白金の娘、『世界』を語る。
日常と異なる事態が襲って来ても、やはり世界はいつも通りに動いているものなのである。
すなわち、普段ならば、とっくに階下に降りて来る筈のラティナが来ない状況を不審に思ったケニスが、下から声を掛けたのだった。
「どうしたーっ、ラティナ?」
そこで二人は、氷入りの冷水をぶっかけられたように、我に返った。
『魔王』云々の前に、今の状態を見られるのは、色々不味い。
デイルは兎も角、ラティナは特に不味い。
二人の暮らす屋根裏は、荷物や衝立で区切られてはいるものの、壁で明確に仕切られている訳ではない。基本的にプライベートな時間に家主夫婦は上がってくることは無いが、上がって来られると色々見えてしまう。
ラティナは、自分があられもない姿であることをようやく思い出したらしく、全身を一瞬で羞恥の色に染める。
下から足音が聞こえてきた瞬間に、デイルが反射的に声をあげた。
「ケニス、すまないっ! 寝坊だ、寝坊っ!」
その隣では、ラティナが慌てて着替えを始めていた。慌て過ぎて、片足に絡みついた夜着に足をとられて、ぺちゃん。と転ぶ。
さっきまでとは異なる理由で、半泣きになっていた。
その姿に、『魔王』らしさの片鱗もなかった。
(というか……『魔王』とは何だろう……?)
外見上の変化は、ラティナには全く無い。『魔王』と一口に言われているが、例えば、『二の魔王』と『四の魔王』では持つ能力も性質も、全く異なる。ラティナがどんな魔王になって、どんな能力を持っているのかまでは、デイルにはわからなかった。
そして、そんな変じてしまった彼女は--
今日もいつも通りに、山盛りの芋の皮を剥いているのである。
ちょっと冷静に状況を考えてみようと思ったが、ますます混沌としただけだった。
自分の想像力が、「玉ねぎに泣かされる『魔王』」というものまで到らない。事実は小説よりも奇なりと言うが、こんな『現実』と相対する日が来るとは思ったこともなかった。
うん、だがやっぱりラティナは可愛いな。なんて、現実を見ようと思ったら、現実逃避になってしまった。
かつて、魔人族の女性であるグラロスから聞いた話では、『魔王』という存在そのものが、人間族と敵対している訳でも、破壊と殺戮の化身という訳でもないらしい。
ローゼが『二の魔王』と接した際に耳にした話も、『魔王』だから他種族と敵対するのではなく、当の本人の資質が関係していると言うものだった。
ならば、ラティナが『変じた魔王』が、いわゆる『災厄の魔王』だとは思えない。
--と、考えるうちに、デイルは疑問を抱いた。指折り数えて、首を捻る。
「ラティナが成った『魔王』って……何だ?」
世界各地に居を構える『魔王』は、七色の神が定めた世界の理通りに、『七つ』である筈だ。全ての魔王と相対したという訳でも無いが、デイルの元には、仕事の関係上、話程度は集まってくる。
先日ラティナは、「新しい『一の魔王』が現れた」と、言っていた。
その言葉が事実であるならば--現在空位の魔王は存在しない筈だ。
ローゼが遭遇した、殺戮愛好家である『二の魔王』。
東の地で、海鱗族と共存しているという『三の魔王』。
病を司る存在であり、その座する土地では、蔓延した死病が国すら滅ぼそうとしているという『四の魔王』。
別名を「塔の魔王」と言い、居城たる塔の外に出ないとも言われている『五の魔王』。
通常の魔人族たちよりも、遥かに秀でた体格の自ら一族を、眷属--魔族とし、世界を放浪しているという「巨人の魔王」たる『六の魔王』。
そして、戦乱と争乱そのものを求める『七の魔王』。
--全て、存在している筈だった。
人間族の知らないところで、『一の魔王』がそうであったように、何処かが空位となっているのだろうか。
デイルは浮かんだ疑問の答えを得るすべがないままに、紛れもない『新たな魔王』である彼女を見つめていた。
やっぱり、改めて見てみても、ラティナは可愛いかった。
昨夜の、何時にも増して『可愛いかった姿』も、ついつい思い出してしまって鼻の下を伸ばす。引き締めようと試みるも、一度緩んだ緊迫感は、新たに更新された溺愛しても足りない程の感情に駆逐された。
彼もまた、いつも通りであったのだった。
「……で、一日考えてみたんだが……」
「うん……」
夜を待ち、部屋に二人きりになると、デイルはラティナと向かい合い、そう切り出した。
魔王と勇者が余人を交えず相対する--それだけを抜き出せば英雄譚の一篇のようだが、現在二人の間に漂う空気は、微妙な反省会のような雰囲気なのであった。
「ラティナはラティナのまんまなんだな」
「……そうだよ。『私』の人格とか、考え方が変わっちゃうって訳では無いの」
むしろ、デイルが発していく疑問に、ラティナが答えていくという姿から考えれば、尋問--程、緊迫していない、せいぜい質疑応答という程度なのであった。
「『魔王』になることは、お前が選んだこと、なのか?」
「……うん」
その問いの答えは、泣きそうな顔でのものだった。
「ダメだってわかってたの。『魔王になること』を選んだら、もう、戻れない……『私』が……今までの私とは『別の存在』になってしまうことも……わかっていた、から……」
「よく考えたこと、なのか?」
「……うん」
「なら、良いさ」
デイルは微笑んで、ラティナの頭を撫でる。幼い頃からずっとそうしてきたように、彼女の味方であることを伝えるように。
「デイル……」
「ラティナが選んだ道ならば、俺はそれを頭ごなしには否定しない。だから、ちゃんと話してくれ。お前がその『選択肢』を選んだ理由……後、『魔王』のこと」
「……うん」
こくり。と、素直に首を振り、ラティナは語るべきことを考え始めた。
「『神さまに選ばれ、護られる者が、魔王となる』……私がヴァスィリオで聞いていた言葉……魔王はね、神さまから与えられた『運命』に護られている。『魔王と成り、魔王であり続ける』って運命によって、魔王はあらゆるものから護られる」
「……知っている」
デイルが短く答えたのは、彼が『対存在』である『勇者』だからだった。
どんな英傑も武術の達人でも、魔王の元には剣も魔法も届かない。
それを打ち消すことそのものが、対存在である『勇者』の『能力』だった。複数の加護があるから『勇者』なのではなく、神に与えられたその能力こそが、対存在としての真価なのである。
「『魔王』は、神さまからその権能の一部を与えられた、『ひとから産まれる下位の神さま』なの」
ラティナはそう言って、灰色の眸を揺らめかせた。
「だから、魔王は、何人からも傷付けられない。ひととしての命の区切りも、魔王を滅ぼすことはない……魔王を傷付けることができるのは、同じように『神のちから』を持つ他の魔王と、『神さまから覆すちからを与えられた者』だけ」
「……それも、故郷で聞いていたこと、なのか?」
「ううん。違うの。……魔王は、世界の『理』そのものであり、世界の運営と維持を担っている『七色の神』さまから、 世界を動かす権限を与えられているの……魔王になったことで、世界の根幹の一部を識ることが許されるの」
ラティナはそう言いながら、デイルが知覚することの出来ない、ひとつ隣の次元と言うべき『場所』に在る、自らの『玉座』を見た。
万物全てとはいかないが、許可された範囲内であるならば、今の自分は、この『端末』を使うことで、様々なことを知る事が出来る。魔王としてのちからの全てや、多くの知識について得ることが出来ることも理解していたのだった。
「……『魔王』の能力の一つ、として考えても良いのか?」
「うん」
ラティナが頷くのを見て、デイルは不本意なものもあるが、一部に於ては納得もする。
魔王が魔王としてのちからを振るうことが出来るのは、魔王に成ったのと同時に、その在り方を知ることが出来るからなのだろう。
それを可能にしているのも、『神々』の成せるわざだ。
『魔王』を生み出すのは、『世界のルール』そのものである『神々』だ。魔王もこの世界の内に在る存在のひとつである以上、神々の干渉なくては存在出来ないのだから。
「……何で、魔王なんて存在してるんだ?」
「世界の停滞を防ぐ為……神さまは、『ルールそのもの』だから、直接『世界』……社会には干渉しないの。ただ、正しく『世界』が在るように、停滞しないように循環させて、運営することだけを担っている。……だから、ひととしての価値観の中で、世界を掻き回すことの出来る存在を定めた。それが『魔王』なの……」
「厄災すら……定められているっていうのか?」
憤りに、かすかに刺のある声音になったデイルに向かい、ラティナはあくまでも落ち着いた声で答えた。
「だから『対存在』がいるの。魔王は『魔人族』から産まれる。魔人族から生まれし王だから、『魔王』。魔王を生み出すひとであるから『魔人族』……そして、他の人族からは『勇者』が生まれる。魔王を護る運命を覆す、神さまの深い寵愛を持つ者として……『魔王を世界から排除するちから』も、神さまが定めた存在だから」
「覆す者……」
それも以前聞いたことのある単語だった。勇者の能力--魔王に対することの出来るちからこそ、それを指すのだろう。
「……でも、何で……魔王になることを選んじまったんだ?」
しかも、それが『自分』のせいだとはどういうことだろうか。
問いかけたデイルに対し、ラティナは困った顔をして、下を向いた。
説明回、長くなったので途中で分かれてしまいました。
活動報告の方に、書籍版の告知を載せております。宜しければご覧くださいませ。