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「イザーラ、よく来てくれた。待っていたぞ」
相変わらず人懐こい笑みを浮かべ、ルカシスは王宮を訪ねてきたイザーラを自室へと招いた。
イザーラとルカシスが学問所でともに学び、語り合い、親しい間柄であることは王宮内のほとんどの者が知っている。従って、王宮でのイザーラの待遇は特別なものがあった。だから、二人っきりにしても問題はないと思われているのだろう、部屋に足を踏み入れると誰の姿もなかった。それとも、あらかじめルカシス殿下が気を遣ってくれたのか。どちらにしても、イザーラにとってはありがたいことであった。
側にあった椅子をすすめられ、イザーラは腰を降ろす。そして、ルカシスも向かいの席に座った。
開け放たれた窓からは緩やかな風が流れ、イザーラの艶やかな黒髪をなびかせる。
耳を澄ませば、木々の枝葉がこすれる音。
可愛らしい小鳥たちのさえずり。
何ひとつ憂いの感じられない穏やかな午後の一時。
けれど、イザーラの心はまるで暗雲かかった空のように暗く重かった。
イザーラがここへとやって来た理由をルカシスはじゅうぶん承知している。その証拠に、会った瞬間から早く答えを聞かせて欲しいといわんばかりに目を輝かせている。それは絶対に目の前の女性は、己の申し出を聞き届けてくれるだろうということを信じて疑わない目。
期待に答えることができず心苦しいもの感じたが、これはもう決めたこと。
迷うことはない。
いや、むしろ己の気持ちをはっきりと伝え、何もかもから解放されたい気分であった。
「殿下、官職の件でございますが……」
待っていたとばかりにルカシスは顔をほころばせ、身を乗り出してきた。
「身に余るありがたきお言葉。ですが、せっかくではございますが、そのお話はお断りさせていただきたいと。本日はお礼も含めその旨を伝えたく参りました」
よもや、そんな返事を聞かされるとは思いもしなかったルカシスは案の定、半ば口を開け何故? という目でイザーラを見つめ返してきた。
「私はてっきり快く引き受けてくださると思っていました」
申し訳ございません、とイザーラはただ深く頭を垂れるだけであった。
「何故なのでしょうか……理由をお聞かせください。私は学長にもあなたをぜひ官職として王宮にあがることを勧めるようお願いした。学長も喜んで私の意見に賛成してくれた。それは素晴らしい考えだと」
静かにまぶたを落とすイザーラの長いまつげが、白い頬に影となって落ちる。
殿下は学長の真意を読み取ることができなかった。
その学長に女が官職につくとはおこがましい、分をわきまえろと言外に仄めかされたのだ。けれど、そのことを口にするつもりはない。
口にしたところでせんなきこと。
「どうか、考え直してはくれませんか?」
「わたくしではなくとも、ルカシス様の回りには有能な臣下はたくさんいらっしゃいます。それに、これはもう決めたことでございます」
「これほどまでに私がお願いしてもですか」
「はい」
きっぱりと言い切ったイザーラの頑なな態度に、ルカシスの表情から徐々に笑みが消えていく。
「ならば……ならば何故あなたは学問を学んだのですか? いつか、この国を支えるためという大きな志を抱いてのことではないのですか? あなたはあれほどこの国の将来について熱心に語っていたではないか」
ルカシス様は何もわかってはくださらなかったのですね。
顔を伏せたまま、イザーラは悲しげな表情を浮かべた。
「イザーラ……私はこの国を今よりももっとよりよく、アルガリタの民すべてが幸福に笑って暮らせる国をつくりたいと望んでいる」
「幸福とはいったいどのようなことなのでしょうか。人が幸か不幸かを決めるのは誰でもない、その人自身。裕福な暮らしをしていても、その人が幸福と感じているとは限らない……」
どこか遠い目で静かに語るイザーラの言葉にルカシスは違うのだ、と首を振る。
「私はそういう意味でいったのではない! だいいちそれは個々の心の問題であろう。私はこの国の民たちが飢えに苦しむことなく、戦という愚かな行為に脅えることのない平和な国を作っていきたいと言ったのです。私は新たにやってみたいこと、やらねばならないことがたくさんある。私はこの国のため民のためによい王となりたい。そのためにも、ぜひともあなたの力をかして欲しいと思っている」
「ならば、民が飢えに苦しまないためにはどのようにすればよいか。ルカシス様のおっしゃるやりたいこと、やらねばならないこととは具体的には? 口で言うのは容易いこと。何がしたいではなく、まずは何ができるかではないでしょうか」
ルカシスは苛立たしげにテーブルを指先で打ち付けた。
ふと、イザーラはいつになく心を取り乱しているルカシスに気づく。
父である先王よりも、もっとよい王でありたい。民から臣下から、すべての者からよい王だと思われたいという焦りがルカシスの心を乱れさせている。
イザーラは眼差しを和らげ、目の前のルカシスを見上げた。
「国をよりいっそう豊かにしていきたいと願う殿下のお心は察しいたします。ですが、新しいことに手をつければ、いずれ別の問題が発生するでしょう。それよりも、まずは現状を維持しつつも……」
「もうよい!」
うるさいとばかりに手を横に払い、ルカシスはイザーラの言葉を途中で遮った。それまでルカシスを包んでいた穏やかな気配がひそんだと同時に、辺りを包む空気も一変する。
どこか困惑したような、驚いた表情をイザーラは浮かべた。
「私はあなたとそのような話をするつもりはない!」
「ルカシス様……」
ならば何故、ルカシス様はわたしを官職にとお勧めになったのですか?
「いつだって……あなたはそうだ。自分の意見がすべて正しいと」
「すべて正しいなどとは……決してそのような……」
「そうして、自分の考えを他人に押しつけ、他人の意見にはいっさい耳をかそうとはしない。あたかも自分が優位であることをしらしめるように!」
ルカシスは立ち上がり逆上したように、両手をテーブルに叩きつけた。それはまるで自分の思うようにならずに駄々をこねる幼子のようであった。
「あなたが王宮に来てくださったら、少しでもイルミネの側についていてくださったら、彼女も心強いと思ったのに……残念です」
イザーラの表情が翳り、ふっ、と虚しい笑いが艶やかな唇からもれる。
わたしは何を勘違いしていたのだろうか……。
いや、何を思い上がっていたのか。
ルカシス様はわたしの力を欲していると信じて疑わなかった。ルカシス様の頼みを受け容れず断ることで、わたしはわたしの矜持をぎりぎりで保つことができた。
けれど……。
ルカシス様が自分を官職へと望んだのは他でもない、すべてはイルミネのため、彼女を守るため、つまりはそういうことだったのだ。
「何故、あなたは女でありながら学問を学んだのか。冷やかしだけのために学問所に通っていたのか。そして、常に成績上位であったあなたは、あなたよりも劣るこの私を見下し優越感に浸っていたのか。やがてこの国の王となるこの私を!」
「……」
「そして、せっかく私がすすめた官職の話を断るのは……」
ルカシスはいったん言葉を切り、冷ややかな眼差しでイザーラを見下ろした。
自分を見下ろすルカシスのその目は、感情の欠片も見当たらない冷たく暗い空洞のようであった。
長い沈黙の後、ルカシスは口を開いた。
「あなたを妃に選ばなかった、私へのあてつけか」
心がすっと冷えていくのを感じた。
イザーラの表情に浮かぶのは、怒りでもなく呆れでもなく、ましてや、悲しみでもない。
それは……。
相手に対する失望──
ルカシスはイザーラに背を向けた。
それはもうこれ以上話すことはない、すぐにここから立ち去れという意味。
立ち上がったイザーラはルカシスに一礼をすると扉に向かって歩き出す。が、その歩みがすぐに止まった。
「本当に、イルミネとあなたとでは正反対なのですね。イルミネはあんなにも素直だというのに、あなたは……」
強情で可愛げがない。
呟くような声であったが、イザーラの耳に届くにはじゅうぶんであった。
いや、あるいはわざと聞かせたのか。
乾いた笑いが思わずこぼれる。
背に投げかけられたルカシスのその言葉は、一生忘れることはないだろう。
二人の間に生じてしまった亀裂は埋まることのない深いみぞとなり、もはや……。
修復の余地はない。




