前日譚。拾壱、罪人の烙印。
託宣を聞いたスマラグディの表情は強張った。
彼は、ずっと危惧していた。この神殿に属するものたちが、盲目的に神の言葉を至上のものと従うことを是としていることを、彼はモヴと共に在る間、今まで何度も痛感してきたのだ。
彼にとって幸いだったのは、現在の神殿の最高位の神官であるモヴが、彼の直弟子と言うべき教え子であり、神殿の考え方を即座に肯定や否定するのではなく、自ら是非を考えることが出来るようになっていたことだった。
そして長年神殿の中で相談役を担っていたスマラグディ自身に、人望が集まっていたことだった。
神殿の中でも保守的な人物ほど、今回のエピロギの託宣に、すぐさま『罪人』の罪を裁くべしだという声があがっていた。
スマラグディやモヴが、老害と呼んできていた、思考が凝り固まっているにも関わらず、地位だけはあるので扱いが難しい輩たちのことである。
この国に於ける『王』とは、国主である『一の魔王』を指している。先代を喪い、候補者もまた喪ってから、この国はずっと新たな王が即位することを待ち望んでいた。
民の一人であるスマラグディやモヴも、その思いには変わりがない。
だからといって、まだ何ひとつ罪を犯していないプラティナを、託宣に定められた罪人として裁くべきだという声には、スマラグディは、はっきりと反発した。
神殿の奥で秘匿されていたとはいえ、プラティナとフリソスは、ある程度の区画は自由に行き来していた。その二人を、両親は自分たちの私室に囲いこんだ。
それは、保守派の神官たちが実力行使に出ることを恐れたからでもあったし、託宣以降、プラティナに向けられるようになった周囲の悪意から二人を隠すという理由も大きかった。
それだけエピロギの言葉は重んじられており、『破滅』という未来を確定させる予言は、人心の不安を大きく煽るのである。
フリソスとプラティナの二人は、他者の放つ『悪意』に敏感だった。
神殿の中に渦巻く自らへの害意を察知してプラティナは震え、そんな半身の様子にフリソスも、プラティナと手を取り合って、怯えるようになった。
張り詰めた両親の姿が、子どもたちをより不安にさせているのだとわかってはいたが、スマラグディもモヴも、気を緩めることは出来なかった。
「……エピロギ様の予言は外れた記録はないんだね」
感情を露にして喚くことはなく、こんな時でもスマラグディは冷静だった。
内心は、怒りや焦りで乱れていると言っても良かった。だが、それでは現状は何ひとつ好転しないことも、彼は理解していたのだった。
モヴは、スマラグディよりも年若いこともあり、動揺を面に出していた。
モヴは、大神官として政務に就いている時は、決してそんな揺れ動く姿を見せない。唯一、弱い姿を見せることの出来る相手であるスマラグディの前だからこそ、モヴは感情的になることが出来るのである。
「私の知る限り、エピロギ様の予言が違えたことはない」
掠れた声のモヴの答えに、スマラグディは静かに思考を巡らせる。
「かつてモヴが受けた託宣と、空位となっている魔王の座……それに今回の託宣を合わせれば、フリソスが『一の魔王』となるのだと、推測して良いと思う」
「スマラグディ……」
「だからといって、プラティナがフリソスを傷付けることを願うとは思えない。もしそうなるとしたら……」
スマラグディは彼らしくなく、表情を苦々しげに歪めて言い捨てた。
「こんな馬鹿げた悪意に晒されて、プラティナが全てに絶望してしまった後だろう」
現在、仲睦まじい姉妹だが、今後もずっとそのままであるとは限らない。それでもこれだけ優しい性根の二人が、大きく歪んでしまうとしたならば、それはそれだけ大きな影響を受けてしまった後のことだろう。
だからこそ二人を、二人共に守らねばと、思う。
モヴも不安を押し殺して顔を上げた。
「プラティナ自身の意思ではなく、フリソスを害してしまう可能性があるのかもしれない」
「……それはあり得るかもしれない。モヴの加護で予知することは可能かい?」
「可能かどうかではなく、してみせる……そうでなければ、加護を持つ意味がない」
感情に任せて言うモヴを、スマラグディは自分の激情を抑えて抱き締めた。彼女が双子の娘たちを、自分と同じく深く愛していることをスマラグディはよく知っている。
愛情故とはいえ、自らの娘たちに公平な判断を失っていると、治世者としてのモヴは責められても仕方がないだろう。
「ぼくも同じ気持ちだよ」
それでも自分だけは、決してそんな彼女を否定しないと、スマラグディは心に誓う。
「今のぼくにとっては、この国と天秤にかけても、あの娘たちの方が重いのだからね」
明確な答えが出ないまま、モヴは神殿の執務室へと戻って行った。娘たちの側を一時も離れたくないと願いながらも、少しでも現状を悪化させないように、彼女は自分の責務を果たしていたのである。
モヴを見送った後で、スマラグディは奥の部屋へと踵を返す。
暗がりとなった部屋の片隅で、抱き合い震える双子の娘たちを見る。
「ラグ……」
泣き出しそうな声を上げたのは、フリソスだけだった。
ぐずぐずと鼻をすすり、抱き締めたスマラグディの胸に顔を埋める。それでもフリソスはプラティナの手を離さなかった。彼女は、自分が守るのだとばかりに、必死に妹を庇い続けているのだ。
蒼白な顔で怯えるプラティナに、涙はない。
この娘たちは、いつも先に泣き出すのは、泣き虫で怖がりなプラティナの方だった。それなのに最近のプラティナは、泣き方すら忘れてしまったように涙を流す様子がない。
泣くことが出来ないのだと、スマラグディは娘の様子を判断していた。
この娘たちは、自分たちを取り巻く環境が、急激に悪いものへと変化したことを理解していた。特にプラティナは、その『悪いもの』が己に向けられていることを理解しているとしか思えない。聡いという言葉だけでは言い表せない察しの良さだった。
こんな愛娘の姿を見せられ続けるスマラグディが、やるせなさと怒りを抱くのも無理はなかった。
『災厄』と呼ばれる魔王が、全てを滅ぼしたいと願うことの一端すら理解出来そうだった。愛娘を害する全てのものを打ち払いたいとすら、望んでしまう。
「ラティナ……リッソ……大切なぼくたちの娘たち」
それでもこれ以上娘たちを怯えさせることのないようにと、スマラグディは自分の激情を飲み込んで隠した。柔らかな優しい声で、娘たちの名前を呼ぶ。
「ぼくもモヴも、君たちが大切だよ。それだけは絶対に変わらない。何があってもぼくたちは君たちの味方なのだから……覚えておいて。ラティナ、リッソ……」
弱々しい反応でも、プラティナが自分の服を握りしめ、すがってくれることに安堵を抱く。
自分に出来ることは何だろうかと、この娘たちの為に出来ることは何だろうかと、スマラグディは思いながら娘たちを抱く腕に力を籠めた。
エピロギの託宣が覆らない--その前提の上で、スマラグディとモヴは、かつてモヴの大きなトラウマとなった存在への危機感を思い出すことになった。
『二の魔王』。災厄と呼ばれる魔王のうち、自らの快楽の為だけに殺戮をもたらす存在は、新たに誕生する『一の魔王』を再びその手に掛けようとするだろう。
今までは、神殿の奥に秘匿することが出来た。
だが『新たな王が決定した』という予言は、吉事であるからこそ、今まで以上に人の口の端にのりやすくなることだろう。全ての人の口に戸を立てることは不可能である。いつかは明るみに出る事実であり、その時が刻一刻と近付いているということなのだ。
「『二の魔王』は、伝え聞くところだと、魔力形質を持つ者を従えることがあると聞くけれど……それは、『珍しいもの』だからだと言う話だね」
「……」
こくりと頷いたモヴに、スマラグディは更に言葉を継いだ。
「双子という存在も、魔人族にとっては非常に珍しい存在だ……『一の魔王』に妹が……双子の妹が存在することが知られたら、どうなると、モヴは見る?」
「……玩具に」
見た可能性に、憤り震えて、モヴは答えた。
「プラティナは、連れ拐われて、心を壊されてしまうだろう。その時は、フリソスも……」
「……そうだね。それも一つの『破滅』への道筋だ」
他の可能性も探った。
検討を重ね、愛しい娘が『破滅』へと導くという『可能性』を考えた。
その上で、どうしても避けなくてはならない『可能性』こそ『二の魔王』に見付かることだった。
プラティナとフリソス二人共に護る為には、『二の魔王』の目から逃れることが必須の条件となるのである。
「ぼくは、『神殿』で暮らす時間が長くなってはいても、あまり信心深くないのかもしれない……けれども」
スマラグディはそう言って微笑んだ。
「君の言葉は信じている。君が誰よりも娘たちを愛していることを知っている」
だから--
「プラティナを、この国から逃がそう」
罪人と呼ばれ、強い悪意に晒されたとしても、あの娘たちを失うよりはずっと良い。
そしてそれは、きっと初めて出会った時から定められていた、別れが来るということなのだろう。
「仕方ないよ、モヴ。君はフリソスを護らないといけない。ぼくはプラティナを護るよ。ぼくに出来ることは限られているけれども、出来る限りのことはするよ」
「スマラグディ……」
「リッソを宜しくね。ぼくたちの大切な娘であり、魔人族の大切な導き手を……それは、きっとモヴにしか出来ないことだから」
--そして、その時がきた。
血を吐くような思いを飲み込んで、スマラグディは、幼気なプラティナに憎悪じみた呪詛の言葉が向けられるのを耐える。
ヴァスィリオの重罪人は追放刑に処せられる。彼女を連れて逃げたとしたら、追っ手が掛けられることだろう。『合法的に』プラティナを神殿から、この国から出す為には、こうすることが最も合理的なのだと自らに言い聞かせた。
プラティナは、震え、涙もなく、大きな灰色の眸に、自分を罪人と罵り冷たい視線を向ける神官たちを、あまり感情の見えない顔でうつしている。
感情豊かなあの子が、あんな顔をするなんてと、慟哭を押し殺して呻き声を漏らす。そんなスマラグディの前で、彼と同じ色のプラティナの左の角に、神官が手を伸ばした。
--そうして、幼い少女は、重罪人としての烙印を押されたのだった。
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前日譚も、後、わずかで終了です。




