幼き少女、クロイツに帰る。
二人がクロイツに帰って来たのは、ティスロウの村を出てからほぼ予定通り、初夏を過ぎ夏に変わった頃だった。
「ただいまっ」
ラティナは、馬の手綱をデイルに任せ、『踊る虎猫亭』が見えた途端に駆け出す。満面の笑みで店の入り口をくぐった。
いつも通りの定位置で書類作業をしていたリタが、手を止めて顔を上げる。驚きと喜びの混ざった笑顔になった。
「ラティナ」
「ただいま、リタっ」
「おかえりなさい」
そのリタの言葉に、ラティナは更に嬉しそうな顔になる。『満面の笑み』には更に上の笑顔があるらしい。
「あのね、あのねっ、いっぱいおみやげあるのっ」
「それはとても楽しみね。ところでデイルは?」
「……あれ?」
リタに聞かれて、少し冷静になったラティナが首を傾げて後ろを振り返る。すぐ後ろにいたはずの彼はそこにはいない。
首を傾げた姿勢のまま、思案する。
「あれ?」
「俺がどうかしたのか?」
カウンターの向こう、厨房からデイルの声がした。馬を連れて店内に入る事が出来ない為、彼は裏口へと回っていたのだった。
「っ!」
なんだか非常に慌てたような様子で、ラティナは厨房に駆け込む。そこではケニスがいつものように仕込みの作業をしていた。デイルと話していたケニスは、彼女に気付くと微笑みを向けた。
「帰って来たか、おかえり」
「ふあぁっ!」
ぴょこぴょこと二回跳び跳ねて、ちょっとがっかりした表情で彼女は、
「ただいま、ケニス」
と言う。言われたケニスの方は首を捻るしかない。
「なんだ?」
「ラティナ、リタとケニスに、いちばんに、ただいま言おうと思ってたのに……デイルに先取られちゃった……」
「それはデイルの気が利かないな」
「悪いのは俺か」
「ラティナが『悪い』のか?」
「ラティナの楽しみを奪った俺に、全責任があるに決まっているだろう」
「変わらないな」
相変わらずのデイルの様子にケニスは苦笑して、一区切りしたところで作業の手を止める。
ずいぶん凝った意匠の飾り紐を結んでいる彼女の頭を『いつも』のように撫でる。
「無事で何よりだ。おかえり、ラティナ」
繰り返された言葉に、ラティナは再び笑顔を取り戻した。
再び店内に戻ったラティナは、改めてリタを見て目を丸くする。
「リタのお腹おっきいっ」
カウンターの内側のいつもの場所に座っている状態からはわかり難かったが、旅に出る前は、妊娠している事が外見からもようやくわかるようになったという程度であったリタが、今でははっきりと大きなお腹を抱えている。
「もう、赤ちゃん動いているの、お腹の外から触ってもわかるのよ」
「うわあぁっ、赤ちゃん……っ、すごいねぇっ」
興奮気味の顔でリタのお腹をそっと撫で、その後に何かに気付いたように真面目な表情でラティナはリタを見上げた。
「お腹こんなにおっきいなんて……重たい? 」
「重たいわよ。腰とか背中とか痛くて大変」
「回復魔法かける?」
「……ラティナが帰って来てくれたから、それも頼めるのねえ」
わざわざ腰痛程度で『回復魔法』をかけてくれる職業魔法使いはいない。だが、この優しいちいさな少女相手なら、大人相手では頼み難いことも気楽に頼めるという利点もある。
「旅は楽しかった?」
「うん! お手紙書けなかったこともいっぱいあったの」
そのまま土産話をはじめようとするラティナに向かい、デイルが苦笑いを浮かべて声をかける。
「着替えて来たらどうだ、ラティナ? 荷物も下ろさねぇといけねぇし」
「うんっ」
くるり。と反転して厨房に駆け込むラティナの姿に、大人たちは穏やかな表情を交わし合う。
「ラティナ、元気ねぇ」
「興奮しているな。はじめての遠出だったしな」
「大きな怪我とか病気とかしないでくれて、ほっとしているよ」
デイルの報告にも、無事に帰って来れた安堵が滲む。
「リタもその様子じゃ、順調みたいだな」
「初めてだから、わからないことばっかりよ」
「義父さんに、今は『緑の神の伝言板』の業務は手伝ってもらっている。俺一人じゃ、厨房と同時に回すのは難しいしな」
リタの結婚を機に、彼女の両親は店を若夫婦に委ね、南区の住宅街で隠居生活を送っていた。だが『踊る虎猫亭』の業務の中でも、『緑の神の伝言板』の操作に関しては、扱える人員が限られている。『神殿』への許可を必要とする、ある種の免許が必要となるのだ。臨時の従業員を雇えば良いという訳にはいかなかった。
そのため、他ならぬ娘と孫の為にと、先代、リタの父親が、せっせと通勤し補助をしていてくれているのだ。
「……ケニス、大丈夫だったか?」
「俺はできる大人だから、大丈夫だ。だが、ここにラティナが居れば良かったと何度かは思った」
あの愛らしい少女の、場を和ませる能力は、もう既に特技の域である。
一人娘であるリタの婿として、先代に認められているケニスではあるが、だからといって全てに円満の関係とは言い切れない。不仲ではない。それでも共に居れば反発することも起こる。
先代夫婦が隠居したのも、それが理由だ。
「そんなに父さん怖いかしら?」
「…………」
「……俺には怖くねぇ、親父さんだったぞ。俺には」
冒険者連中相手の商売で、一歩も引かない性格の男だ。ケニスとデイルが奇妙な表情を交わし合うのも、無理はない。
ぱたぱたという足音で、ラティナが戻って来た事が察せられる。旅装を解き、普段着のワンピースに着替えたラティナがひょこんと顔を覗かせた。
「デイル、お洗濯まとめてやるから、置いておいてね」
「おう」
すっかり、家事の大半をラティナがやるスタイルが確立していた。旅に出る前からラティナは働き者だったが、この数ヶ月の故郷の滞在中、ラティナはマクダの元で家事スキルを磨いたのだった。実家という気安さから、家事から遠ざかったデイルとは真逆だ。その結果、自然な流れで、家事の多数をラティナに依存しかけていることには、保護者はまだ気付いていない。
「なんか……ラティナ、ますますしっかりして来たわねえ」
リタが思わず、といった様子で呟いた。
ラティナは『虎猫亭』の卓の上に、荷物をせっせと広げ始めた。客の少ない時間帯であることを知っているからこその行動だ。
「リタにおみやげっ」
そう言って袋の中から出して掲げたのは、片手で持つ事が出来る程度の大きさの護符だった。複雑に編み込まれた紐によって形作られ、素朴な風情を感じさせる。
「これは……橙の神の護符か?」
「まあ。ありがとう、ラティナ」
『橙の神』は、豊穣を司る神。安産祈願や子孫繁栄の信仰を集める神である。妊婦やその周囲の者が護符を求めるのはよくある行動となっていた。
「……これ、お前が作ったのか?」
ぽつりとケニスがデイルに問いかければ、デイルは少し気恥ずかしそうに視線を背けた。
「ラティナが、リタに護符贈りたいって言うし……一応、俺、神官位だからな……」
「そうか」
デイルが自分の『加護』をあまり好意的に考えていないことを知るケニスは、短く答えて穏やかな表情となっただけだった。
――それは、二人がティスロウに到着して、滞在時間の半ばを過ぎた頃。
「うん、リタはね。赤ちゃんお腹にいるんだよ」
ラティナがヴェン婆に向かい言ったのは、コルネリオ師父から借りた本をヴェン婆の部屋で読みながら、クロイツでの暮らしを話していた最中のことだった。
「ほお。じゃあ、『橙の神』の護符でも作れば良い」
「ごふ? お守り? ラティナ作れるの?」
「護符を作れるのは『加護持ち』、つまりは神官だけだな。だが、まわりの飾りの部分はラティナちゃんが作りゃあ良い。中身はバカ孫にやってもらえ」
「デイルに?」
「おう。あいつでも、そんぐらいの『神官らしい』ことは出来るだろ」
普段のデイルの様子に『神官らしい』行動は欠片もない為に、ラティナは首を傾げる。だが、ヴェン婆はカラカラと笑っただけだった。
「婆がそんなこと言ったのか?」
「うん。ラティナ、リタにお守り作りたいな。デイルお願いしてもいい?」
夜更けて二人きりとなった室内でラティナはそう言って『お願い』の顔をする。当人に自覚はなさそうだが、少し上目遣いの小首を傾げた表情は、幼さの分を差し引いても破壊力抜群だ。
このまま成長すれば、この子は数多の男を泣かすに違いない。だが、ラティナのそんな表情を余所の野郎などには見せる筈がない。ラティナに『お願い』されるのは『保護者』の特権なのである。
「うーん……材料は、まぁ、あるよな」
とりたてて珍しい材料を使う訳ではない。
『橙の神』に近しい存在、すなわち大地の実りの一部として考えられている植物を護符の制作には用いる。
とはいえ草花をそのまま使うのではなく、護符の材料は植物性の繊維を草花で染めた物を使用するのだった。
街の神殿のような大きな場所では、複雑な紋様を織り込んだ豪華な布を使用する。だがティスロウ流の護符は、もっと素朴な、紐を編み込んで装飾を形作るものだった。
「……俺が、『中身』、祈祷して作る護符の本体を作るから、ラティナはそれを入れる袋の部分を作ってくれるか?」
「うん!」
デイルが用意した材料は、驚くほど色とりどりの紐の束だった。ラティナの前で、デイルはそれを数本抜き取ると、器用に編み上げていく。
「デイル、すごいっ」
「……ここじゃあ、子どもの頃から、結構手伝わされるからなぁ」
冠婚葬祭の際の飾り物の制作には、子どもたちも駆り出される。そうやって代々受け継ぐ飾り物の作り方などを伝承しているのだ。
「ゆっくりやるから、よく見てろよ」
「うんっ」
かつて自分が親からそう教わったように、デイルはちいさな少女の手を取って、模様を生み出す独特の紐の編みかたを教えていったのだった。
ラティナが作った『護符』は、いくら彼女が器用な質とはいえ、拙さが見て取れる。それでも通常神殿で授与される『護符』とは比べ物にならないほどに『思い』が込められたものだ。
リタはそれを嬉しそうに胸に抱いて、微笑んだ。その笑顔には今までにはなかった『母親』としての感情がのぞいている。
「本当にありがとう、ラティナ」
そうして、めったに向けない笑顔をデイルにも向けた。
「デイルも、ありがとう」
リタのまっすぐな感謝の言葉を、受け流すことも茶化すこともできなかったデイルは、隣から見ていても、はっきりわかるほどに動揺したのだった。
お土産と、お土産に関するエピソードという形式で、帰りの旅の様子などを語って参ります。
お付き合い頂ければ幸いと存じます。