青年、ある夜の片隅の席で。
夜も更けて、客足も減り、喧騒が遠退いた時刻。
『踊る虎猫亭』へと入って来た、細い肩の女の姿に、彼はちらりと視線をそちらへ向けて、再び手元のグラスへと戻した。
「また、昔の男と会ってるのか?」
「あら、妬いてくれるの?」
「んな訳ねぇだろ。相手の男に同情するだけだ」
そう言ってカウンターでため息をつけば、ヘルミネは笑いながら隣に座った。
初めて会った時から、彼女は本当に変わらない。
当人は否定するけれど、こうやって時折会う程度では、変化を見分けることなど出来ない。
でもそれは、ケニスなど年長の面子にとっても同じことらしい。
「……いい加減、適当な男捕まえて落ち着きゃあ良いのに」
「そんなこと言うようになったなんて、あなたは『歳』をとったわね」
「『人間族』にとっては、十分な時間だよ」
「そうかもしれないわね」
クスクスと微笑むヘルミネに、デイルは呆れ混じりの顔で、酒杯を口に運んだ。自分を見失うほど飲む気はさらさらないが、こんな女狐相手に素面ではいられない。
ヘルミネもリタを呼び止めて酒杯を運ばせる。細い指が視界の隅で翻った。
「簡単に、『人間族』の常識に、『私たち』を収めようとしてはいけないわ」
「説教か?」
「忠告よ」
カランとグラスの中で涼やかな高い音を鳴らしてヘルミネは言葉を続ける。
「無理なのよ。『人間族』みたいに、『一人を一生思い続ける』ことを美徳のように言われても、現実的ではないの」
長い睫毛が影をおとす横顔には、外見以上の深淵さのようなものがある。
「考えてもみて。同族であっても、数百年の歳の差があってもおかしくないのよ。先に逝かれたら、残りの年月をそのひとを想って生きろとでもいうの? 残酷な話だわ。……だから『私たち』のように、寿命の長い種族は特定の相手を求めないのよ。深く想えば想う程に、『別れ』は辛いものだもの」
ヘルミネの言葉に、デイルは黙って酒杯に視線を落とす。
愛し子の笑顔を思い出した。
いつかきっと、自分は彼女を遺して逝くだろう。その時までに、自分は何が出来るだろうか。
「……それでも、お前は節操がねぇだろ。どんだけの男の弱みを握ってるんだよ」
「あら、そんな言い方はないじゃない。『あなたたち』が私を置いてすぐに歳をとってしまうだけよ」
「だからって、餓鬼みたいな歳の奴ばかり狙う理由にはなんねぇだろ」
「それはたまたまよ。それに、男を見る目には、自信があるのだけれど?」
ヘルミネの言葉はあながち的外れでもなく、彼女に『弱み』を握られている『男ども』は、多くが名の知れた一流どころの人物になっている。
そんな『彼等』が『一流』になる前の、まだ未熟だった時期の、なんとも言えない甘酸っぱく苦い思い出。それが『ヘルミネ』という女なのだった。
「それに私、結構誠実よ? 二股かけたことなんて一度もないもの」
「そういうことやる女だったら、もっと簡単に……嫌えたんだろうがな」
「そう?」
クスクスと再び笑う。
苦手ではあっても、憎むことも嫌うことも出来ない。きっと、他の『男』たちにとっても、彼女はそんな存在なのだろう。
「女は男と違って、リスクを負う生き物よ? 折角ならば、産んでも良いって思える男を相手にしたいじゃない」
「……はっきり言うんだな」
「あなたが大人になったから……『保護者』になったからよ」
そう言ったヘルミネの表情には、歳上の余裕がある。歳の離れた弟や子どもに語るような気配が声音に滲んでいた。
「なんで『私』みたいな存在を『半分の妖精族』と呼んで忌避するのだと思う?」
二つの人族の特徴がまざったものを『混血』と呼ぶが、『人間族』と『妖精族』の間に産まれた存在だけを『半分』と呼び、忌避する習慣は確かにある。
理由までは知らないデイルは静かに首を横に振る。
「妖精族は人間族の他には、翼人族との間に『混血』が産まれるわ。でも、翼人族と妖精族はあまりに価値観が違いすぎて、まず二つの種族が交わることはないの」
翼人族は、人間族よりも、更に短命な種族だ。
自分たちだけの集落で、自分たちだけのサイクルで生活をしている上に、数も少ない。
妖精族との生活区域が重ならないこともあり、『妖精族と翼人族の混血』は、ほとんど存在しなかった。
「『半分』なのよ。『半分の妖精族』は純粋な『妖精族』の『半分』しか生きられない。でもそれは、『人間族』には充分過ぎる程の長い時間だわ。……だから、疎まれる。わかる?」
デイルが無言で首を振ると、ヘルミネは教師が諭すように言葉を続けた。
「『妖精族』は『魔人族』とは違うわ。成熟するまで時間がかかるのよ。『人間族』には長すぎる時間がね。『人間族』の片親では『半分の妖精族』の子どもは育てることが出来ない。そして……」
表情に深い影が落ちる。ヘルミネの声にも苦いものが混じった。
「『妖精族』の親にとっては、『半分の妖精族』の子どもは、自分よりも先に老いて死ぬ存在だわ」
「……それと、お前の男遍歴が関係あるのかよ」
「あるわよ? 私は、『人間族』か『半分の妖精族』以外の子どもは要らないの。『人間族』以外の男を相手にすると、他の種族の子どもを身籠る可能性が出来るでしょう?」
生々しい台詞をさらりと言って、ヘルミネは苦い表情を、悪戯っぽい仕草で誤魔化した。
「他の種族の男との子どもだと、『妖精族』を身籠る可能性があるのよ。そうしたら、私はその子を育てられない。『時間』が足りないから。……まあ、どっちにしても、『可能性』は低いのだけれどね」
長寿種の人族は妊娠率が低い。
彼女がその上で『遊んでいる』のだと思う面もあった自分を、デイルは反省した。
苦い思いを、手の内の酒で流し込む。
「……なんで、急にこんな話、したんだよ」
「さあね。なんでかしら」
そう言ってクスクス笑うヘルミネは、先ほどまでの苦い表情を隠してしまっている。
まだまだ彼女は、自分では『届かない』場所にいるのかもしれない。
「『長寿種』には、長い時間を生きるなりの、辛さも、理由もあるものよ。『人間族』だけの理由では、苦しめることになるっていうことも覚えておいて。あなたは『保護者』なのでしょう?」
その言葉が『誰』を指しているのか、わからない筈もない。
ヘルミネの観察力ならば、目にすれば『気付いて』しまうだろうと思っていた。
「……いつか、俺が死んだ後、ラティナの助けになってくれるか……?」
「嫌よ」
ヘルミネはあっさりと答えた。目元を穏やかな笑みのかたちに細めてデイルを見る。
「大切ならば、せいぜい長生きすることね」
飲み干されたグラスの中で、氷が高い音を響かせた。