6
邪魔者には消えてもらう。
邪魔者……。
そう、イルミネさえいなくなれば。
イザーラははっとなって、鋭い視線を目の前の老婆に向けた。
「おまえ、自分で何を言っているのかわかっているのか?」
老婆は可笑しそうに肩を揺らした。
「おまえさんが妹思いの優しい姉だったら、こんなことは口が避けても言わんよ。だが、おまえさんはそんな人間ではないことを、この婆はじゅうぶんに知っておる」
老婆は歯茎を剥き出してにっと笑った。
「婆とて、だてに年をとっちゃいないさ、おまえさんの性格を考慮したうえで、言っておる」
「わたしの何を知っているという」
「おまえさんの矜恃の高さは人一倍、それをたかが妹のために傷つけられた。凡庸な小娘に。おまえさんが殿下を支えるためにと必死の努力で勉学に勤しんでいたのに対し、おまえさんの妹はただ笑顔をふりまいているだけであっさりと殿下の心をつかんでしまった。そして、姉の気持ちなど我知らず、いや、もしかしたらとうに気づいているのかもしれないねえ。それでも今なお、無邪気な笑顔でおまえさんを苦しめている。それがどれだけの罪かも知らずに。そんな妹におまえさんは殿下の心も妃の座も、しいては一国を奪われた。おっと……」
何か言いかけようとしたイザーラを、老婆は慌てて手で遮った。
「何も言わんでもよい。おまえさんがただの妃という地位に甘んじるわけがない。それはたんなる土台にしかすぎない。おまえさんの心の奥深くに燻っている本当の目的は、いずれはその手でこの国を己の思うがままに動かしたい。自分ならそれができると。それが本当の目的。そうじゃろう? けれど、そんな野望も潰えてしまった。これ以上の屈辱はあってか? 妹の存在を否定したことは何度もあったはずじゃろう。え? どうかえ? 少しもそう思わんというならば、素直にあきらめればよい。妹の魅力より殿下を慕うおまえさんの思いが劣った。妹の幸運がおまえを不幸にした。妹の笑顔がおまえの努力を覆した。妹の存在がおまえのすべてを否定した。ただ、それだけのことじゃ」
「よく、も……」
老婆の言葉に動揺し、イザーラは両肩を小刻みに震わせた。怒りのせいで顔が青ざめる。
老婆は口を歪め、屈辱に身を震わせるイザーラの様子を愉しむように見つめ歩み寄る。
「ほうれ、言うてみい」
下から覗き込むように、老婆はイザーラの顔を見上げた。
「おまえさんの本心をこの婆に聞かせてみるがよい」
老婆の生臭い息が顔にかかる。
身動ぐことができなかった。
老婆の一言一言が、まるで呪縛のように全身を絡め取る。
指の先までが凍ったように冷たく痺れ、背中にぞくりと悪寒が走った。
「殿下の心を取り戻したいと」
イザーラは唇を震わせた。
「妃の座は自分のものだと」
老婆の片方の目が大きく見開かれ、濁ったまなこがイザーラを凝視する。
「それらすべてを奪ってしまった妹が憎いと」
イザーラは固唾を呑んだ。
白い滑らかな喉が動く。
老婆の粘り着くような言葉が、己の心までをも支配する。
「報復してやりたいと」
イルミネがいなくなればと思ったのは事実。
この世から消えてしまえばいいと思うほど憎んだことも否定はしない。
イルミネの存在が消えてしまえば、ルカシスは自分を愛してくれるかもしれない。
そんな望みが心をかすめていったことも。
けれど、それは心のずっと深いところで思っていただけ。
否、本当に思っていただけか。
「妃の座を手に入れ、やがてはこの国を己の手中におさめたいと」
イルミネが手に入れたものは、本来なら自分が手にするものだった。
それはわたしのものだと何度叫んだか。
奪い返せ。
奪い取れ。
老婆の言葉は大きくイザーラの心を揺さぶった。
自ら心の奥深くに封じたはずの黒い思いすべてが、一気に吹き出す。
イザーラは大きく息を吸い込んだ。
「何度も考えた。イルミネを消してしまいたい。この手でと……だが、そんなことがどうしてできようか。罪の意識で言っているわけではない。誰が好んで自らの手を汚さなければならない」
やっとの思いで口を開いたイザーラの口調は以外にも落ち着いていた。
自分でも驚くほどに。
老婆は満足げに何度もうなずくと、すっとイザーラから離れた。
「何もおまえさん自身の手を汚さずとも、誰かにやらせればよいではないか」
簡単なことじゃ、と老婆はことさら嬉しそうに笑った。
誰かにやらせる……だと。
薄暗い部屋の中、じっと揺れる蝋燭の炎がイザーラの美しい顔を照らす。その顔は心なしか青ざめ強ばっていた。
「何じゃ何じゃ! 驚いた顔をしおって。そんなこと、思いつきもせんかったという顔じゃな。まあ、普通の人間ならそんなこと考えもしないじゃろう。そう、普通の人間ならばな……それ はつまり、おまえさんもただの人じゃったということ」
この手を汚さずして他の誰かにイルミネを殺させる。
イザーラはふっと笑い緩く首を横に振った。
たとえ、実際に自分でこの手を血に染めることはなくとも、人の死を望むならそれは罪に手を染めたも同じ。
ただ、己自身で手をくだすか否かの違いにすぎない。
イザーラの漆黒の瞳がさらに深い闇色へと堕ちていく。それは一度堕ちたら二度と光を望むことのできない暗黒の檻。心の奥底に沈殿していたどす黒い感情が、老婆の言葉によって誘われゆるりと浮き上がる。
失ってしまたものを再びこの手に取り戻そうとするため、人としての心を手放すか。
見えない闇に身も心も絡め取られ、もがき苦しむ囚われ人となるか。そうなれば、もはや二度と今の自分に戻ることはかなわぬであろう。
その覚悟がわたしにはあるというのか。
そこまでして、わたしはわたしの望むものを手にしたいと思っているのか。
イルミネを殺してまで……わたしは。
「おまえさんの妹が殿下に選ばれたのも、それは妹の計算だったかもしれないねえ」
「計算だと? あの娘にそんな器用な真似などできるものか」
「そうかねそうかね? 本当にそう思うかね? 女なんぞ心の奥底では何を考えているかわからん生き物よ。あるいは、無意識のうちだとしたら、なおさら性質が悪い。どうすれば相手によく見られるか、どう振る舞えば相手に好かれるか、どう言葉をかければ相手の心をつかめるか……」
イザーラはぐっと言葉を飲み込んだ。
確かに。思えばそう、幼い頃からいつもあの娘はそうだった。
泣けば誰かが必ず救いの手を差し伸べてくれる。
甘えれば誰もが自分を優しく包みこんでくれる。
自分は弱いからみなが守ってくれる。
誰もが自分を気にかけてくれる。
自分はみなから愛されている、と……。
「おまえさんのように、特別何も持たない妹じゃが、人の心をつかむことにかんしてはおまえさんよりも長けていたということ。つまり、おまえさんは妹にしてやられたということじゃよ。ひひひ、叩きつけられた地の底から幸福に笑う妹の姿を羨み嫉むか? もはやきれい事だけじゃ、おまえさんの望むものは永遠には手に入らんよ」
老婆は下卑た笑いを口許に刻むと、再び片足を引きづりながら先ほどの薬品の並べられた戸棚に向かった。
扉を開け、棚の奥深いところから小さな木箱を取り出す。それは両手のひらに乗る程度の箱で、表面には封がほどこされていた。
老婆は薬草で黒く染まったかさかさの指で箱の封を解き蓋を開ける。
他の中には白い綿がつまっていた。その綿を丁寧に取りのぞくと、小指半分ほどの硝子の瓶があらわれた。
「婆のとっておきを、おまえさんにくれてやろう」
慎重な手つきで箱の中から小瓶を取り出し、老婆はそれをイザーラの眼前にかざした。
「どんな者でも一瞬にしてその命を奪い取る猛毒」
猛毒と聞いて、イザーラはわずかに身を引く。
「知っているかえ? いやいや、知らんじゃろう。遙か海を越えた北方の大陸レザン・パリューの、銀雪山にだけ咲く悪魔の花を」
老婆はゆっくりと瓶を左右に揺すってみせた。ゆらりゆらりと揺れる瓶の中の液体が、灯された蝋燭の炎の灯を受けて橙色に染まる。
イザーラは言葉を呑んで、老婆の手にしている小瓶を凝視した。
悪魔の花。
そんなおぞましい名前の花など聞いたこともない。
そして、老婆はさらに言葉を継ぐ。
その花の花粉は人に幻惑を見せ。
その花の蜜は人の思考を鈍らせ。
その花の茎からでる汁は人の身体の自由を縛り。
その花の根は人の命を奪い取る。
「世界のどこにもない、銀雪山にしか咲かない貴重な花。レザンの暗殺組織が使うところから、その花の名の由来がついたというわけじゃ。この瓶の中の毒も悪魔の花の根を溶かしたもの」
「レザンの暗殺組織……」
「おおっと!」
老婆は大仰に両手を広げた。
「しまったしまった。この婆うっかり口を滑らせてしまったわい。いいかい、この婆が今喋ったことは誰にも決して口外してはいかんよ。その胸だけにとどめておくことじゃ。そんなことより……」
ほれ、と老婆は手にしていた小瓶をイザーラの手の中へ押し込み握らせた。
ざらついた老婆の手の感触にイザーラは一瞬、不快そうに眉根を寄せ、小瓶を握りしめた手と目の前の醜悪な老婆を交互に見やる。
「ほんの一滴じゃ。ほんの一滴、飲み物にでも混ぜて飲ませれば確実に死ぬ。しかし、この毒にはひとつ欠点があってのう……どうにもこうにも匂いがいかんのじゃ匂いが。鼻につく甘ったるい匂いで怪しまれる可能性がある。それだけ、気をつけるんじゃよ」
イザーラはきつく握りしめていた指をゆっくりとひらき、手の中の小瓶を確かめる。
「それで邪魔者を消してしまえ。妹を殺してしまえ」
「イルミネを……」
「毒に苦しみ声を発することすらままならず、死にゆこうとする妹の悶絶するさまを、おまえさんは高みからただ笑って眺めておればいい。自分から何もかも奪い取ろうとした報いじゃと。そしてその後、おまえさんは殿下の心を手に入れるのじゃ」
老婆は両肩を小刻みに揺らしひひひ、と笑った。
「なあに、心配せんでもすぐに殿下はおまえさんに心を傾けるじゃろう。どうせ、おまえさんの妹を選んだのも、おとなしくて自分に意見をしてこない可愛い娘なら、己の心の癒やしになると思って選んだ程度にすぎんさ。妻となるはずだった女を失い、悲しみに嘆く哀れな男をおまえさんは優しく慰めてやるだけ。そうすれば、ころっと殿下の心もほだされ、おまえさんに傾くというもの。それにしても、つまらん男じゃのう。じゃが、それでもこの国の王であることにはかわりはない」
ずいぶんと好き勝手なことを言ってくれる婆だと、イザーラの口からかすかな失笑がこぼれる。
「さあ、それはもうおまえさんのものじゃ、おまえさんの好きに利用すればよい。そして、それをどう使うかはおまえさんしだい。もちろん、その毒をおまえさん自身が飲むのもかまわんさ」
「わたしがこの毒を飲むだと?」
「そうじゃそうじゃ。愛する男を奪われ失意のあまり、おまえさんは自ら命を絶つ。世間のみなはおまえさんに同情するじゃろう。それほどまでに殿下のことを思っていたのか、なんと健気な娘じゃとな」
愛する男を妹に奪われ失望して自らの命を絶つ、だと?
わたしが健気な娘?
ふっと、イザーラは鼻で嗤い手にした小瓶をきつく握りしめた。
「笑いものだったおまえは一転して、殿下を慕う一途な娘となる。そして、おまえさんの妹は愛らしい顔をして、姉の想い人を奪いとったあさましい女という目で見られることになろう。それもまた……」
「黙れ。それ以上よけいなことは言うな。それに、このわたしがそんな無様な死を選ぶわけがない」
老婆はほほうと大きく開かれた方の目を細めた。
「そうかそうか」
「ところで」
揺らぐことのない瞳でイザーラはまっすぐに老婆を見つめ返す。
「おまえの望みは何だ? まさか見返りもなくこれをわたしに譲ったわけではあるまい」
「わしの望みか?」
目を背けたくなるほどの醜悪な顔を歪め、老婆は前歯の抜けた口をのぞかせにっと笑った。
見苦しい顔だ、とイザーラは心の中で吐き捨てる。
「だから、さっきも言ったじゃろう? おまえさんは婆の恩人。味方じゃと」
老婆はただ無気味な笑いを刻むだけであった。




