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「お姉様、ごめんなさい。わたくし何か気に障ることを言ってしまったかしら……」
イザーラの表情に険悪なものが過ぎる。
「あなたの質問に答えるわ。あなたが心配するまでもなくみなは健在よ。それから、あなたのお気に入りだという薔薇は庭師が面倒を見ているけど、咲いたかどうかはわたしには興味がないから知らない。これでいいかしら?」
「お姉様……?」
イルミネの胸にわだかまる不安の翳がいっそう濃いものとなっていく。
常ならぬ姉の態度に、ただ呆然とするばかりであった。
「お姉様、本当にどうなさったの?」
「いちいち他人の機嫌をうかがうのはやめたらどうかしら。あなたはこのアルガリタの王妃。自分の立場というものをわかっていて?」
イザーラは一端言葉を切り、据えるような眼差しをイルミネへと向けた。
「ルカシス殿下が、時々はあなたに会ってあげて欲しいと仰るから、わたしはこうして訪ねただけのこと」
「お姉様……どうして? どうしてそんな悲しいことを仰るの? お姉様はずっと、いつまでもわたくしのお姉様……」
「もう……やめてっ!」
目を開きはっとなってイザーラは口をつぐんだ。
思わず大声を上げてしまったことに、後悔ともつかぬ苦い嗤いを浮かべる。
これ以上の言い合いはかえって、己の心を惨めにすると思ったから。たとえ、何を言おうと何が起ころうと、ましてや、どう足掻いたところでこの運命を覆すことなどできるはずもない。
そう、王妃として選ばれたのは、わたしではなかった──
わたしはあの方に必要とされてはいなかった。
あの方が欲したのは、何もできない何も知らない、ただ笑うだけが取り柄の妹のイルミネだった。
だが、何故それを素直に認めることができない!
おまえさえいなければ……わたしが王妃として選ばれた。
あの方の側にいることができたのに。
腰まで届く艶やかな黒髪を軽く手で払い、イザーラは妹に背を向け歩き出した。
この場にいること事態が、自身を貶める屈辱的なもの以外なにものでもないとばかりに。
「お姉様!」
待って、と慌てて後を追いかけたイルミネは石畳の段差につまづき転倒した。
背後で何度もお姉様と呼び続ける妹に、手を差し伸べることはおろか、振り向くことすら拒絶した。
その時、イルミネの声に呼応するかのように、薔薇の茂みの陰からひとりの青年が血相を変えて走り寄った。
「イルミネ殿!」
現れた青年は、力強い腕で倒れたイルミネの身体を起こし抱きかかえる。
「ルカシス様……」
突然の予期せぬ来訪者に驚愕し、抱き上げられた青年の腕の中でイルミネはたちまち頬を朱に染め上げた。けれど、驚いたのはイルミネだけではなかった。
イルミネの呼び声に決して答えようとしなかったイザーラでさえ、その名に反応しかえりみる。
駆けつけた青年の姿をその目で捕らえた途端、イザーラの漆黒の瞳の奥にひそんででいた冷淡な色が甘く切ないものへと変わる。
この青年こそ、まさに次期アルガリタ国王ルカシスであった。
「大丈夫ですか? おけがはありませんか?」
抱え起こしたイルミネの顔を心配げにのぞき込み、ルカシスは言った。
二十歳を少しばかり過ぎた白皙の優しい面立ちの青年であった。
一目で気品のよさをうかがえる物腰。腰には長剣を携えてはいるが、およそ戦いとは無縁と思えるほど、脆くも繊細な印象を与える。
「ルカシス様……なぜここへ……」
胸を手で押さえ、イルミネは頬を紅潮させてルカシスを見上げる。
「あなたにお会いしたくて……突然の来訪お許し願いたい」
ルカシスの言葉にただ、恥じ入るようにイルミネはいいえ、と答えた。そして、わずかに身をよじらせる。
「あ、申し訳……」
イルミネを抱きしめていた腕を解き、ルカシスは照れたように頭へと手をあてる。
薄茶色の髪は、陽の加減によっては金髪にも見え、青年の優しげな雰囲気によくあっていた。
「本当にどこも痛めたところはないのですね? あなたにもしものことがあれば私の責任です」
「いいえ、わたくしの不注意ですから」
イルミネは羞恥に耳まで赤くなった。
「お恥ずかしいですわ。まさかルカシス様に見られてしまうなんて」
イルミネはいたたまれないような表情でうつむき、小さな声を落とす。
「あなたのことが気になって来てしまいました……何か不自由なことはないですか? 慣れない所で落ち着かないとは思いますが」
「いいえ……仕えてくださる方々もとても親切にしてくださって……何よりもこの様な素晴らしい離宮、ルカシス様には心からお礼を申し上げます」
「気に入っていただけたようで、よかったです」
ルカシスは人懐こい笑みを柔和な顔に浮かべた。
そんなルカシスの表情にイルミネもようやく緊張を解き、十七歳の年相応な笑顔が満面にたたえられる。
「本当にこの離宮の眺めは素晴らしいですわ。庭園をうめつくす花々もとても素晴らしいですし、時の流れによって様々な色に染まる建物を眺めているだけでも、わたくしの心が踊りだすの。それに……」
イルミネは突如、あっと言って口許を押さえた。
「わたくし……お喋りばかりだわ」
しかし、ルカシスはただ、嬉しそうに微笑むばかりであった。
「あなたの意外な一面を見たようで、特をした気分ですよ。もっと、私に聞かせてはくれませんか? あなたのお話を」
「こんな子どもっぽいお話など、ルカシス様は退屈してしまいますわ」
「あなたの話しは私の心を和ませてくれる。では、こうしましょう。お話の続きはお部屋で。むろんご迷惑でなければですが」
「迷惑だなんて。でも、ルカシス様はお忙しい身、わたくしのために大切な時間など費やしては……」
「あなたと過ごすことが、私にとっての大切な時間なのですよ」
目を開き、イルミネは花が咲いたように顔をほころばせた。
「もっと、あなたのお側にいたいのですが、なかなかそれも叶いません。あなたに寂しい思いをさせているのではないかと、それだけが気がかりで……」
「心配にはおよびませんわ。こうしてルカシス様が会いに来て下さるだけでもわたくし……」
まぶたを伏せ、両手を胸にそっとあてる。
心から嬉しいというイルミネの素直な感情が伝わってくる。
そんなイルミネの肩に手をかけたルカシスの視線が、ふと、離れた場所にたたずむイザーラの姿をとらえた。
「ああ、イザーラ! いつからそこに。声をかけてくださればよいものを」
まるで初めてイザーラの存在に気づいたという口ぶりであった。
イザーラの瞳に一瞬翳りが過ぎる。
微笑ましい二人の光景を目の当たりにし、情けなくもその場から退くことができなかったのだ。
「失礼いたしました……殿下にはご挨拶もせず……」
震えそうになる声を懸命に押さえ、辛うじて平常心を装いながら、幼い頃から叩きこまれた完璧なまでに美しい礼をルカシスにほどこした。
「堅苦しい挨拶は抜きですよ。あなたとは学問所で共に学問を学んだ仲」
挨拶はよいと言う素振りで手を振り、ルカシスは気さくで親しみのこもった笑みをイザーラへと向けた。
「それよりも、あなたも一緒にお茶でもどうですか?」
「お姉様もぜひ!」
互いに顔を見合わせ、仲むつまじく微笑む二人の姿に、イザーラは強い衝撃を感じた。
目眩を引き起こしそうなほどに。
何故、あなたの隣に立つのはこのわたしではないの。
何故、そんな娘がいいの。
「申し訳ございません。少し気分が……これで失礼いたします」
何故、わたしはあなたに愛されなかったの。
イルミネよりもずっとあなたの近くにいたのに。
王となるあなたを支えてあげられるのは、このわたしなのに。
わからない……わたしにはわからない!
しなやかな指でこめかみのあたりを押さえ、イザーラは苦しげに息を吐く。
「まあ! お姉様、それは大変ですわ。少しお休みになられたらいかがでしょう? お部屋の用意をいたしますわ」
「けっこうよ」
これ以上、かまわないでといわんばかりに、イザーラは妹の申し出を即座にはねつける。
「でも、お姉様……」
「ならば、私がそこまでお送りいたしましょう」
いたわるようにイザーラの肩に手を添え、ルカシスはイルミネを振り返る。
「後ほどあなたのお部屋へうかがいます」
「待っておりますわ、ルカシス様。お姉様もどうかお気をつけて」
心配げにこちらを見るイルミネに、ルカシスは優しく微笑みイザーラをともない歩きだした。
お気をつけて、と言ったイルミネの声も果たして、イザーラの耳に届いたかは定かではない。




