白金の娘、求める。
全身に残る気だるさは、幸福を分かち合った結果だった。
ずっと前から望んでいた。他の誰でもなく、彼とこうなることを、望んでいた。
選んで貰えた幸福に、胸が一杯になる。
愛して貰えた幸運に、目が眩みそうな程に、くらくらする。
幸せだった。
いつもよりも距離の近いぬくもりに頬を寄せて、自分にとって、『安心』を意味する香りに溺れる。
幸せ、だからこそ--
ラティナは、ぽろぽろと、彼の腕の中で涙を溢した。
--気が付くと、見慣れた『光景』の中にいた。
円形に並んだ七つの『玉座』の中央、定められた『玉座』の前に座り込む。
止まらない涙を流し続ける。
肩を震わせ、嗚咽を漏らして、涙を溢れさせる。
抑え切れなかった。
幸福だからこそ、うしないたくないと、思ってしまった。
なくしたくないと、願ってしまった。
自分がたったひとつだけ願うこと。彼と、愛するひとと、共に生きること。共に在ること。
自分の長い寿命を受け入れたなんて『嘘』だ。いつか訪れる、彼との別離を受け入れたなんて『嘘』だった。
喪いたくなんて、無い。亡くした後の時間を、独りになってしまった後の時間を、生きるなんて、きっと出来ない。
細い指を、震えながら、伸ばす。
理の外の『玉座』の背に触れて、びくりと手を引いた。
けれども、知っていた。
知っていたから--彼女は、もう一度震える指を『玉座』へ伸ばす。
『求めない』と誓っていた筈の『ちから』。
それでも、求めてしまったのは、自分の願いを叶えるたったひとつの『ちから』でもあったからだった。
『"……プラティナ"』
かつて呼ばれたことのある、懐かしい響きで『名』を呼ばれる。
「"ごめんなさい、ごめんなさい……違うの、違うの……でも、でも、私……あなたを、あなたを害するつもりは無いの……ごめんなさい、ごめんなさい……新たな『一の王』"」
『"……其方には、余の名を赦す。我が……愛しき『白金の姫』よ"』
朧気に気配のかたちしか感じることの出来なかった、一つ目の『玉座』に座る『存在』の姿を幻視する。
「"……フリソス……私は……"」
涙に濡れた眸で、名の通りに黄金の輝きを抱く存在を見上げる。
『"愛する『白金の姫』よ。余は其方に……"』
続いた言葉に、彼女は何度も頭を振った。
「私は……私は……」
泣き声が響く『世界』の空を、数多の虹が覆っていた。
多くの者が寝静まる時間に世界を包む虹は、ひっそりと、月の光と共に煌めいていた。
腕の中のぬくもりに、『違和感』を覚えたのに、理由を求めることは出来なかった。強いて言うならば、それが自分の持つ『理』であるからだろう。
ざわざわと、波打つ不安、そして不快感。本能に近い部分が、最愛の存在を否定していた。
「……ラ……ティナ?」
自分の目に見える彼女は、全く変わってはいなかった。
とろんと、眠そうに。普段に増してあどけない表情をしているところや、柔らかな白い肌を、悩ましげに露にしているという昨晩を想起させる姿に、表情を緩ませることも出来ずに。それでも『変わってしまった』彼女を凝視する。
「……デイル?」
声も、変わっていない。彼女が変わっていないからこそ、デイルは泣きそうな声を絞り出す。
「……『魔王』」
その単語に、びくり。と、身体を跳ねさせて、彼女は愕然とした表情をした。
それだけの反応で、デイルは自分が見抜いたことが、事実であることを確信してしまった。
「何で……? 何で、お前が……『魔王』に?」
「ど……して……、何で……デイル、わかっ……?」
がくがくと震えるラティナを、気遣う余裕もデイルにはなかった。
それでも、拒む『本能』を叩き伏せて、彼女を抱き締めることだけは出来た。
『勇者』と呼ばれる能力者は、複数の『神』の『加護』を有している。
デイルの持つ『加護』は、ひとつは、彼の一族にとっての主神たる『橙の神』。彼の神よりデイルは、『大地に関する魔法に於ての守護』を賜っている。戦うという彼の生業を支える、大きな力だった。
そして彼にはもうひとつ、『青の神』の『加護』があった。その加護以てデイルが成せることこそ、ラーバンド国が『対魔王の勇者』として、彼を優遇した力だった。
デイルは、『魔王』と『その眷属』を見抜く。
本来の『ひととしての理』を外れた存在を、知覚する。
自分の能力を知っているからこそ、デイルは事実を見なかったことには出来なかった。逃避して、気付かない振りをすることは出来なかった。
--自分は、きっと薄々、『何が起ころうとしているのか』に、気付いていたのだ。
だから、様子のおかしい彼女を藍の神の神殿に連れて行こうともせずに、ただ、自分の腕の中に隠した。
『彼方』に行かないでくれと--ただ、愚昧なまでに『呼び戻す』ことを選んだ。
理由はわからない。
何故、この娘が、変じてしまったのかはわからない。
「ご……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
泣きじゃくりながら、ただ謝罪の言葉を繰り返すラティナを、抱き締める。
『魔王に対する存在』であるデイルは、本能的に『魔王』を拒む。それでも今、自分の腕の中に居るのは、間違いなく『ラティナ』なのだ。
幼い頃から、ずっとずっと、見守ってきたラティナなのだ。
自分は、彼女と共に在ると誓った。彼女の居場所であると誓った。
--ならば、彼女が彼女である以上、自分の在り方は、変えない。
自分の心が決まり、腹が据わると、デイルは冷静さを取り戻した。
『魔王』が、どうした。『魔王』であろうがどうだろうが、ラティナが可愛くて良い娘で、自分にとって大切な女の子であることには、変わりないではないか。
魔王になったからと言って、ラティナはラティナだ。
そこまで考えたら、ちょっと現在、昨夜の名残を残した--乱れた、肌も露な格好の--ラティナを抱き締めていることを思い出した。
今、それに反応するのは、さすがに人として駄目なんじゃないかな、なんて思ったりした。
「ほら、泣くなって……ラティナ」
「私……っ、私……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「怒ってねぇから。どっちかと言えば、心配はしてるけど、怒ってはねぇから、泣かないでくれって……」
改めて説明する必要もないほどに、デイルは、ラティナの泣き顔には非常に弱かった。
泣き続けているラティナへの罪悪感は、とてつもないものなのである。
別に自分に落ち度はなくとも、そんな理屈でどうこうならないからこその感情なのだ。
その感情の示すままに、思うことを腕の中のラティナへと告げる。
「お前が『魔王』になっちまったのは、驚いたけど。もうそれは良いから」
「ふぇ……?」
「別に、『魔王』になっちまったのは、もうなっちまったんだから、仕方ねぇから」
「え……? え? デイル……?」
さすがに、問われることもせず、そう断言されるとは思ってもいなかったラティナが、驚きの声をあげた。
「ラティナが、ラティナなら、俺はそれで良いんだ」
デイルはもう、悪びれることもなく、言い切っていた。表情もいっそ清々しい。
『勇者』という『魔王と相対する存在』としての本能を、『うちの娘大好き』というアイデンティティーが上まった瞬間であった。
彼は、『勇者』である前に『うちの娘最優先』であったのだ。
「だって、私……駄目だって、わかってたのに……」
「そうか」
「求めちゃ……駄目だって……なのに……」
「うん」
抱き締めてくれるまま、幼い頃からそうだったように、ただ優しく自分の言葉を聞いてくれるデイルに、ラティナは涙に濡れた眸を向けた。
「何で……? 何で、怒らないの?」
「怒る理由も、まだわかんねぇし。俺は、ラティナが、いっぱい考えた結果『選んだ』んなら、理由がちゃんとあるってことも知ってる」
「デイル……」
優しい声に、涙が再び溢れる。
ラティナはデイルにすがりついたまま、途切れ途切れに、自分の想いを訴えた。
デイルは彼女の髪を撫でながら、その声を受け止める。
「デイルが好きなの」
「そうか」
「デイルと、離れたくないの……っ」
「うん……そうか」
「だから、だから……『魔王』のちからを、求めたの……っ」
「んん?」
その発言は、よくわからなかった。