白金の娘、省みる。(後)
とはいえフリソスも、ラティナがそこまで簡単に割りきれるとは思っていなかった。
フリソスは『一の魔王』としての見地から、他の魔王が賛同せざるを得なかった立場は重々承知している。
だが、ラティナの唯一の姉としては、大切な自分の妹に手を出した以上報復されて然るべしとも考えてしまうのだった。
立場はどうあれ、『報復される』のは、仕方のない状況だ。
『二の魔王』は、それすら娯楽としていた悪趣味さと、『魔王』による報復では自分は害されないという増長した自信があったようだが、本来だからこそ『魔王』は、『他の魔王』に基本的に不可侵の立場を崩さないのだから。
自分も、滅ぼされる可能性を覚悟していた。
『八の魔王』であるラティナ自身が、自分を敵対者として見ていないことによる『理』の加護。そして、彼女の為に動く眷属たる『勇者』が、筋金入りの『親バカ嫁バカ』であることから、即座に断罪されることはないと、見越していた。それでも『絶対』ではない。
だが、それも仕方のないことだろうと、思っていた。
どんな咎となったとしても、妹を取り戻す為に自らの手を汚すことを厭わないと覚悟していた自分には、何も言うことは出来ない。
それでも優しい性質のこの妹は、簡単にそう切り捨てることは、出来ないのだろう。
そしてそのことを喜ばしく思ってしまう。
「プラティナ、『魔王』とは『神』だ。ひとの理を超えて傲慢であるのも致し方あるまい?」
「……でも」
「それでも同時に『ひと』の視点で在ることも求められている。ならば、其方の煩悩もまた、正しいものだろうよ」
「フリソス……」
姉の声に、ラティナは複雑になりながらも顔を上げた。しっかりと前を見据えている姉に対して、どうしても優しいひとたちに甘えてしまう自分のいたらなさに、心が縮む。
「そのままで在れ、プラティナ」
フリソスは敢えて言い切った。
「余が、ひとの視点を忘れた傲慢な存在と成らぬように。其方の唯一の眷属が、万物を切り捨てる修羅と成らぬように」
ラティナが悩んでいても尚、そう思う。
自分も、この妹の傍にいる時だけは、『一の魔王』ではないフリソスという『ひと』の心のままでいることが出来る。
王という責務の中、押し潰されることもなく、『自己』を支えることが出来る。
「我等の枷で在れ」
だからこそ、ラティナには今のままでいて欲しいと願う。
そう微笑むフリソスに、ラティナは困惑した表情を向ける。自分の未熟さを自覚しているラティナにとって、それを肯定されることは、すぐさま頷けることではなかった。
「今の私のままじゃ……駄目だと思うのに?」
「成長することは必要だろう。そして全く変わらないでいるのも不可能なことだ」
フリソスは、真面目過ぎる妹をぎゅっと抱き締めた。誰かの温もりをこれほど近くに感じることは、今のフリソスにはまずない。それがどれだけ自分の救いであることを、どうしてこの妹はわかってくれないのだろうか。
「けれども、プラティナ。そのままで在ってくれ。……其方にもわかるだろう? 余が其方の『姉』のままで在って欲しいと願うのであれば」
「……そうなのかな」
「そうだ」
妙に腹立たしいから認めたくはないのだが、あの男もそうなのだろう。自分と同じように思っているなど! 妙に苛立つので認めたくはないのだが! あの男にとっても、この優しい性根の妹は、救いであるのだろう--と、フリソスは思う。
「其方が、『今のままで在れる』ように護れることこそ、我等の糧だ。……それは、ある意味ではひどく困難なことかもしれんがな」
自分が歩む道が、どれほど泥をかぶり、血にまみれ、屍を積み上げたものだとしても--この守りたい存在だけは、それらとは無縁のままでいさせたい。
重荷を分け合う方法は、同じ荷を負うことだけではない。
この大切な妹は、優しい世界の中にいて欲しい。
だが、きっと聡いこの妹は、自分が守られていることも、周囲がその分の重荷を負っていることも理解してしまうのだろう。
--理解してくれているだけで、それで充分なのに。
そして、それだけ辛く苦しい業を、大切に想う相手に負わせないで済むことこそに、自分は救われるのだ。
おそらく、あの男も同じなのだろう。
非常に認めたくないことなのだが。--と、フリソスは内心で憮然とした。わかりあえてしまう己にも、微妙な心持ちとなるのだった。
「……わかったとは、言えないけれども……フリソスの言ったこと、考えてみる」
その返答すら真面目過ぎると、フリソスはくすりと微笑んだ。
「先ずはそれで良かろう?」
そして、ぎゅーっと抱擁する腕に力を籠めた。
「だからこのまま、余の傍におれ」
「…………」
フリソスの言葉に、ラティナは妙な反応をした。視線が泳ぎ、何か言いにくいことがあるような顔をする。そんな妹の思考が面に出る素直なところも、フリソスにとって、自分には望めない部分であるので微笑ましい。
フリソス自身も気付いてはいたが、ラティナは、ヴァスィリオに滞在することを望んでいない節があった。
知らず眉間に皺が寄る。その身を守る為とはいえ『罪人』とされて追放されたラティナを、厭う者はいるだろう。だが、そんな輩から守れるだけの権力を今のフリソスは得ている。ラティナに対する非礼を許すことはない。
それとも、政治に巻き込まれることを厭っているのだろうか。
シルビアやローゼの話を聞いた感触では、ラティナは、人間族の国の貴族子女相当の学問と作法を学んでいる印象を受けた。だが、治世者としての教育とは無縁であったようだ。一般庶民の中、平穏に暮らしていたのだから、無理もない。
ならば、欲深い者と接しない環境で、穏やかに暮らせるように計らおう。
だからプラティナが、心配することなどないのだ。--と、フリソスは考えを巡らせる。
最近少し動けるようになったからと、手ずから洗濯を始めたり、厨房に出入りしたり、挙げ句の果てには、厨房中の金属鍋を磨きあげるなんて行動をしていたらしいが、そんな苦労はしなくても良いのだ。
なんて、思うのだった。
無論、ラティナが『帰りたい』理由はそのあたりにある。
ラティナは、忙しいと尚更燃える、仕事中毒少女である。
ラティナは、現在の自分の立場と、控える侍女にとっての仕事が、自分の身の回りの世話であることを理解している。いちいち侍女にかしずかれることも受け入れていたが、もどかしくて仕方がないのが本音である。
それでもついつい、デイルとのことを落ち着いて考えようと思ったら、洗濯をしてみたり、厨房中の金属鍋を磨きあげてしまったりした。特に鍋磨きは、無心で打ち込むのには最適な作業であり、尚且つ鍋もピカピカになるという、一石二鳥で合理的な作業である。そのうち楽しくなって、鍋を磨くことに集中してしまったが、達成感ですっきりとした。
「……いつか、フリソスの傍で暮らす時も来るかもしれないけど……今はクロイツに帰るよ。あの街は、私にとって、もう故郷って言える街なの」
無論、働きたいことだけが理由ではないのだが、ラティナはそうやってフリソスに自分の意思を伝えた。
「プラティナ……」
「私のこと、心配してくれるひとがたくさんいる街なの。……それはとても嬉しいことだと思ってる」
「其方が……そのように言える場所があるということが、幸いだと思うべきなのだろうな」
変わる様子のないラティナに、フリソスはため息を飲み込んで答えた。
ヴァスィリオとラーバンド国の国交を、一刻も早く進めなくてはならないと心に決める。
ラティナはラティナで、フリソスの気持ちは嬉しいが、もう自分は、『魔王陛下の妹姫』としての生活は出来ないな、と考えていた。
(子どもの頃から……『お姫さま』よりも『お嫁さん』の方が、素敵だなって思ってたもんなあ……)
ラティナが最も憧れている女性は、デイルの祖母ヴェンデルガルドであったりする。たくさんの孫や一族に囲まれて、多くの人びとに愛されながら穏やかに歳を経る。あんな風な『おばあちゃん』になりたいと、ラティナは願っているのだった。
綺麗なドレスやきらびやかな社交界に憧れる気持ちはあっても、その中の一員になりたいとは思わない。
そんな風にラティナは、骨の髄まで庶民派思考に染まっているのであった。
「前みたいに、もう会えないお別れじゃないから……」
「……そうだな」
「また、必ず」
「ああ。必ず」
自分を抱き締めるフリソスを、ラティナもまた抱き締めた。抱き合う二人の同じ色の髪が、同じように白金の輝きを含む。
かつて別れの挨拶をした時は、慌ただしく、状況もよくわからないながら、もう会うことはないのだと--苦しくて哀しいだけの別れだった。
けれども今は違う。
会うことは必ず出来る。
魔王を害することが出来る者は限られている。二人の魔王が望むことを邪魔だて出来る者などありはしない。
(あの男にも、それだけは邪魔はさせぬ)
内心で『唯一妨害をすることが出来る』であろう者相手に、啖呵を切る。そうしながらフリソスは、ラティナと共に過ごせる同じ時間を、より深いものにしようと妹を抱く腕に力をこめたのだった。
そして、そう長く日にちを挟むことなく、ラティナはデイルと共にクロイツに帰ることになった。
ラーバンド国の正規の使節団が来た際、デイルがその場にいたことを確認されるのは問題がある。救国の英雄とされている『勇者』が、痴情のもつれで親善国の君主を暗殺しに行ったなどと、未遂であっても公式な記録に残される訳にはいかない。
帰宅の日。それはとても天気の良い朝だった。
ラティナにとっては知らない期間、移り巡った季節は動いて、暑い気候のヴァスィリオでも、春の比較的過ごしやすい気候になっていた。広がる空は、優しい淡い青で、見送るフリソスは日の光に目を細めた。
ぱさり--逆光の中、黒い影絵となった灰色の幻獣は翼を動かして、目的の方向へと向かって行ったのだった。




