白金の乙女、他所のお店で働く。
本編再開です。
朝から、『踊る虎猫亭』の一角には、重苦しい絶望的な空気が漂っていた。
いつも通りの筈の、毎日繰り返してきた朝食の風景。
--だが、そこには、いつも笑顔を振り撒いていた少女の姿はなかったのである。
空気を読むことを未だ知らない幼児が、あっさりと傷心のデイルを抉る。
「ねぇねは?」
びっくぅっ、と跳ね上がったデイルを気に止めないテオは、母親を見上げて、不服そうに口を尖らせた。彼にしてみれば、『大好きなお姉ちゃん』がいないこの状態は『異常事態』である。疑問は当然であった。
笑顔のリタがそれに答える。
「しばらくラティナは『お休み』よ」
「なんでー?」
「なんでも、よ」
「ヴィーは?」
「そういえば、昨日から姿が見えないわね。遊びに行ってるんじゃないかしら?」
ヴィントがふらりと、外に遊びに行くことは、割合よくあることなので、あまり気にされないことであった。ラティナに邪険にされた鬱憤でも晴らしに行ったのだろう。
朝食を一緒に摂る。これが今までのデイルとラティナの『当たり前』だった。デイルが仕事で留守にしている時は無理だったが、それ以外の時は必ずそうしてきたのだ。
それなのに、今朝、起きて階下に降りた時には既に、ラティナの姿は『虎猫亭』の中には無かった。
夜寝る時は、もう、年頃の女の子なのだから仕方が無いのだと、涙ながらに自分を納得させたデイルであった。だが、まさか、『当たり前』の筈だった朝食の席にまで、ラティナの姿が無いとは思ってもいなかった。
「ねぇねはー?」
テオが繰り返す度に、デイルの表情は微妙なかたちに歪んでいくのだが、リタの『笑顔』は揺るがなかった。
働き者の助手がいない分、倍増している仕事量に忙殺されながら、ケニスは、やっぱり自分の嫁は怒らせたらいけないのだと、再確認していたのであった。
その頃ラティナは、幼なじみの家たる『裏通りのパン屋』と呼ばれる店の中にいた。
「ウチは助かるけど、本当に良いの?」
「うん。折角の機会だから、パン作りも本格的に教わって来たら良いってケニスも言ってくれたの。マルセル、人手が足りないって言ってたから、ダメかもしれないけど、頼んでみようって来たんだけど……朝早くからごめんね」
各家の朝食の時間に、焼きたてのパンを提供するこの店の、開店時間は非常に早い。
焼きたてのパンの良い匂いに充たされた店内で、店の人びとの朝食の席に交じりながら、ラティナは友人の家族に笑顔を向ける。
昨日の今日で、ラティナはデイルの顔を見る勇気は無かった。デイルは自分の言葉を『告白』とは、捉えていないのだが、それでも、振り絞った勇気を空振った恥ずかしさも含めて、まだ心の整理もついていない。
リタやケニスは、時間を置けば良いと、『虎猫亭』の仕事を休むことを許してくれた。とはいえ部屋でぼんやりしていたら、余計なことを考えてしまう。その上、あの店の中に居れば、どうしてもデイルと顔を合わせることになるだろう。
どうしようかと考えた時、友人のもらした一言を思い出した。
そして、駄目で元々という気持ちで朝から訪ねて来たのだった。ケニスには、ちゃんと『虎猫亭』を出る前に相談してきた。デイルにもケニスの方からうまく言ってくれるだろう。
出産は大変な仕事だといえ、一般庶民は、その為に長期間仕事を休むことはできない。福祉制度がある訳でもない為、生活費を稼いでいく必要はあるのだ。
だから、マルセルの家たる『裏通りのパン屋』でも、今出産とその経過の為に休んでいるひとの欠員を安易に新たな雇用で賄うことはできない。ラティナの申し出は、彼らにもありがたい話だった。
「じゃあ、短い間だけど、宜しくお願いします」
何よりも長年の客商売で鍛え上げられた、ラティナの笑顔は、非常に好感度の高いものであったのだ。
この国に於ける『パン』は主食である。
マルセルの家である『裏通りのパン屋』が取り扱うパンは種類は多いが、ほとんどが食事パンと呼ぶべきものである。
形、材料である粉の配合、表面につけられた風味豊かな種子の種類。そういうものの違いによって、様々な種類を作っているのだった。
生地の中にドライフルーツやスパイスが練り込まれたものなどはあるが、菓子パンや調理パンと呼ばれるようなものは、基本的には取り扱っていない。
先日の『夜祭り』の時に売っていた具材を挟んだものは、昼食時に限って取り扱っている。この『東区』は、商店や職人としてなど、働く女性も多い。軽食の需要も多いのだった。
「後は焼き菓子だね。全部の値段を覚えるまでは、時間がかかると思うんだけど……」
「ん? 大丈夫だよ。このお店には、何回も来たことあるもん。覚えてるよ」
改めて店内の商品の説明をしていたマルセルは、ラティナのその返答を聞くと、一瞬言葉を詰まらせた。だが直ぐに、友人の非凡さを思い出して、 それもそうかと思い直した。
この少女の友人を長年やっていれば、そのあたりの割り切り方も、うまくなってくるのであった。
「計算も……ラティナなら問題ないよね」
「『虎猫亭』でも、お金扱わせてもらってるからね」
その返答は、販売業務に於いては、彼女を即戦力として考えても良いということであった。
「いらっしゃいませっ」
「おや、見ない娘だね。新しい店員さんかい?」
「しばらくお手伝いで入ることになりました。宜しくお願いします。何になさいますか?」
店に入った老婆は、見慣れぬラティナの姿に驚いたようだったが、彼女の笑顔につられたように笑顔を浮かべた。
「私はいつもこればかりだよ」
「そうですか。いつもありがとうございます」
老婆が指したパンを袋に入れて、差し出し、コインを受けとる。
「マルセルちゃんと同じくらいかねぇ?」
「マルセルとは、『学舎』で一緒だったんです」
老婆の探るような言葉にも、全く動じることはなく、ラティナは笑顔を返す。
そんなやり取りに、冷や汗をかくのは、焼き上がったばかりのパンを店頭に運んで来る仕事を負っているマルセルだったりする。
そんな噂の断片が、『保護者』や『幼なじみ』のもとに届いたら、自分の身が危ない。
主食であるだけあって、大多数の人びとは、『いつもの店』を決めているものだ。極たまに、別の店のものを食べてみようという気にはなっても、『毎日食べる味』というのは、各々決まっている。
その為、この店に来る客も、多数が常連客となっている。
朝のピークが過ぎてから、次に忙しくなるのはやはり昼食時だ。
それまでの間、ラティナは手が空いたからといって、ぼんやりすることはない。店の周辺の掃除など、出来ることをする。
幼い頃から東区を遊び場にしているだけもあり、見知った友人が通りかかる時もある。だがやはり彼女のことを知らない者が多数である。
ある程度は予想の範囲内であったが、彼女が掃除をしている間、初来店の男性客が微妙に増えていた。
ラティナは、昼が近づき、新たなパンを成形、焼き上げるといった一連の作業を興味深そうに見ていた。
まだ初日ということもあって、作業場に入ることは許されていなかったが、長年ケニスの助手を務めてきた彼女は、マルセルの父親が主に作業をし、マルセルが補助に入る--そんな彼等の距離や動線を確認することも忘れなかった。
給金は必要ないので、パン作りの基礎を教えて欲しい。--ラティナが友人に頼んだのは、そんな彼女らしい願いであった。
本来、『パンを作る』というような技術も、一種の企業秘密と呼んでも良い。誰彼構わず教えているようなものではない。
それでもマルセルが、そんなラティナの願いを両親に通したのは、かつて『学舎』時代に、彼女の話を聞いていたからだろう。
マルセルは、彼女の郷里である『ヴァスィリオ』では、パンを食べる文化が無いと聞いていた。ラティナはラーバンド国に来て初めてパンを食べたのだった。
『パンが無い国』--自分にとって、考えたことも無い、想像も付かない世界がある。
そして、自分の友人は、そんな全く異なる『国』で産まれた少女なのだと。
そんなラティナが抱いた、『パンがどうやって出来るか』という疑問に、答えを与えたい--と、少年は思ったのだった。