薔薇色の姫君、氷色の青年と。
その客人が『踊る虎猫亭』を訪れたのは、赤の神の夜祭りが行われるまで、後数日という時だった。
涼しげな容貌の青年ではあるが、急いで来たことがわかる程に、その旅装束は何処か乱れている。彼が店内を見回すと、常連客たちの間に緊張が走った。
「いらっしゃいませ」
見知らぬ青年が、かなりの実力者であることも見抜いた上での常連たちの緊張感だと言うのに、相変わらずこの店の看板娘はマイペースだった。
ててて。と、小走りで迎えて笑顔で青年に向かう。
「初めてのお客さんですね。クロイツは初めてですか?」
「……ああ」
そのラティナの笑顔が凍りついたのは、青年の次の台詞を聞いた瞬間だった。青年はアイスブルーの眸を驚いたように少し見開くと、こう呟いたのだ。
「君がデイルの言っていた『妖精姫』か」
「……」
吹き出すのをポーカーフェイスで堪えているリタの方を、ラティナは固まった笑顔のままで振り返る。
「リタ、私、デイルに対して怒っても良いよね」
「思う存分、やっても良いわよ」
良い笑顔でサムズアップするリタだけでなく、周囲の常連客たちも、一斉にラティナへエールを贈ったのであった。
自分に被害が及ばなければ、他人がやり込められるのを見るのは、一種の娯楽なのである。
ラティナが厨房へと普段よりも足音荒く向かうのを、一同はなんとも言えないウズウズしたような雰囲気で見送った。
一人、状態が掴めない青年を置き去りにして。
「……どうした?」
「……どうしたも、お前のせいだろうが」
しばらくして、自室から店へと姿を現したデイルは、憔悴しきった様子だった。
ぷくっと膨れた怒る顔も可愛らしくって、お説教の途中で表情筋を緩めてしまったのもいけなかった。完全におかんむりになったラティナに謝り、謝罪して、謝り倒した。そうしてなんとか赦しをもぎ取ったのであった。
だが、『もうしません』だけは交渉スキルを総動員して回避してみせた。ラティナに嘘はつきたくない。
前提条件がおかしいのではない。改める気がないだけだ。
「それにしても、早かったなグレゴール。書簡が届いて直ぐにこっちに向かったって感じだろう」
「ああ。俺だけなら、割合自由が利くからな」
『虎猫亭』の一角で腰掛け、デイルを待っていたグレゴールは、周囲の視線にも動じることもなく、悠然と佇んでいた。
グレゴールの纏う雰囲気は武人そのものだ。常連たちが興味深げに、彼を不躾な視線で見るのも無理はない。冒険者というには血統の良さが滲み出ているところがあるが、グレゴールは実力者の興味を抱かせる程には、抜きん出た剣士なのである。
彼もこの店の常連たちがある程度以上の凄腕たちだということにも気付いている。内心で感嘆していたのだった。王都でもこれ程の実力者はそうそういない。やはりクロイツというこの街は、旅人と冒険者たちの集客力にかけて、この国有数の存在なのだと再確認していたのだ。
「ローゼは無事か」
「今は二階の客室にいる。ざっくりと事情は聞いたが……誘拐されたって、本当か?」
「……領地から王都に向かう途中の馬車が襲撃された。コルネリウス家はあまり裕福な家ではない。護衛も従者も相応にしか連れていなかった……襲撃者は、ローゼの性格も調べていたらしい。先に周囲を人質にしたそうだ」
「ああ……」
あの薔薇姫が大人しく誘拐されるとも思わなかったが、それなりに理由があるらしい。
ローゼのコルネリウス家は子爵位にあたり、グレゴールのエルディシュテット公爵家とは家格が異なる。それでも互いに交流があったのは、領地が隣接しており、コルネリウス領の特産物の取引先もエルディシュテット公爵領が主である--といったように密接な関係を有していたからであった。
そして、魔力形質を有し、稀代の神官としての加護を有するローゼ誕生後、その関係は更に密なものとなった。
ローゼの後ろ楯のひとつとして公爵家の庇護を受けたのである。これはエルディシュテット公爵にとっても悪い話ではない。有力なカードと為りうる高位の加護を持つ美貌の姫を、自分の影響の及ぼす範囲に留めることは、大きな意味を持っていたのであった。
ローゼとグレゴールに面識があるのは、そういった事情があった為だった。
人形のように愛らしいローゼを、グレゴールの姉が可愛いがったという理由もある。二人は年少の頃より交流を持つ関係なのであった。
「とりあえずローゼの無事を確認したいだろう? 今、ラティナに呼んで来させ……」
「いや、俺が行く。部屋を教えろ」
グレゴールの返答に、一瞬デイルは絶句する。
「いや……いやいやいや。流石にそれはまずいだろっ? ローゼの名前的にもさっ。お前が何かするって訳じゃなくてもっ」
年頃の姫君が密室で男と会った--なんて事実ひとつで、出るところに出れば、充分なスキャンダルだ。
「お前が黙っていればローゼの名誉は守られるだろう」
微かな笑みも浮かべていないアイスブルーの冷ややかな眼光は、余計なことを他言すれば切り捨てるぞ、と言外に脅迫を滲ませている。
こいつは常々自分のことを「養い子至上主義の『親バカ』」と冷ややかな講評を賜ってくるが、お前もあんまり他人のこと言えないよな? と背中に汗をかきながら独白するデイルの脳裏に、『類は友を呼ぶ』という言葉が過った。
「えーと、ローゼの部屋は二階の手前の個室だけど……俺は同席……しない方が良いよな? そうだよな」
グレゴールの一瞥ひとつで、デイルは即座に自分の行動を決定する。
友人が階段を昇る背中を見送りながら、デイルががっくりと肩を落とすと、心配したラティナが水の入ったグラスを運んで来てくれた。ついさっきまで怒っていたはずなのに、その優しさが身に沁みる。
「デイル大丈夫?」
「……うん、多分……大丈夫、だろ?」
互いに心配する相手が異なっていたが、細かいことは気にせずに、デイルは珍しく自分の属する神相手に、祈りの文句を呟いた。
扉をノックされた音だけで、ローゼは相手が誰であるのかを察していた。驚いて手にしていた借り物の書籍を取り落としかける。
当人も気付いていないだろう、ほんの少しだけの節。幼い頃からいつも心待ちにしていたからこそ、気付くようになった彼の癖。
「ローゼ」
声が聞こえた瞬間、ローゼは弾かれたように扉へと向かう。鍵を外すという簡単な動作が逸る心のせいで覚束ない。
「グレゴール様……っ」
扉の向こうにいたそのひとの姿を改めて確認すると、声が震えた。
「ローゼ、よく、無事で」
「グレゴール様っ」
あまり大きな感情を表にあらわさないグレゴールが、それでも安堵に声音に優しい響きを滲ませる。それと同時にローゼがグレゴールの胸へとその身を投げ出した。
「……っ、グレゴール様っ、私、私……」
「……無事で良かった」
細い肩を震わせ、涙を浮かべたローゼを抱き寄せて、グレゴールは静かに扉を後ろ手に閉めた。
ローゼにとって、デイルはあくまでも『面識のある知人』だ。
誘拐、そして『二の魔王』という恐怖の体現者との接触などという出来事に、怯え、傷ついて焦燥していても、彼女はその様子をデイルに見せることはなかった。
それだけローゼは高い矜持の持ち主であり、気丈である故だったが、決して平気であるという理由にはならない。
グレゴールという自らが幼い頃より心を寄せる、信頼する存在を前にして、押し留めていたものが決壊した。
ローゼは言葉もなく、ただすがり付いて、泣きじゃくった。
グレゴールもまた、ローゼのことをよく知っている。彼女が今まで、泣くことも出来ずに耐えていたことを察していた。だからこそ、部屋を一人で訪れることを押し切ったのだ。
その名の由来となった、稀有なる薔薇色の髪に手のひらを滑らせ、グレゴールは無言で腕の中の彼女を見守っていた。
地味にグレゴールさん初出の時に、ローゼさんのことをデイルと語っていたりしてます。