白金の乙女、落ち込む。
書籍版二巻発売日。
皆さま、いつもお読み下さり誠にありがとうございます。
だから嫌だったのだと、ケニスは背中に嫌な汗をかいていた。
全力で追いかけて、取っ捕まえるべきであった。肝心な時に判断を誤るとは、現役を引退して長い時間が経ったつけが出てきた。
そんなことを思うケニスの前には、ラティナがいる。
「……なんで……こんな、急に、行っちゃうことなんて……なかったのに……行ってらっしゃい……って、言えなかったこと、なかったのに……」
真っ青な顔をして、呆然と呟くラティナは、ケニスを見上げる眸に涙を滲ませていた。
デイルが仕事の為に、王都へと旅立った。その話を伝えた結果がこのラティナの状態だった。
「デイルにも、考えがあるんだろう。急に呼び出された……んだろうさ。ラティナの事を、よろしく頼むって言っていたからな」
「……なんで、直接、言ってくれなかったの?」
本当の理由なんて言える訳はない。ラティナの本心を理解した結果、逃げ出したなどと言えば、余計に拗れる予測しか出来ない。何と言うべきか、うまい言葉が浮かばなかった。ケニスの汗の量が増えた。
「私が、デイルから離れてたから? 我が儘だったから?……私が、ちゃんと、『良い子』に出来なかったから……?」
彼から距離を取っていたという非があるにせよ、それで自らを責め、震え声で呟くラティナは、あまりにも痛々しい姿だった。
自分がいくら否定しても、ラティナには、届かない。
この子が幼かった頃から、この子を本当の意味で動かすには、自分の言葉では足りないことをケニスは知っている。
とりあえずケニスは、『最悪』の手を打ったデイルに対して、内心で呪詛を吐くのだった。流石にこれには、フォローする言葉がなかった。
「……マルセルのところ……行って来る、今日までの約束、だから……」
倒れそうな程に蒼白なのに、ラティナはそう言うと、朝食もとらずに出掛けて行った。
ケニスは彼女を見送りながら、この更なる悪手を打ったデイルの所業を、どう妻に伝えるべきか、頭を抱えたのであった。
明らかに様子がおかしいと伺わせても、彼女はそれを、仕事には持ち込まない。『裏通りのパン屋』で接客をするラティナは、『いつものように』微笑んで作業をしていた。
それでも、付き合いの長いマルセルは、すぐにラティナの不調に気付いた。
ほんの少し手を止めた瞬間に、ため息をつく姿。潤みかけた眸を歯を食い縛るようにして、気持ちを切り替える姿。
最近では、寂しいという感情を誤魔化すことがうまくなっていた、『留守番』の時の彼女の姿だ。
それでも、ここまで落ち込むことは珍しい。どうするべきかと考えあぐねていた時に、最近の『常連』--恐らく期間限定なのだろう--である幼なじみが来店した。
「……どうしたんだ、ラティナ?」
ルドルフもまた、一目でラティナの不調を見抜いた。
ラティナは、それでも幼なじみに微笑んでみせる。
「大丈夫だよ。なんでもないから。……いつも通りで良いの?」
「なんでもないってことはないだろ。顔色も、すごく悪いぞ」
「なんでもないから!」
強い調子が出てしまったことに、はっとする。取り繕おうとするかのように微笑みを浮かべて声の調子を和らげた。だがそれすら、長年幼なじみである彼にしてみれば、ぎこちない痛々しい態度だった。
「……ごめんね、ルディ。本当になんでもないの。大丈夫なの」
(ああ、『留守番中』か)
と、ルドルフは彼女の状態の理由に見当を付ける。普段は朗らかに毎日を心から楽しんでいる彼女が、意欲も何もかもを縮ませて、引きこもってしまう『状態』だ。
子どもの頃から、いつもそうであったから、すぐにわかる。
クロエなどに半ば無理矢理、外に引っ張り出されても、心此処にあらずといった様子で、すぐに下を向いてしまっていた。それが見ていられなくて、つい、いつも以上にちょっかいを出してしまったのも、もう良い思い出と言って良いだろう。
--何もない時も、からかっていたではないか、とも言われそうだが、それすら仕方がないではないか。とも思う。
だって、この大きな灰色の眸をちょっぴり潤ませて、自分の方を見てくれるのだ。赤くした頬を少し膨らませて、文句を言う声すら愛らしい。少なくとも、その間だけは、他の友人たちではなく、自分ひとりだけを見てくれる。
幼いからこその、純粋な独占欲のあらわれだった。
今、サンドイッチをてきぱきと作る、ラティナの頬をいきなり摘まんでみたら、どんな顔をするだろうか、なんてことを考える。
まず、間違いなく怒るだろう。
それでも、落ち込んだ『今の気持ち』を、一時でも忘れてくれるならば、それも良いのではないだろうか--そんなことを考えながら、ルドルフは注文したサンドイッチが完成するのを無言で待つのであった。
ラティナが驚いた声をあげたのは、『裏通りのパン屋』の仕事を終えて、一週間程の短い期間ではあったが世話になった挨拶をし、店を出た時だった。
「ルディ?」
「ん」
憲兵の制服ではなく、私服姿の幼なじみが外にいた。
「どうしたの? マルセルなら中だよ」
「ラティナを待ってた」
「私?」
「送って行くよ」
「ふぇ?」
ルドルフの言葉に、ラティナは不思議そうに首を傾げる。
「なんで? 道、わかるよ?」
「迷子になる心配してるんじゃないって」
呆れ顔のルドルフだが、その位でへこたれていては、この天然娘の幼なじみはやってられない。
「本当に顔色悪いぞ。途中で動けなくなりでもしたら大変だろ。まだ『夜祭り』の影響で、余所から来た奴も結構居るんだからな」
ルドルフは、詰所に買い込んだ軽食を届けた後、雑談の一貫として上司にラティナの不調のことを伝えた。彼女が『虎猫亭』で常連客である上司たちに可愛いがられていることは、ルドルフも非常によぉく知っている。
そして、『不調』の原因が、『保護者』の不在であるだろうことも伝えた結果--彼は何故だか、調子の悪い幼なじみを、不埒な輩に付け入る隙を与えないように送って行く、という流れが出来上がっていたのであった。
断る理由もなかったので、『命令』なら致し方なしと、ルドルフは再び『裏通りのパン屋』を訪れたのである。
「……そんなに、具合悪そうに見える?」
「いつものラティナは、もっと能天気な顔してるだろ」
「のっ……?」
「ぽけーって、ニコニコしてるじゃないか」
「ルディ、ちょっと大人っぽくなったのかなって思ったのに、意地悪なのは変わってない……」
ぷすっ。と膨れたラティナは、感情の高ぶりに応じて、少しだけ表情にも生気が戻った。
ルドルフは安堵したことを表に出さずに、更に減らず口をきく。
「ラティナ相手に、猫かぶっても、仕方ないだろ」
ルドルフも、上司相手には、それなりに気を遣っている。ため口などでついうっかり話しかけでもしたら、大変な目に遭う。『指導』という名のしごきである。
文字通り何回か死ぬような目に遭った『地獄の訓練』であったが、『藍の神』の神殿が近く、憲兵隊内にも、回復魔法を扱うことの出来る魔法使いが所属している。『地獄』から、しっかり引き戻す体制がばっちり出来上がっていたのであった。
「憲兵隊のお仕事、大変?」
「まだ、正規隊の仕事は始まったばかりだから。覚えるだけで精一杯だよ。訓練は、予備隊の時からきつかったし……慣れたかな」
「……頑張ってるんだね、ルディ」
「……ラティナだって頑張ってるだろ」
そう、ルドルフが言うと、ラティナはまたもや不思議そうな顔になった。
「頑張ってるかな?」
「ああ」
ラティナの表情が少しだけ緩む。相手が誰であれ、自分の努力を褒められ、認められるのは嬉しいことだ。
「ありがとう、ルディ」
そう、ほんの少しだけ微笑んだラティナは、ルドルフが、彼女の手を握ろうと自分の手を伸ばしかけては、途中で断念して握り直すという行動を繰り返していることには、気付くことはなかったのだった。