前日譚。漆、紫の巫女、白金に泣かされる。
『娘』のトラウマ案件、頬っぺたもぎ取り事件であります。
「なんでモヴ、ちっさいの?」
というプラティナの発言には、全く悪意は無いのだろうな。と、母親であるモヴは思った。
双子の娘たちは好奇心が強く、様々なことに疑問を持つ。父親が博識であることも相まって、世の中の全てには理由があり、知的好奇心を満たす喜びもこの幼さで既に知っている。
それは喜ぶべきことだろう。
与えられるものを安寧と受けとるに留めるのではなく、疑問を持ち、その疑問の答えを得ようとする姿勢は好ましいものである。
この子たちのどちらかは、いずれヴァスィリオを負う国主となる。そして選ばれなかったもう一人も、大きな決断を強いられる時が来るだろう。
己で考え、答えを探すことは、とても大切な資質である。
--まあ、だが、それはそれである。
幼子相手に手を上げてはならないと、スマラグディに念を押されているので、手は上げない。ただ、『言ってはならぬこと』がこの世にはあることを、教えることも母親である己の仕事であろう。
モヴはそう結論付けて、純粋な好奇心溢れる眼差しで自分を見上げるプラティナと向き合った。
むに。
娘の両の頬をつかむ。
娘の頬っぺたは、思っていた以上に、ぷにぷにむにむにとしていて、さほど力を籠めなくとも、むにゅんと伸びた。
「プラティナ」
「ぴゃっ!」
普段の愛称ではなく、正式な名で娘を呼ぶと、プラティナはびくん。と大きく跳ねた。
「世の中には、聞いてはならぬこと、口にしてはならぬことがあるのだ。沈黙こそ正しい選択である時もあるのだぞ」
「ふゃ……」
妙な声を上げて母親を見上げるプラティナは、両目に涙を浮かべてぷるぷる震えていた。
更に頬を、むに。と引けば、娘の涙は更に盛り上がった。
娘の疑問は、恐らく彼女の他に知る『女性』である、侍女たちに備わる豊かな女性らしい二つの丸みが、己には無い--控えめであることが、理由だとモヴは推測する。
プラティナは単純に不思議に思っただけで、悪意は無いのだろう。
だが、それは、モヴのコンプレックスである部位なのだ。
モヴは、スマラグディに恋慕の情を抱いて、彼を求めた。思いこそ通じたものの、彼は自分のことを、恋い焦がれる女性として選んでくれた訳ではない。彼は優しいから、自分を切り捨てることが出来なかっただけだ。
そう思ってしまうのは、モヴにとっての負い目そのものだった。スマラグディが自分を大切にしてくれるひとだからこそ、モヴは女性としての自分自身に自信が持てないし、自らのせいで彼を破滅に導いてしまう、後悔もある。
治世に携わる者としての能力は、研鑽を積めば良い。
だが、女性らしい豊かなシルエットを得るには、どうしたら良いのかはわからない。子どもの頃からずっと、痩せぎすの薄い身体つきのままであるのだ。
スマラグディは、もっと女性らしい身体つきを好ましく思っているのかもしれない。恋慕うからこそ、モヴはそんな不安を抱いていたのだった。
「ラグっ、ラグーっ」
「どうしたんだい、リッソ、そんなに急いで?」
半泣きのフリソスが、スマラグディを必死で引っ張って来たのは、その時だった。
そこでスマラグディが見たのは、もう一人の娘の頬を、左右に、むにぃ。と伸ばしながら、伏魔殿たる神殿の中枢で、自分よりも遥かに歳を経た狐狸の如き老害を相手にするような覇気を纏うモヴの姿だった。
何が起こっているのかはわからなかったが、とりあえず思う。
(これは、泣く)
泣いても致し方ない。直接モヴの怒りに晒されているプラティナだけではなく、父親の助けを求めて走ったフリソスも涙目でぷるぷる震えている。
「モヴ、そのあたりにしておきなさい。ラティナだけでなく、リッソも怯えてしまっているよ」
スマラグディが、少しきつい声でモヴを叱責する。すると、娘たちだけでなく、モヴにまで涙目で見られてしまった。
本当に何が起こっているのかわからない。
モヴの両手から解放されたプラティナの頬っぺたが、ぷにゅん。と元の形に戻る。プラティナは自分の頬を押さえ、ぷるぷる震えながらスマラグディを見た。
「ラグ、ラティナのほっぺ、ちゃんとある?」
「大丈夫だよ、取れてないよ」
どうやら娘にとっては、両の頬をもぎ取られるほどの恐怖であったらしい。
普段は快活なプラティナが、よろよろとスマラグディの方に向かい、涙目で父親にしがみついていたフリソスの元に行く。
己の片割れと手を取り合って、娘たちは味わった恐怖を分け合うように、ぎゅっ。と抱き合った。
そんな二人を、抱きしめてあやしていたスマラグディは、モヴの恨みがましい視線と目が合った。
拗ねている。
モヴは、あまり感情が面に出ない。だが、スマラグディにはしっかりと、そんな彼女の感情が読み取ることが出来た。
「……モヴ」
「……」
スマラグディに呼ばれて、彼女はむすっとした顔を無言で向けた。そんな顔をされたら、彼も苦笑するしかない。
「……ラティナに、苛められたのかな?」
スマラグディの言葉に、モヴから険が薄れる。
彼女は娘に『苛められてしまった』のだろう。それなのに、娘たちだけがスマラグディに甘やかして貰えることに、彼女は少なくはない嫉妬心を抱いているらしい。
それを大人げないと言い捨てるには、スマラグディは年下の彼女が、いつも必要以上に頑張っていることを知っていた。
娘たちの方が先に平常心を取り戻したが故に、幼い頃のように彼を一人独占して、モヴがスマラグディの膝の上で彼に抱き付いたまま離れなくなるという状況になった。
公務に戻って来ない『姫巫女』を呼びに来た侍従に困惑させるという、事態に繋がっていくのだった。
因みに、『プラティナによる苛め』の内容を聞いたスマラグディは、
「そういった、劣等感を抱くところも含めて、モヴの個性だと思っているよ」
と、冷や汗ひとつかかずに、さらりと言ってのけた。
「……もっと、女らしい者の方が、好ましいとか……」
「君から願ったことだったけれど、それを受け入れて、モヴと共に在ることを決めたのは、ぼく自身だよ」
自分に抱き付き、不安そうな声を出すモヴは、『全てを見通す姫巫女』なんてものではなかった。
当たり前であるそういった事実を見せられるから尚のこと、スマラグディは彼女にも、甘く優しくなってしまうのだった。
「モヴ以外の誰かであるならば、こんなに可愛い子どもたちとは出会えなかったしね」
「スマラグディは、ラティナとリッソの方が大切であるようだ……」
自らの責任に対して誰よりも厳しく生きているモヴが、そうやって自分にだけ甘えたことを言ってくるのも、とても可愛いらしいと、スマラグディは思っていたりする。
結局、自分はそうやって甘えられることが好きなのかもしれないと、彼は自分よりもずっと年下の彼女を抱く腕に力を籠めた。
娘たちではなく、今日はこのまま彼女をたっぷり甘やかしてしまおうと心に決める。
「モヴとの間に生まれた子どもたちだからね。大切だよ」
嫌いな相手であれば、望まれたとしてもこうやってその後も共に在ることはないだろう。
情が移っただけでは言い表せないほどの時間を、もう自分は彼女と共に在るのだ。
そのあたりを、この甘えん坊で、自信が少しない彼女に教え込むべく、スマラグディは更に言葉を重ねていった。
スマラグディの囁き声は、彼女だけにしか届かなかったが、そんな両親を見た姉妹は互いに笑みを交わし合った。
「モヴ、ラグとなかよし?」
「なかよしーっ」
「ねーっ」
大好きな父親の抱っこは、母親に独占されてしまっていたが、自分たちにはお互いがいるとばかりに、つなぐ手に力をこめる。
胸の内に抱く幸せな気分のまま、フリソスとプラティナは、神殿の奥の限られた場所--二人にとっての世界の全て--を、散歩するべく歩きだしたのだった。




