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 暖かい午下がりの陽光が、色彩豊かに咲く美しい花々で埋めつくされた、アルガリタ王宮、西側に建つ離宮の庭園を明るく照らしていた。

 芳香の季節に舞う柔らかな春風が、花の香を辺り一面にはこぶ。

 細やかな心遣いを施した瀟酒な蒼白壁の建物。

 艶やかに磨き上げられた塵一つない、白大理石の回廊。

 窓という窓には玻璃を嵌め、どの部屋からも優雅な庭園を一様に眺めることができた。

 その庭園の一角に、灼爍と咲く花に埋もれながら、ひとりの少女がたたずんでいた。

 年の頃は十七ほどであろうか。

 柔らかく背へと波打つ薄茶の髪。大きな瞳は蒼穹をうつしたかのような澄んだ青。優しげな面差しに浮かぶ薄紅色の唇には柔らかな微笑み。ほんのりと朱色に染まる、ふっくらとした頬はつやつやと輝いていた。

 可憐な少女であった。

 少女の滑らかで繊細な指先が、薄紅色の薔薇の花へと伸ばしたその時。


「イルミネ様!」


 突然、名を呼ばれ、少女はうつむき加減の顔をゆっくりと上げ、声の方へと振り返った。

 それがもっとも古参の侍女のアレナの姿だと確認すると、無邪気な笑みをたたえる。


「アレナ、どうしたというの? そんなに怖い顔をして」


 少女は、ふくよかな身体を揺すって駆け寄る年配の女性を笑顔で迎えた。


「姫様いったい、何をなさっていらっしゃるのですか?」


「見てのとおりですわ」


 イルミネは、慌てる侍女の心配をよそに、悪戯っぽく微笑んでみせた。


「ええ、ええ……見ればわかりますとも。ですけど、何も、イルミネ様ご自身が花を、それも薔薇など手折るなど……! お花が欲しいのであれば、侍女にでも言いつければよいものを……お手に怪我でもなされたら、わたくしが殿下にお叱りを受けてしまいます」


 イルミネはくすりと口元に手をあて笑った。


「笑いごとでは……」


「アレナ、怒らないで。大丈夫ですわ、気をつけておりますもの」


 イルミネはアレナの忠告を無視し、再び薔薇の花へと手を伸ばした。

 手折った薔薇を口元へと近づけ、柔らかな天鵞絨のような花弁にそっと口づけを落とす。


「何かあってからでは遅い……」


 アレナの言葉が、ため息へと変わる。


「まったくかないませぬ。見かけによらず、強情ですからねイルミネ様は……ルカシス殿下がお知りになったら、さぞかし驚きになられるでしょう」


 あきらめの仕草で、アレナは腰に手をあてた。

 こうなってしまえば、たとえ何を言っても無駄なことは承知していたからだ。


「この薔薇はルカシス殿下にさし上げようと思って……だから……」


 そこまで言うとイルミネはたちまち、恥ずかしそうに頬を朱色に染めた。

 途端、アレナは嬉しそうな表情を満面に浮かべる。


「まあ、まあ……それは、きっと殿下もお喜びになりますでしょう。何しろお妃となるイルミネ様自らが手折った花となれば、いっそうのこと」


 アレナは満足げに微笑み、母親のような暖かい眼差しを少女に向けた。

 実際、アレナはイルミネが幼い時から世話をしているので、実の娘のように愛おしくて仕方がないのだ。

 健気なイルミネの姿を見つめ、アレナはそっと目頭を袖で押さえた。

 この少女がもう間もなくすると、自分の手から離れてしまう。

 まさに、娘を嫁がせる母親の心境であった。


「どうしたの……アレナ?」


 涙を浮かべる侍女の様子に気づき、イルミネは澄んだ青い瞳を揺らした。


「い、いえ……もうすぐでございますね。ルカシス殿下の戴冠式が……そして、イルミネ様はこのアルガリタ国の王妃」


 アレナは感慨深く言った。

 長い間大切に、慈しみ見守ってきたこの少女がこの国の王妃となる。

 こんなにも喜ばしく誉れなことはない。その反面、自分の役目もこれで終わってしまったかと思うと、寂しいと思う気持ちも隠せなかった。


 数週間後に、この国に新しい王が誕生する。

 王宮はもとより、王都アルガリタや近隣の街々ではその準備で賑わい、浮き足立っていた。各国の王や諸侯が祝いに駆けつけ、めでたくも華やかで豪華な戴冠式となり、婚礼の儀となるであろう。


「そうね。でも、アレナ……わたくしとても不安に思うの。本当にわたくしでよかったのかしらと……」


 ふと、イルミネは不安な表情で呟き、瞳を翳らした。


「何をおっしゃいます!」


「だって、本来ならばお姉様が王妃となるべきだわ。わたくしだって、ずっとそう思っていた……」


「いいえ、殿下が何故、イルミネ様をお選びになったか、このアレナにはよくわかります。イルミネ様のお優しいお心が殿下、いえ、全てのアルガリタの民に安らぎをもたらすと思って。このアルガリタ国の王妃となるべき御方はイルミネ様が相応しいと。どうか、自信をお持ちくださいませ」


 アレナはきっぱりと言い、ふさぎ込むイルミネを元気づけた。


「アレナ……ありがとう」


 イルミネはアレナの気遣いに微笑んだ。


「そんなお顔は似合いませんよ。毅然とするのです。イルミネ様が不安な表情を浮かべれば民も不安を抱きます。自信をもって望みなさい。イルミネ様はこの国に幸福をもたらす御方なのです。イザーラ様ではなく、イルミネ様が選ばれたのですよ」


 その時であった。


「まるで、わたしではこの国に災いもたらすとでも言いたげね」


 背後からのその声に、イルミネとアレナは振り返った。

 ひっと、小さな叫び声を上げ、アレナは顔を強ばらせた。

 そこには腕を組み悠然と立ち尽くす、ひとりの少女の姿があった。

 どんなに美しくあでやかに咲く花さえも、その少女が側に立てば色褪せて見えてしまうほどの美貌をもった少女。

 イルミネの一つ年上の姉、イザーラであった。

 透けるような白い肌、まっすぐに伸ばされた腰まで届く黒髪。唇は紅く濡れたような艶やかさ。長いまつげからのぞく瞳は髪と同じく夜空を思わせる漆黒色。その瞳の輝きは冷ややな、見る者を凍てつかせる鋭利な光が静かにたたえられていた。

 イルミネが明るく輝く太陽と表現するならば、イザーラは暗闇を照らす、冴え冴えとした月といった雰囲気か。


「それとも、そう聞こえてしまったのは、わたしの卑屈な思いゆえかしら?」


「いえ、そのような……ことは……」


 アレナは唇を震わせ、しどろもどろに答える。

 思いあまって自分はイザーラに対し、何か中傷的なことを言いはしなかったかと、記憶をたぐりよせるように視線を泳がせる。けれど、目前に立ちつくす少女の凍てつく冷たい瞳に見据えられると、うまく思考が働かなかった。

 高貴なる貴族の姫君を前にして恐れ多いというよりはむしろ、イザーラに対して得体の知れない恐怖さえも感じた。


「まあ、お姉様!」


 しかし、怯えるアレナとは反対に、イルミネは瞳を輝かせた。小走りにイザーラの元へと駆け寄り、姉のほっそりとした手を握りしめる。


「お姉様、会いに来てくださったのですね!」


 久し振りの姉の姿にイルミネは子どものように無邪気に声をはずませた。

 ルカシス殿下との婚約が成立した直後、イルミネは生まれ育ったアルジェリア家を出て、このアルガリタ王宮の離宮で過ごすようになった。それから、三ヶ月。王族の風習に早く慣れるようにとの配慮だが、生まれ育った生家を離れて暮らすということは、やはり心寂しいものがあったのであろう。


「前もって言ってくだされば、お迎えに参りましたのに」


 イザーラはまなじりを細め、イルミネの側で控えるアレナにちらりと視線を投げた。

 場を外せ、と……。

 アレナは高貴なる二人の少女に深く一礼をすると、逃げるようにその場を離れていった。


「お姉様、みなは元気でいらっしゃる? お母様やお父様は何もかわりはなくて? お庭のわたくしのお気に入りの白い薔薇はもう花を咲かせたかしら? 見られないのがとても残念だわ」


 イルミネはまるで、ねだるように次々と家族たちの近況を問う。それほどに、懐かしい実家が恋しかったのはいうまでもない。


「相変わらずのようね」


 そう答えたイザーラの口調は、感情の欠けた抑揚のないものであった。

 乏しい否、むしろ冷淡にも見えるその表情は、妹を懐かしむというよりは蔑みにも似た感情さえひそんでいた。

 イルミネは小首を傾げた。


 何か自分は姉の気分を害するようなことをしてしまったのであろうか? それとも、自分がいない間に何か実家に問題でも起こったのだろうか?


 イザーラの氷の瞳が一層貫くようにイルミネを見つめ返す。

 その視線にイルミネはたじろいだ。

 緊迫した重苦しい空気が向かい合う二人の少女の間に流れる。

 何とかこの雰囲気から逃れようと、イルミネは他の話題を探そうとした。けれど、何を話せば姉が笑いかけてくれるのかわからず、ただ、重たい沈黙が流れるだけであった。


 今まで、こんなことなどなかったのに。

 いつだってお姉様は優しくて、わたくしの自慢で……。


 つい、この間まで何でも話し相談をしあった優しい姉の面影をイルミネは懸命に探そうとした。

 イルミネが姉を自慢に思うのも無理はない。

 アルガリタの美姫と嘔われ、聡明かつ明晰な頭脳をもち、何事もそつなくこなす。女性ながらにしてアルガリタ一難関の学問所の入学試験をなんなく突破し、そこでの成績は常に上位であった。

 学問所とは先々代の王が身分の分け隔てなく学問を学べるようにと設立した、王族はもとより貴族、はては庶民にも許された場所である。しかし、入学するには並み大抵のことではない。けれど、めでたく学問所の門をくぐり卒業することができればその者の将来は約束されたも同然。つまり、どんなに身分の低い者でも有望であれば官職の地位を望む機会がここにはある、と多くの人々が希望を抱いて入学試験を受けるのであった。そして、イザーラはつい先日その学問所を首席で卒業したのであった。

 いよいよ多くの者がイザーラの将来を気にかけた。

 アルジェリア家は王族所縁の貴族で二人の姉妹は幼い頃から、時期国王の妃候補として教育を受けてきた。けれど、イルミネは姉ほどには熱心ではなかった。何故なら、王妃として迎えられるのは姉のイザーラであると確信していたし、そう願ってもいたから。

 もちろんイルミネに限らず誰もがアルジェリア家長女イザーラこそ未来の王妃に相応しいと口々に噂をしたものであった。

 イザーラが王妃となり王を支えていくだろうと。

 だが半年前、王宮から訪れた使者が告げた言葉は、みなの期待を大きく裏切った。

 ルカシス殿下はアルジェリア家の妹であるイルミネを選んだのであった。

 姉のイザーラではなく──

 誰もが思惑とは異なったことに言葉すらでなかった。固唾を飲み、その場に居合わせた者すべてが二人の姉妹を横目で交互に視線を向けた。

 父や母でさえそうであった。しかし、とうのイザーラは顔色一つ変えずに平然と言った。


『わたしは王妃などというがらではない』


 この言葉の意図するものが何にしろ、回りの者はほっと胸を撫で下ろしたことはいうまでもない。そしてその直後、みなイルミネに惜しみない祝いの言葉を贈った。結局、アルジェリア家にとって、姉妹のどちらが選ばれようと、それは大変な名誉であることには変わりはないのであったから。


「そうだわ。お姉様、学問所を首席でご卒業なさったとか! ついこの間聞いたばかりですのでお祝いが遅くなってしまいましたけれど、おめでとうございます。わたくしも心から嬉しく思います」


 イルミネはふと、明るい話題を思い出し、まるで自分のことのように頬を紅潮させはしゃいだ。


「ありがとう」


 けれど、イザーラはあくまで他人ごとのようにそっけなく答えた。


「これからお姉様はどうなさいますの? 官職につくのかしら。もしかしてルカシス様の補佐ですの? わたくし、難しいことはよくわからないけど、でもこれはとてもすごいことですわ」


 うるさい。

 うるさい……うるさい、うるさい……!

 ああ……頭痛がする。


「わたくし本当に自慢に思うのよ。お姉様はわたくしとは違って頭が良かったから。わたくしがどんなにお勉強をしてもお姉様にはかなわなかったもの。ああ、そうだわ! 何かお祝いをしなければ」


 何がいいかしら、と胸の前で手を組み嬉々とするイルミネとは反対に、イザーラは美しいその顔を苦痛に歪めた。


 頭が痛い。

 いらいらする。

 お願いだから黙って……お願いだから。


「もういい加減にして」


 イザーラの心の叫びが思わず声となってもれる。けれど、小さく呟いたその声は目の前のイルミネの耳には届かなかったようだ。


「お姉様?」


「けっこうよ」


「いいえ、とてもおめでたいことですもの!」


 イザーラの唇から小さなため息がもれた。


「余計なお世話だと言っているのが、わからないのかしら」


 冷ややかな姉の声に、はじかれたように顔を上げイルミネは小さく肩を震わせた。

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