようで、何度見てもこれが本当に毒だとは信じがたい。

 たった一滴で人の命を奪い取る毒薬。

 イザーラはくつくつと細い両肩を震わせ笑った。


 それにしても、王家に生まれた兄弟は揃って愚鈍だな。

 そのとてつもなく愚かな男たちに、このわたしは侮辱を受けた。


 あなたに選ばれることのできなかった惨めなわたしを、あなたは愛するイルミネの側で見守らせるために、わたしに王宮仕えをしろ惨いことを言う。

 あなたはもっと人の心がわかる方だと思っていた。

 わたしは本当にあの人を愛していたのだろうか。いや、わたしはただ、妃という座、それだけが望みだったのかもしれない。その証拠に、今のわたしの心にあの人を慕った思いなど、欠片ほども残されてはいない。

 あるのは憎しみ。そして、あの老婆の言う通り、わたしはこの国を手に入れ、わたしの思いとおりに動かしてみたい。

 ならば、その座を手に入れるのなら、何もあなたでなくてもいいではないか。


 イザーラはふっと笑いソファーから立ち上がると、胸に落ちた髪を手で払いのけた。

 漆黒の髪が夜の闇に舞いふわりとイザーラの背に落ちる。


 そう、あなたでなくてもいい。


 何故、そんなことに気づかなかったのだろうか。

 手にした小瓶を口許に持っていき、そっと口づけをする。そして、その瓶を再び書棚の奥にしまい込むと、イザーラは外套を手に部屋を出た。


 王妃として相応しいのはこのわたしだ。

 わたしはわたしの望みをこの手で取り返してみせよう。

 そして、このわたしを軽んじたこと、侮ったこと、蔑んだこと。

 絶対に許すものか。

 すべての者に思い知らせてやろう。


 愛情を憎悪へとすり替え、空虚だった心に復讐の刃を研ぐ。

 イザーラのその漆黒の瞳の奥に揺れるのは、まぎれもない、瞋恚の炎であった。

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