白金の乙女、他所のお店から帰宅して。
昼の忙しいピーク時も、ラティナはなんとか乗り切ることができた。
マルセルの母親と、日中だけ販売員として雇われている女性が一人。本来は産休をとっているもう一人を加えた三人で回しているそんな慌ただしい時間帯であった。さすがにベテラン勢の手際には敵わないが、初日にしては、ラティナもかなり働いた方だろう。
「疲れたかい?」
「疲れましたけど、大丈夫です。いつもと違うお仕事で、何だか楽しいです」
昼のピークの後に取った遅めの昼食を頬張るラティナに、マルセルの母親が心配そうに声を掛ければ、彼女はそう答えた。
丸いパンに、チーズと燻製肉をたっぷりと少なめのオニオンを挟んだそれを、彼女は一口かじっては、幸せそうな顔をする。
「ラティナちゃんは、ちいさな頃から、本当に美味しそうに食べるねえ」
マルセルの母親がそう言って微笑むのに、ラティナも笑顔で答えた。
『裏通りのパン屋』の営業時間は、日暮れ前には終わる。一般家庭の夕食用のパンを買う時間を過ぎて店を開けていても、客は来ないし、防犯の上でも危ない。何より翌日も作業は朝早くから行われる。
翌日の仕込みをするマルセル親子の様子を見ながら、ラティナは幾つか我慢できないように疑問を口にする。
特に彼女が気になっているのは、パン作りの肝とも言うべき、酵母の作り方とそれを用いたパン種の使い方であった。
ラティナは基本的に『新しいことを学ぶ』ことが好きだ。
だからこそ、『裏通りのパン屋』から、帰路を進む彼女は、少し気持ちを上向きにさせていた。
手を出すことこそ出来なかったが、パンを作る工程をそばで見ることが出来たことは、彼女の好奇心を非常に満足させていた。それだけでなく、普段の『虎猫亭』の接客とは異なる、客層や仕事内容は、とても新鮮な体験だった。
暗くなる前に、帰らなければならないし、明日も朝早くから、パン作りの様子を見せてもらう約束になっている。いつもならば、夜の営業時間をケニスと共に回しているのだが、今日は早めに休んでおいた方が良さそうだ。
そんなことを考えながら、南区の『踊る虎猫亭』に戻って来る。
彼女の姿を見かけた常連客が、妙に気まずいような顔をしたり、苦笑のようなものを浮かべていることには気付かず、そのまま裏へと回る。
「ケニス、ただいまっ」
「おう」
「忙しそうだね。やっぱり手伝おうか?」
「いや、休みは休みだ。そのあたりはきっちりしておけ」
忙しさのピークを迎えつつある厨房で、一人奮闘するケニスに、申し訳なさそうに言ったラティナであったが、ケニスは笑顔で応えた。
あれだけ落ち込んでいたラティナが、ずいぶんすっきりとした表情で帰って来たことに、ケニスは安堵していた。
リフレッシュの方法も、勤労だというのは、どれだけ仕事が好きなのかと呆れる気もするが、自分も料理は仕事であり趣味なのだから、あまり大差はないのかもしれない。
「夕飯は表で食べるか?」
「テオは? リタにも迷惑かけちゃってるし……夜の間くらいは、テオのお世話するよ」
「なら頼む。テオなら、お義母さんのところに預けてる。そろそろ帰って来る筈だ」
ケニスにとって、義理の親にあたるリタの両親は、若夫婦が店を継いだのを機に、南区の住宅街で暮らしているのだった。
普段、店に姿を見せることは無いが、手が足りない時に、テオを預けたり、店の『緑の神出張所』の業務を手伝ってもらうことは多々ある。
今日はヴィントも留守の為、わんぱく盛りの息子を預けたのであった。これが毎日となると、祖母にあたるリタの母親の体力がもたないので、たまにしか頼めない手段であった。
「ねぇねっ」
しばらくして帰宅したテオは、父親でも母親でもなく、ラティナの元へ駆け寄って行った。
振り返りもせず、ラティナの方へ行ってしまった孫の様子に、送って来た先代--祖父--が、若干しょんぼりしている。
「テオ、お風呂は?」
「まだー」
「じゃあ、ごはんの前にお風呂だね」
先代が帰って行くのを見送った後で、ラティナはテオと手を繋いで厨房に入る。
「あたまあらうの、やだー」
「ダメ、洗ってあげるから、大人しくしてね」
口ではそんなことを言いつつも、テオはべったりとラティナに甘えている。朝から『大好きなおねえちゃん』に甘えることが出来なかった彼は、一日分を取り戻す気でいるかのようであった。
仕事の片手間に、そんな息子の様子を見るケニスは、苦笑を浮かべた。
本当に自分の息子は、『お姉ちゃんっ子』過ぎるだろう。ただ、自分たち両親が厳しい分、ラティナのように甘やかしてくれる存在がいても良いのではないかと思っている。
それにしても、ラティナが帰って来ただけで、空気というか、周囲の雰囲気が和んだ。やはり彼女のそういった生来の気質は、得難い美徳と言えるだろう。
ラティナは、テオの着替えを持って来ると、裏手の風呂場へと向かって行った。やはりその足元には、テオがちょこちょこと付いて歩いている。
目に石鹸が入るのを嫌がり、頭を洗うのを嫌っているテオは、ケニスが頭を洗うなどと言えば、大騒ぎだった。母親であるリタの場合では、きつく叱られ、半泣きになるのが常である。それに対してラティナには、当人も素直に大人しく洗われるという点もあって、非常に上手くやってもらっているようだった。
親としては、非常に楽が出来るのである。
「ねぇね」
「テオ、ひとりでお洋服脱げたね。偉いねぇ」
「えへへー」
裏手から聞こえて来るラティナとテオの声は、実の姉弟以上に睦まじいとも言えるもので、ケニスの表情を緩ませたのであった。
湯上がりのテオを連れて、『虎猫亭』の客席側へと向かうと、顔馴染みの客たちの間を、忙しくたち働くリタの姿があった。
「リタ、ただいま。お休みしてごめんね」
「お帰りラティナ。良いのよ、私もたまにはしっかり動かないといけないしね」
ゴトンと、客席にジョッキを置くリタは、ラティナの接客に比べて大雑把だったが、この店の元々の接客はそんなものであった。
「テオ、良い子にお座りできるかな」
「ぼく、いーこだもん」
むふんと、どや顔をするテオを椅子に座らせて、ラティナは厨房に向かう。ケニスが入浴中に用意してくれた料理を盛り付けて、再び店へと戻った。
テオの世話をするラティナに、常連であるジルヴェスターが微妙に歪んだ、何か気を遣った笑顔を向ける。
「嬢ちゃんは、本当に坊の世話をするのが上手ぇなあ」
「そうかな?」
ジルヴェスターの気まずそうな表情には、何も言わず、ラティナは笑顔を向ける。その間も、食事をするテオに、さりげなく手を貸していた。
「あー……、嬢ちゃん……あのなぁ……」
「ジルさん、あのね……」
言い難そうに、それでも言葉を探すジルヴェスターを遮って、ラティナは笑顔を困ったものに変えた。
「ちょっと、待ってね。……まだ、ちょっと……あのね、無理なの」
「お、おぉう……」
えへへと、それでもラティナは笑顔を作る。
ジルヴェスターも昨夜、この店で行った『大惨事』の顛末は聞いていた。彼自身はその際店内にはいなかったが、今日のこの店の主な話題は、デイルの狼狽ぶりと焦燥ぶり、そして、『看板娘』の不在についてなのであった。
ジルヴェスターは、幼い頃から見守ってきたこの少女が、自分の保護者へと「大好き」という感情を向けていたことを、ずっと見てきた。
デイルに対してなら、思う存分からかうことが出来るが、この少女には非常に気を遣ってしまう。
地雷を踏んで、嫌われることが恐ろしいのである。
「またね、たぶん元通りに出来るようになるから、ちょっとだけ、整理する時間が欲しいの」
「嬢ちゃん……」
ジルヴェスターはため息をついて、気持ちを切り替えた。意図的に表情と声を明るいものへと変える。
「困ったんなら、力になるからな。俺みたいなおっさんでも、出来ることはあるぞ」
「うん、ありがとう、ジルさん」
そう答えたラティナの笑顔は、本心からのもので、ジルヴェスターを安心させた。
家主一家の居室へと、テオを寝かしつけに行ったラティナは、彼が穏やかな寝息をたてるのを見計らうと、そっと部屋を出た。
起こしてしまったりしないように、音をたてずに扉を閉める。
そして、振り返った時だった。
ばったりと、出先から帰宅したデイルと、出くわした。
いつもの外出用の装備で無いことを一瞬で見て取って、今日は『森』へは行かなかったのだと思いながら、ラティナは、ぱっと、踵を返した。
自分で思っているよりも、まだ、『心の準備』は出来ていないことを、思い知ってしまった。
デイルの顔を直視することすら、今の自分には出来ないのだ。
心臓の鼓動が五月蝿い。両手で頬を押さえると、熱くなっているのがわかる。耳まで赤くなっていることだろう。
足音を潜めることすら忘れて、屋根裏部屋へと駆け上がった。
そんな彼女の行動に、
(顔すら……顔すら、まともに見てくれねぇとはっ……反抗期って奴はぁっ……)
がっくりと、力なく項垂れ、双眸から心の汗を垂れ流すデイルのことは、気付くことはなかったのだった。
ぼちぼちそれぞれの心情を掘り下げて参りますので、このグダグダにも、もう暫しお付き合いくださいませ。