赤毛の少年、『虎猫亭』を訪れる。
翌日から、『踊る虎猫亭』の業務に戻ったラティナは、表向きには、だいぶ持ち直したように見えた。
だが、普段の『留守番』中は、寂しさをこらえながらも、独りで屋根裏部屋で過ごす彼女が、昨夜はヴィントを伴って部屋に戻っていた。それでもケニスたちは、何も言わなかった。少しでも、他者のぬくもりで癒されるのならば、そうするべきだろう。
ラティナにいつも以上に構って貰えるヴィントは、彼女の沈んだ様子は別にして、それなりに上機嫌であった。
くるくると忙しなく、店の中を往き来するラティナが戻って来たことに--本日、朝食の為に店を訪れた常連客たちの表情が、二割増しで明るくなっている。
今晩は、この一週間分を取り戻せるほどに忙しくなりそうだと、客の様子を見たケニスは、仕込みの量を増やすことを決定した。
図らずとも、ラティナの願い通りに、余計なことを考える暇もなく、忙しく働くことになるだろう。
必然的に昼間の作業の量も増える。リタが妊娠中であることもあって、ケニス一人では手が回らなかった諸々の仕事も溜まっている。仕入れや備品の買い出し、リネン類の洗濯等、ラティナと二人がかりで片付けていく。
ラティナの不在が堪えたのは、デイルだけではなかった。
ケニスも、かつては夫婦二人でこなしていた筈なのに、これだけ大変だったのかと思うことになった。ぴたりと息を合わせて働いてくれる『弟子』が、どれだけ自分の仕事の助けになっていたのかを痛感することになったのである。
デイルが逃げ出したのは、馬鹿な行為だとは思う。
とはいえケニスは、『弟分』にも、頭を冷やす時間が必要だとは思っていた。やり方を間違えただけだ。たぶん今頃、移動中の何処かで、自分のしたことに頭を抱えていることだろう。
(ラティナも、もう少し我が儘を言って、寂しいとか、嫌だと言っておくべきだったんだな)
我慢強く、良い子であった彼女に、知らず知らず周囲の『大人たち』は、頼っていたらしい。
自分にも、反省する点はあったなと、ケニスは仕事をする手は休めずに、考えるのであった。
ケニスの予測した通りに、その夜の『踊る虎猫亭』は早い時間からぼちぼちと、客が入り始め、酒場の稼ぎ時である『いつもの時間』には、満席どころか、立ち飲みでも構わないという客まで出る始末であった。
ラティナひとりでは間に合わず、リタも結局フロアに出ることになった。ヴィントもまた帰って来てくれた為、テオの『お目付け役』がいたのも助かった。
複数から同時に飛ぶ注文を聞き分け、聞き返すこともなく、一瞬で把握する。卓だけでなく、客の顔も覚えているため、料理を運ぶ先は間違えることは無い。釣り銭の計算に必要な時間も一瞬で、気持ちの良い笑顔で応対してくれる。
ラティナとは、そんな『看板娘』なのである。彼女がいるからこその混雑ぶりだが、彼女がいなければ、到底捌くことの出来ない仕事量でもあった。
「リタ、赤ちゃんいるんだし、あまり無理しないでね。私ひとりでも、何とかなるよ」
「無理するつもりは、始めから無いから大丈夫よ。そんなこと言うラティナの方こそ、頑張り過ぎちゃダメよ」
「大丈夫だよ」
「無茶してるって思ったら、店主権限で強制的にお休みにするからね」
「大丈夫! 無理はしないよっ」
若干仕事中毒者であるラティナにとって、むやみやたらな『休暇』は、決してありがたいものではないのであった。
ラティナは、リタの言葉に、ぶんぶんと慌てて大きく首を振る。
「本当に、頑張り過ぎちゃうんだから」
ぱたぱたと早足で回る少女の姿を目で追いながら、リタは呆れた顔をした。
そんな時、新たな客が訪れた気配に、ラティナは反射的に笑顔を向け、その表情を素のものへと戻した。
「いらっしゃ…………ルディ?」
「お……おう」
少し気まずげに、ルドルフはキョロキョロと店の中を見回す。混雑する店の様子に、呑まれているようだった。
「どうしたの?」
「……酒場に来る理由なんて、酒か飯だろ」
彼の返答をたまたま聞いた、幾人かの憲兵が、生あたたかい表情になった。彼の目当てがそのどちらでもないことは、周知の事実である。
「そうなの? 今、混雑しているから……席、空いてなくて」
--『当人以外には』の、注訳が必要である。という文面を周囲の脳裏に浮かばせつつ、ラティナは困った顔で幼なじみに応対した。
「構わないぞ、こっちに来い」
そこに常連の一人から声が掛けられる。
ラティナは幾分ほっとした表情となったが、ルドルフの背筋は若干反りぎみになる程に伸ばされた。
「たいちょーさん」
ラティナは、幼い頃からの、何処か拙い口調で声の主へと笑顔を向ける。
「相席でも大丈夫ですか?」
「知らない相手でも無いしな。良いから此処に座らせろ」
「ありがとう」
ラティナにとっては、クロイツの荒くれ者の一翼『憲兵隊』を取り纏める壮年の男も、幼い頃から自分を可愛いがってくれる気の良いおっちゃんの一人でしかない。
だが、ルドルフにとっては話は別だ。
組織の下っぱである見習い隊員にとって、雲の上である組織のトップ。しかも彼と共に席を囲む面子も、憲兵隊で実力と役職の上層部にいる者たちだ。
一緒にテーブルを囲んでも、ものが喉を通る気がしない。
おっちゃんどもにしてみれば、面白い玩具を捕まえた程度の心境であった。しかも『幼なじみ』をそばに置いておけば、いつも以上に多忙な『看板娘』も、この卓に頻繁に来てくれるだろう。
そんな打算を持って少年は、店内でも有数の『恐ろしい卓』に留められたのであった。
「ルディ、何にする?」
「えーと……」
「おいシュミット。遠慮することはない。ほら、呑め」
「っ!? はいっ!」
「まだ半人前だからな、この位から初めとけ」
「はいっ!」
どほどぼと注がれる酒を、渡された酒杯で受ける幼なじみの姿を見たラティナは、慌てた様子で、厨房へと身を翻した。あの状況では、あっという間に潰されてしまうだろう。大ぶりのグラスを掴むと、水をなみなみと注いだ。
パワハラも、アルハラの概念なんてものも存在しない。『上』の言ったことは白が黒くはならなくても、濃いグレー位で考えなければならない。社会とは理不尽なものなのである。
『子ども』の飲酒は、基本的には不可とされているが、それなら何を以て『大人』とするのか、という問題に直面する。
ラーバンド国では、基本的に大人として扱われる目安は18歳だ。だが、デイルの故郷ティスロウのように15歳を以て成人として扱われる文化圏も存在している。その為、年齢を一律の基準としてはいない。
概ねその程度の年齢で、職に就き、自立し、男女共に結婚の適齢期を迎えるという一種の目安に過ぎない。
初等学習を終えたクロイツの大多数の子どもたちは、各々下働きという体で職に就く。それが『見習い』という期間を経て、とりあえず『一人前』という状態となりはじめた頃、『大人』としての名目で扱われはじめる。
自らの力で稼ぎ、自立した生活を営んでいる者ならば、『常識』の範囲内であれば、その行動もまた、当人の自己責任の範囲内なのだ。
憲兵隊で一般隊員として認められたルドルフや、同じ年頃でも、冒険者として依頼をこなしている『若手』たちが『踊る虎猫亭』で、飲酒を含んだ飲食をしても、咎める理由にはならないのである。
とはいえ、まだまだ幼さを残すルドルフが、百戦錬磨のおっちゃんどもの勧める、呑み易さの配慮など欠片もない強い酒精を受け入れることなど出来もせず、酒杯を口に運んだ後、彼は盛大に噎せた。
「っ!」
涙目でゲホゲホと噎せるルドルフの姿に、かつてその洗礼を受けてきたおっちゃんどもは、大笑することで応じたのだった。
「大丈夫? ルディっ」
そこに、水を持ってきたラティナが慌てた様子で駆け寄る。彼の背中を擦り、早口で簡易式の『解毒』の呪文を唱える。
「無理な飲み方しちゃダメだよ。危ないんだよ」
ルドルフに水を飲ませると、ラティナは眉間に少し皺を寄せて、周囲の常連たちを見る。
「たいちょーさんたち、わざとでしょ」
「おお、怖いな」
ラティナが凄んでみせたところで、残念ながら、おっちゃんどもを喜ばせるだけであったのだった。
そして、『幼なじみ』を弄ることで、性根の優しい『看板娘』が、心配して様子を見に来るということを、実証することになってしまったのだった。
合掌である。
因みに、幼い頃から、酔っぱらいのおっちゃんに囲まれて育ったラティナは、『酔っぱらい』という生き物には、道理が通じないことも理解している為、ある程度達観しているのであった。
おっちゃんたちもそれを知っている為、この程度では『彼女に嫌われることもない』ことを知っているので、その辺、遠慮はなかったのである。
お酒は二十歳になってから。
酒はのんでも、のまれるな。
今作品は、ファンタジーであります。




