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 すでに日は傾き、薄墨色の空には暮雲の名残をのぞかせながら星が煌々と瞬き始めた。

 夜の澄んだ空気に、アルガリタの街のあちこちでは夕煙が立ちのぼる。

 民家が並ぶ通りでは空腹を誘う匂いが漂い、路行く人々の足を早めさせる。

 仕事帰りの男たちや、遊び疲れた子供たちが母親の手料理を心待ちにそれぞれ帰路へと向かう。

 晩鐘の音はとうに鳴ったというのに街はいつになく賑わい華やいでいた。

 それは、もちろん数週間後に控える戴冠式のせいであろう。

 民家や店先の玄関にはたくさんの色とりどりの花が飾られ祝いの垂れ幕や、聖なるアルガリタの紋章入りの国旗が掲げられている。

 王宮を抱く都市アルガリタだけあり、その華やかさは尋常ではない。

 行き交う人々の話題ももっぱら、新王の戴冠式や婚礼の儀のことばかりで、言うまでもなく人々の心を躍らせた。

 その華やいだ通りから外れた裏通りに、人目をはばかるように歩くひとりの女の姿があった。

 黒い肩掛けを頭から被り、身を包む衣裳すら宵闇に溶けあう、黒一色のいでたち。

 女はしばらく回りをうかがうように歩き、一軒のいかにも怪しげな雰囲気が漂う家の前で足を止めた。

 漆黒色に塗られた重たい扉を押し、するりと中へ身を滑らせた。



 ◇



 部屋の中は薄暗く、薬草の煮えたぎる不快な匂いが鼻孔をつく。

 おまけに、窓をしっかりと閉め切り、ここ何年も太陽の光に当てていないためか、湿った空気が充満していた。


「おやま、珍しい客人がきなすった」


 部屋の奥から独特の、しわがれた声が響いた。

 この陰気な家の住人であろう。

 女は目を凝らし、薄闇の奥から近寄ってくるその人物に視線を注ぐ。

 腰のひどく曲がった、おそろしく醜悪な老婆であった。

 深く刻まれたしわと染みだらけの小さな顔。

 片目はほとんど潰れ、もう片方の目はその分、異様なまでに大きい。

 前歯の抜けた口から、息をするたびに不快な音がもれる。

 誰もが目を背けたくなるような形相であった。


「いつきても不快だ」


 明らかに嫌悪した表情で女は吐き捨てるように言い放つ。

 その言葉の意味するところは、陰湿なこの部屋の雰囲気のことか、それとも醜い老婆自身のことを言ったのかは定かではない。

 けれど、老婆は気分を害した素振りをつゆほどにもみせず、抜けた歯の隙間から息をもらして笑うだけであった。

 女は頭から被っていた黒い肩掛けを鬱陶しげに取り払った。

 長い艶やかな黒髪が流れるように、肩に背にさらりとこぼれ落ちる。

 現れた顔はイザーラであった。


「最近姿を見せんから、すっかりこの婆のことを忘れられちまったかと思ったよ」


「おまえのその醜い顔は忘れたくとも忘れられるものか」


 イザーラは唇の端を持ち上げ嘲笑した。

 明らかに老婆を見下す態度。

 王宮で見せた上品な態度も言葉遣いも嘘のようである。

 ここにいる、イザーラはまるで別人。


「以前はよく来てくれたのにねえ」


 そんなイザーラの態度に腹を立てる様子もなく、老婆はしわくちゃの顔を歪めひひひと笑った。


「出歩くこともままならないってことかい? そうじゃろう、そうじゃろう。おまえさんは今では世間の注目の的じゃからのう」


 老婆は唇の端をつり上げた。

 相手の反応を愉しむかのように。


「何しろ、慕いつづけた相手を、まんまと妹に掠め取られた哀れな女」


 恐れることなく言ってのけた老婆に、イザーラは形のよい整った眉を不機嫌にひそめた。


「誰に向かってものを言っている。おまえをこのアルガリタから身ぐるみ剥がして追い出すことなど、わけもないということを肝に銘じておけ」


 老婆は肩をすくめてにやりと笑った。


「おやおや、わしは事実を言ったまでじゃよ。何もそう、むきになって怒ることもなかろうに。そんなに感情を剥き出しにしてこの婆に食ってかかるなど、おまえさんにしては珍しいことよのう」


 悪びれた様子もなく、しれっと答える老婆にイザーラは口をつぐむ。

 むきになってという老婆の指摘に、つい声を荒げてしまった自分を恥じた。


 このわたしが取り乱すとは。

 それも、こんなとるにも足らない相手に。


「それよりも、今日はこの婆になにか用かね」


 イザーラは近くにあった古びた椅子を引き寄せ腰をおろす。

 確かに、この得体の知れない老婆と言い合いすること事態、ばかばかしいこと。


「いつもの薬を。頭痛がひどい」


 イザーラはこめかみのあたりを押さえた。


「なるほどなるほど。頭が割れるほど思い悩んでいるというわけか」


 一言多いのだ、という目でイザーラは老婆を睨みつけた。


「よしよし、待っておれ、待っておれ」


 片足を引きずり、老婆は戸棚の奥から毒々しい青紫色の液体が入った瓶を取り出し、手近にあった木の椀に注いだ。


「ほれ、飲みなされ」


 イザーラはそれを受け取り、ためらうこともなく一気に飲み干した。

 一息に飲まなければとても不味くて飲めたものではない。


「その辺の医者だってこんなまずい薬は作らない」


「じゃが、効き目はその辺の街医者どころか、王宮の医師すらかなわないということはあんたも知っておるじゃろうに」


 だから、この婆を頼るのであろう? とひひひと笑って老婆はつけ加えた。


 イザーラはゆっくりと深く息を吐き出した。

 じっとしていれば、じきに痛みもひいていくであろう。少しは苛立った気持ちも落ち着くだろうか。


「頭痛の原因はやはりあれかい?」


「黙れ」


「ひひひ、相変わらず可愛げのない娘じゃ」


 そう言いながら、老婆は煮えたぎる釜の中身をかき混ぜ始めた。

 イザーラもその釜へと視線を向ける。

 不愉快な臭いの元はこれであった。


「また得体のしれない薬を作っているのか? においが身体に染みついてしまう」


「気になるかえ? 心の臓に効く薬じゃよ。これを飲めばどんな発作もすぐにおさまる。奇跡の薬じゃ」


 鍋の中身をかき回す手を休めず、老婆は得意げに言った。


「疑わしい。そんなものが本当に存在するならば、この世に医者などいらない」


「おやおや、今日の姫様はまたいちだんとご機嫌がななめのようじゃな」


 ふん、とイザーラは鼻白む。

 心底この老婆を醜いと思った。

 年齢すらも定かでない謎の老婆。

 見た目はおそらく、百を越えているのか。しかし、得体の知れないその表情からは、実際の年齢を読みとることは難しい。

 だが、そんなことはイザーラにとってはどうでもいいことであった。

 思えば、老婆との出会いは全く奇妙な巡り合わせだった。

 もう、二年も前のことである。

 怪しげな薬を美容に効果のある薬だと偽り、貴族の娘たちに高額で売りつけ、それがとんでもない、まがい物だと訴えられた。役人に捕らえられそうになった老婆を、たまたま居合わせたイザーラが助けたのであった。

 別に、助けるつもりなどなかったが成り行き上、そうなってしまった。

 だが、ただの詐欺の薬売りかと思っていたら、実はそうではなかったことには事実、驚かされた。

 確かに老婆の作り出す薬はどんな腕のよい医師をも凌ぐほどの効き目があった。

 それほどの薬学知識と腕前を持ちながら、何故そんな怪しい薬を売っていたのか、真実のほどはさだかではない。

 もっともあえて、聞きたいとも思わない。

 この頃から、必要以上の無理な勉学がたたり、身体の調子を崩していたイザーラにとってはこの上もなく老婆の存在が否、老婆の調合する薬が重宝しただけ。

 アルジェリア家専門の、かかりつけの医師などに看てもらうつもりなどなかった。

 自分が無理をしているなどとは、誰にも悟られたくはなかったから。

 長い沈黙の後、ようやく老婆は口を開いた。


「のう、おまえさん。この婆、おまえさんのためなら骨惜しみはせんよ、なにせ命の恩人じゃからの」


 釜の中身をかき混ぜる手を止め、老婆は大儀そうに腰を叩く。


「恩人? 誤解するな」


「おまえさんのそういうところがこの婆は好きじゃ。まあいい、ひとつおまえさんの心に巣くう、最も深い悩みの種を取り除いてやってもかまわんよ」


「このわたしに悩みなどない」


「惚けんでもええ」


 醜い顔を歪めて、老婆はにっと笑う。


「まったく、おまえさんも惜しい地位を奪われたもんじゃよ、それも、よりによって血の繋がった妹なんぞにね。全く不幸な」


「余計なことは……」


「いっそうのこと、奪い返せばよかろうに。何故そうしないのじゃ? おまえさんならたやすく取り返せるじゃろうに」


「黙れと言っている!」


「この婆は本気じゃ。なあに簡単なこと、邪魔者には消えてもらえばよいこと。さすれば、殿下もおまえさんを妃にと迎えてくれるはず。おまえさんを……」


 愛してくれるはず──

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