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 屋敷に戻ったイザーラは、老婆からもらった毒の入った小瓶をどうしたものかとしばし思いあぐねるように見つめた後、書棚の奥深くへと隠した。

 もらった瓶に毒が入っているなどとは、決して誰にも知られるわけにはいかない。

 もっとも、見られてしまったとしても、適当にごまかせばいいのだが、それは心理的な問題だ。

 確実に安全とは言い難いが、見るからに難解だと思われる書物がずらりと並んでいる棚に、わざわざ興味をひいて手をつけようとする者などいないだろう。

 いるとすればイルミネくらいだ。

 あの娘は、昔からむやみに書棚から本を手にとって眺めては、こんな難しい本を読めるお姉様は本当に頭がよいのね。わたくしの自慢のお姉様だわ、とはしゃいだ声をあげていたことを思い出す。

 けれど、そのイルミネも今はこの屋敷にはいない。

 まるで、屋敷は光を失ってしまったかのように、どこもかしこも暗い空気がたちこめ陰鬱とした気配が漂っていた。

 イルミネがこの屋敷を去っていってしまった途端、屋敷の雰囲気は変わってしまった……影が差したようだと、イルミネを慕っていた侍女たちが口を揃えて言っているのを何度も耳にした。

 父も母も、屋敷に仕える使用人たちすべての顔から笑顔が消えてしまった。

 惨めに屋敷に残された自分に気を遣ってということもあるのだろう。

 本棚に背をついて寄りかかり、イザーラは深いため息を吐き出した。

 それにしても、あの老婆の言葉にすっかりとそそのかされ、毒の入った小瓶を受け取ったものの、自分はいったい何をしようと考えていたのか。

 屋敷に戻る頃にはすっかりと冷静さをとりもどし、自分があまりにも愚かなことを企もうとしたことを悔やんだ。

 あの時はどうかしていた、としかいいようがない。

 いや、そもそも、あの小瓶の中身が本物の毒であるとは限らないのだ。もしかしたら、あの老婆は自分をからかっていただけに過ぎない。

 しかし、とイザーラの表情に翳りが過ぎていく。

 目を閉じても、あの醜悪な老婆の顔が姿が消えず、まぶたの裏に思い浮かぶ。歯の抜けた口からもれる深いな呼吸音、下品な笑いも耳にこびりついて離れない。

 自分のことを味方だと言った老婆の言葉を信じたわけではない。が、あの老婆は自分をからかったりなどしていない。だとすると、あの小瓶の中身はやはり、毒。

 猛毒……。

 イザーラはうつむいてひたいに手をあて緩く首を振った。


 今日は少し疲れた。

 もう、何も考えたくない。


 学長から聞かされた官職の件も、折を見て直接ルカシス殿下に断りをいれなければならない。

 何と答えようか。

 めんどうくさいことばかりだ。

 いっそうのこと、どこかに嫁ぎでもすれば、この煩わしさすべてから解放されるだろうか。

 そこまで考え、イザーラははっと顔を上げた。


 どこかへ嫁ぐ?

 このわたしがルカシス様以外の誰かのものになると?


 しかし、すぐにイザーラはどこかへ嫁ぐと考えた自分を自分で嘲笑い、そして、心から振り払ったはずの悲痛な思いに唇が赤くなるほどにきつく噛みしめた。針で刺されたようなつきりとした虚しい痛みが胸に走る。


 わたしはやはりまだ、ルカシス様に未練があるのか……こうしてあきらめることができず、心のどこかであの方の隣に並ぶことを望み、あの方を求めている。


 ふと、イザーラは文机の上に何かが置かれていることに気づき歩み寄る。

 見ると、可愛らしくまとめた小さな花束と封書が置かれていた。

 封書を手に取り裏返す。

 差出人は妹のイルミネであった。

 机の蝋燭に火を灯し、手紙の封を解いて中をあらためる。すると、封の中からするりと滑り落ちるように、油紙につつまれた小さな包みが机の上に落ちた。

 イザーラはそれを拾いあげ、包みごしに中を確認する。

 中には細かい粉状のものが入っていた。そして、文書も文字も達者とは言いがたい手紙に視線を落とし、イザーラは読み始めた。



 お姉様、その後お体の具合はいかがかしら。

 あれ以来、お顔を見せてはくださらないからとても心配してますのよ。

 ルカシス様もお姉様のお体を気にかけていらっしゃるわ。

 ところで、お姉様は王家専任の医師、ベゼレート先生をご存じかしら。



 イザーラはいったん手紙から視線をあげた。



 その医師の名ならイザーラもよく知っていた。

 若くして、王家専任の医師という地位にまで昇りつめた男だ。

 腕利きの医師だと噂には聞くが、まだ二十歳そこそこの者が、王家専任などという大任を掴むなど、裏でどんな卑劣な手を使ったかなどわからない。

 事実、そのベゼレートという男とともに、王家専任の医師候補として選ばれたもうひとりの医師は選抜試験を受けることもなく、医師の資格を剥奪され国から追われたと聞く。

 まさに二人の間に、いや、そのベゼレートという男がもうひとりの医師に何かを仕掛けたというのは言わずもがなである。


 イザーラはふっと口角を持ち上げ冷笑を刻む。


 だが、野心のある男は嫌いではない。

 己の欲望に忠実に突き進む男は魅力さえ感じる。


 そんなことを考え、イザーラは再び手紙に視線を落とし続きを読む。



 先日、その先生とお話をする機会があったので、お姉様のことを先生に話してみたの。とても気さくで優しくて素敵な先生だったわ。

 それで、先生はお姉様のためにと頭痛によく効くお薬を調合してくださったのよ。この手紙といっしょにそのお薬をいれておいたわ。

 それから先生はこう仰ってもいたの。

 お姉様はずっと勉学やいろいろなことに頑張っていらっしゃったから疲れているだけだと。少しお体を休めればよくなると。

 これで、少しはお姉様の具合もよくなるといいのだけれども。

 お姉様、あまりご無理はなさらないでくださいね。

 愛しているわ、お姉様。



 そこで、手紙は終わっていた。


「イルミネ……」


 イザーラの唇から妹の名を呟く声がもれる。

 手紙を持つ手が小刻みに震えた。

 自分のために、それも名医と名高い王家専任医師に、わざわざ薬を調合するよう頼んでくれたイルミネの優しさに動かされてではない。

 ふつふつと心の奥底からわき上がる怒りでだ。

 イザーラの顔つきがみるみる険阻なものとなっていく。

 唇が赤くなるほどに、ぎりっときつく噛みしめる。


 得意げにこんなものをわたしによこして。

 これが余計なお世話だということが……。


「どうしておまえにはわからない!」


 イザーラは薬の包みと花束を持った手を大きく天井に振り上げ、そして、怒りにまかせ勢いよく床に叩きつけた。

 無残にも散った花びらが空を舞い、ひらりと床に落ちる。

 脱力したように椅子に腰をおろし、机にひじをついて両手で頭を抱え込む。


 ああ……何故あの娘はこんなにもわたしを苛々とさせる。

 何故わたしの気持ちを少しも察しようとはしない。


 すっかりおさまったと思っていた頭痛が再びイザーラを苦しめる。

 ふと、イザーラは顔をあげ、たった今床に叩きつけたそれに視線を落とす。


 花束ではなく薬の包みに。


 イザーラの漆黒の瞳が再び深い闇の底に沈んでゆく──


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