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夢売り

作者: 霧咲悠

 『夢、売ってます』

 それを見つけたのは偶然だったのだろうか。

 帰る道すがら、一言だけ書かれた不思議な看板が目に留まり、私は足を止めた。意味が分からず首をかしげる。『売ってます』とあるのだからお店なのだろうが、その前に書かれた言葉が私の気を引いた。

 夢を売っているだって? 私はそれが棚に一列に並べられているのを想像して、くすっと笑った。もしそうなら、夢はどんな形をしているんだろうか。

 雲のようにもこもこしているのかもしれない。輪郭は境が分からないくらい曖昧で、きっと朝露よりも透き通っているのだろう。そしてその下に値札が下がっているんだ、『幸せな夢。三百円』って。

 取り留めもなく、くだらない妄想だ。私は息を吐き出すと再び足を進めた。

 ……あれ、私は何をしているのだろう。そんなつもりはなかったのに。気付いたら、吸い込まれるように扉に手をかけていた。


「おや、いらっしゃい」

 カランという綺麗な鈴の音と同時に、若い男の声が聞こえた。

 扉を潜った先は落ち着いた雰囲気の内装だ。部屋の一角に置かれた黒塗りの高級そうなテーブルに若い男性が一人、浅く腰かけていた。

 ぼんやりとした頭のまま店内を見渡すが、それらしいものは何も見当たらなかった。なんだ、夢を売っているというから何かと思ったのに、いくつか置かれたテーブルの上には何も乗っていないじゃないか。

「お客さんお客さん、どんな夢がお望みなんだい?」

 入口の前で呆けて突っ立っている私に痺れを切らしたのか、男が声をかけてきた。彼がここの店主なのだろう。それにしても机に座って足をぶらつかせ、煙草を咥えながら眠たげにこちらを眺めている男は、本当に接客をする気があるのかと疑いたくなるような姿だった。

「いえ、私は別に……」

 本当に中を覗くつもりなどなかったのだ。まるで何か買えと云うような言葉に、私は慌てて否定した。

「そうかい? しかし君は……」

 机から降りてこちらに歩み寄ってくる男。値踏みするような表情でしばらく私の顔を見たかと思うと、彼は突然満面の笑みを浮かべた。

「うん、やっぱり欲しいモノがあって来たんだね。君は夢を必要としている」

「ま、待ってください。お金の持ち合わせだってありませんよ。買い物に来たんじゃないですって」

 この男は何を云い出すのだろう。確かに何を売っているのか興味はあったが、わざわざ金を出してやるつもりもなかった。執拗な商売を始められる前に、私は店から出ようとした。

「って、あれ? くっ……この!」

 後ろ手に開こうとした扉はびくとも動かず、振り返って思いっきり開こうとしたがやはり開かない。ノブは回るのだが、扉自体が押しても引いても動かない。まるで壁に向って体当たりをしているような感覚だ。

「どうして開かないのっ?」

「その扉を開くのは、君自身の心さ。心から出たいと思えば簡単に開くはずだよ」

 背後から冷静な男の声が聞こえた。私の心が扉を開く? それじゃあ私は、心の何処かでここに居たがっているという事? 現実味のないその事実を、私は不思議とすんなり受け入れていた。

「さあさあ、とりあえず落ち着いて。好きなところに腰掛けてくつろいでいるといい」

 ひとしきり扉と戦った私は、彼の言葉に従って深呼吸をする。入口脇の手近な机に飛び乗り、先程の男のように浅く腰かけた。そういえばここには椅子が無い。机だけが幾つも、無造作に置かれていた。

「さて、それじゃあひとつ説明をしてあげよう。何が何だか分かっていない君のためにね」

 私に合わせて目の前の机に座った男は、ゆっくりとした穏やかな口調で語り始めた。

「まずここではさまざまな夢を扱っているんだ。楽しい夢、苦しい夢、怖い夢、望んだ通りの夢を見ることができる」

「……看板に書いてあったけど、夢を売っているの?」

「もちろん。ただ、受け取るのはお金じゃあない。君の思い出や感情、悪夢なんかを買い取るんだ。その分だけ、好きな夢を見させてあげよう」

 売った分だけ買うことができる。まるで物々交換……いや夢は物なのだろうか? 

「僕が見たところ君は相当参っているみたいだけど、どうかな。幸福に満ち溢れた夢を、君の辛く苦しい現実と交換してみないかい? 今なら相場は無視して、好きな夢を好きなだけ見させてあげるよ」

「どうして? そんな事をして、あなたには何の利益が……」

 店なのに金銭を要求してこない事に不安を感じ、私は問いかけた。何か想像もつかないような裏があるのでは? そもそも好きな夢を買うなんて話も、どこまで本当なのだろう。

「もちろん利益はある。人間が持つ感情のエネルギーはすさまじいんだ、そして夢を見ることによってそれを何倍にも引き出すことができる」

 浮かぶ疑念は尽きないが、扉が開く気配もしないのでこの突飛な話に付き合う事に決めた。

「そう……それじゃあ何かいい夢はあるかしら?」

「それを決めるのもまた、君自身の心さ。自ずと一番求めている夢を見ることができるだろう」

 男の言葉の途中から、強い睡魔に襲われた。これは彼の仕業なのだろうか。抗う間もなく瞼が落ちてくる。視界が真っ暗に染まる寸前、床に降りた男が私に向かって手を伸ばすのが見えた。

「おやすみ、お客さん。君の思い出と悪夢はありがたく頂こう。……いい夢を」


   * * *


 日差しが暖かい。私はいつからこうしているのだろう。ぽかぽかとした陽気を背中に感じ、私は突っ伏していた机からゆっくりと体を起こした。どうやら眠ってしまっていたようだ、腕にくっきりと赤い跡がついている。

「あっ、おはよう。やっと起きたね」

 目覚めた私に声をかけた人物を探して、私はきょろきょろと首を振った。傾き始めた日を背に、窓際に立つ人影があった。眩しさに目を細めながら、私は思ったままを口にした。

「……誰?」

「うわ、ひっどいなあ。折角いずみが起きるまで待っていてあげたのに、その仕打ちはないんじゃない?」

 言葉とは裏腹ににやけた顔を向けてくる少女は、私の知らない人だった。いや……覚えてる、思い出した。何故忘れていたのだろう。まるで別の誰かが捻じ込んでいるように、次々と記憶が思い起こされる。

 彼女は私の親友で松原優希という名前だ。部活は私と同じで無所属の帰宅部。今こうしているのは私が一緒に帰る約束をしていたにもかかわらず、放課後になって教室の自分の席で眠ってしまったからだった。

 そういえば、その前にも何かしていたような気がするが……思い出せない。おまけに酷く頭が痛い。

「ほら寝ぼけてないで早く帰ろうよ。こんなに長いこと寝てるなんて、素敵な夢でも見ていたの?」

「夢……ああ、夢ね。何か見ていたような、そんな気がする。でも内容は思い出せないや。もしかしたらすっごく嫌な夢だったのかも」

「なにそれ、あはは」

 何が可笑しいのか、優希は笑い声を上げた。頭が痛いこともあり、私はその反応にむっとした表情を浮かべる。

「あ、ごめんね、なんでもないよ」

 弁解する優希を尻目に、机にかけてあった鞄を取った。それじゃあ帰ろう、と優希を促す。

「何で笑ったりしたの。私変な事云ったかな?」

「いやあ、寝起きの顔が面白くってつい笑っちゃったんだ」

「ひどいよ優希ちゃん、人の顔を見て笑うなんて」

「帰りにアイス奢るから許して」

「えっ、いいの? やった!」

 むくれた表情から一転、私は笑顔を浮かべて優希と会話をしていた。

 思い出せない夢の事はもう、いつの間にか私の頭の中から追い出されていた。頭痛ももう治っている。ぐっすり寝たおかげか、体は随分と軽くなっていた。まるで夢心地と云うのだろうか、ふわふわとしている。


 ある日の事だ。私の携帯にメールが届いた。差出人は優希。一体どうしたのだろう……と思いつつメールを開いてみる。

『ねえ、今度の日曜日一緒に遊びに行かない? 誠も誘って遊園地とか行こうよ!』

 誠も誘って? 知らない名前だ。そんな友人、私にいただろうか。

 いやいや、いるじゃないか。浅野誠、同じクラスの男の子だ。……あれ、どうだったかな。

『いいね、遊園地。私も行くよ!』

 私はすぐに返信をした。簡潔な文章だけを送った後、ため息を吐きながらベッドに倒れこんだ。

 白い天井。電気は点けずに窓からの光だけが部屋を照らしている。自室だというのに、どこか違和感がある。違和感を感じているのは部屋に対してではなく、私の方だったが。

 まるで旅行先で泊まっている、見知らぬ部屋にいる感覚だ。間違いなく私の部屋なのに。

 最近おかしな気分によく陥っているのは、自分でも気付いている。デジャヴとは違うかもしれないが、初めて見るものを前にも知っていたような気分。

 いや、逆だろうか。知っている筈なのに、一瞬だけ初めて見たような気がするのだ。さっきの誠君の名前にしたってそうだ、どうして私は彼の事を忘れていたのだろう。この前の優希に対してもそうだった。

 ……何かがおかしい。私の脳裏にちらついた疑念は、些細な気の迷いだと振り払うことも出来ず、次第に深く根を降ろしていくのだった。


   * * *


「おはよう、優希ちゃん」

「ん……あっ、おはよう」

 約束していた日曜日になった。待ち合わせ場所の公園へと急いだ私は、一足先に待っていた優希に気付いて声をかけた。目を閉じて俯きベンチに座っていた彼女は、私の挨拶を聞いて顔を上げた。まどろんでいたのか、瞼が少しとろんとしている。

「優希ちゃん、もしかして寝てたの?」

「え? 別に寝てないよ」

「うっそだー、今絶対寝てたでしょ。だって顔が寝起きだもん」

 茶化すように云うと、優希は慌てた様子で自分の顔をぺたぺたと触り始めた。この前のお返しだよ、と心の中で舌を出した。

「ところで、浅野君はまだ来てないのかな?」

「そうみたいだね。あいつは待ち合わせとか、いつも時間ぴったりに来る奴だから」

 見渡しながら呟いた言葉に、頬を引っ張って変な顔になった優希が答えた。それを見てぷっと噴き出すと、優希は恥ずかしそうに顔から手を離し、私をじーっと睨んだ。

 私はその視線に気付かない振りをして誠が現れるのを待っていた。公園に立っていた時計の長針が半分程回り、待ち合わせの時間になったのを確認すると彼の声が聞こえた。

「ああ、もう二人とも来てたのか! 待たせちゃったかな」

 視線を下ろすと此方へ駆けて来る誠の姿があった。謝罪する彼に優希が返事をする。

「もうっ、誠ってば遅い! 私達三十分は待ってるよね、いずみ?」

「え? う、うん」

「本当に悪かったって。でも待ち合わせの時間は過ぎてないんだから、別に問題ないだろ?」

「馬鹿、そういう問題じゃないでしょう……」

 優希の叱責に、誠が申し訳なさそうに頭を下げている。二人が幼馴染だという事は前に聞いた記憶があるが、それにしても仲が良い。こんな風に云いたいことを云い合える友達なんて、私にはいないから羨ましい。と、そこで再び違和感を感じた。

 優希は親友じゃないか、云いたいことが云えない訳がない。それなのに何故羨望を覚えたのだろう。

「それじゃあ行こうか。バスで少しかかるんだっけ?」

「うん、遊園地は隣町にあるからね。……いずみ、どうかした?」

 ぼんやりしていて、会話に置いていかれていたようだ。どうもしていないと頭を振って答えると、既に歩き出していた二人を小走りで追いかける。何気なく優希と並んで歩く誠を見て、ある感情が浮かんできた。頭の中に無理矢理捻じ込まれる記憶。胸が締め付けられるように苦しくなり、頬がやや熱を帯びたこれは……恋だろうか? その感情を頭ではっきりと判断しつつ、私はどこか他人事のように自分の状況を眺めていた。

 いよいよもっておかしい、これは異常だ。どうしてそんな感情を今まで忘れていたというのだろう。自分が自分ではないという突飛な想像が、現実味を帯びて私に覆い被さってくる。


 バスの中で、私達三人は談笑していた。学校での出来事、日常の些細な笑い話、それぞれの友人達がどこでどうした、など他愛もない話を延々と続けて目的地に着くのを待っていた。

 二人と話をしているのは楽しい。そう心の底から思ってる筈なのに、何かが違う気がする。私自身はこの時間を心地良く感じているのに、『私』はどうやらそうではないようだった。

 会話の中で一瞬だが、時々表情が引き攣るのを私は感じ取っていた。親しく話をする優希と誠を見て、嫉妬心が巣食うのも分かっていた。しかし、その感情は私以外の誰かのもののように思えて仕方が無かった。

 瞬きをすると、場面が変わっていた。ジェットコースターの待ち行列、乗り場横の高台。その光景を私は無意識に嫌がっていた。理由は分からない。が、この先へは行ってはいけないと、この先を見てはいけないと私が囁く。

 高所から見える町の景色が珍しいのか、優希が柵から身を乗り出して見下ろしていた。それを危ないと注意する誠。もう記憶がねじ込まれる事もなく、自然とこの後の出来事が頭の中に記憶として流れ込んできた。

 具合が悪くなったようにふらついてみせた私は、よろけた拍子に足がもつれ、バランスを崩して優希に勢い良くぶつかった。不意の衝撃に押し出された優希は、そのまま宙に浮かび上がり……

 事故を装った。誠を独り占めしたくて、魔が差してしまった。理性の箍を歪ませた当時の私は、無心になって彼女を落としてしまった。優希を、殺してしまった。

 目を見開き、信じられないという様子で悲鳴を上げる誠。喚き、叫びながら身を乗り出し手を伸ばす彼を、必死に引き止める他の人たち。床に座り込んだまま、呆然としている私。全て覚えていた。

 涙を流しながら崩れ落ちた誠の顔に、私を非難する色は一切無かった。私は今更ながらに、後悔と罪悪感で押しつぶされそうになる。

 私じゃない『私』がいるって? 笑わせる。優希を落としたのも、この状況を俯瞰しているのも、全て同じ私じゃないか。

 ああ、これが私の罪だ。私の、悪夢だ――


   * * *


 その後の記憶は、曖昧で断片的だ。機械的に学校と家を往復していた。思えば、この時から罪の意識に潰されて限界だったのだろうか。

 誠とも関わる事が減っていた。彼は私を一切責めなかったが、私の方から後ろめたさを感じて距離をとっていた。……皮肉なものだ。誠とより親しくなりたい一心で彼から優希を奪ったのに、それが原因で繋がりを絶ってしまうとは。そうだ、そもそも誠との接点は優希だけだったじゃないか。その彼女がいないのでは関係が薄れても仕方ない。

 気遣うように声をかける友人にも、申し訳なく感じていた。私が、私がやったんだよ。何度そう云おうと思っただろう。

 不謹慎にも茶化す発言をして回りから非難される人もいたが、私はむしろその言葉に救われる気持ちですらあった。そのまま私の罪を暴いて白日の元に晒して欲しい。全員の前で断罪し、謝罪させて欲しい。しかし貝の様に開かない私の口は本心を一切零さず、日々は淡々と過ぎていった。

 やがてようやく決意した私は、優希の墓参りに訪れた。花を供え、手を合わせる。私にぶつかられて落下している間、彼女は何を思ったのだろう。一体何が起こったのか分からないまま地面と激突したのだろうか。それとも私を最期のその瞬間まで恨み、呪っていたのだろうか。自分に向かって手を伸ばす誠に対して助けを求めながら、それでも生きることは諦めなかったに違いない。

 そういえば彼女の顔を見ていなかったな、と私は思った。死に際の言葉も聞いていない。何もかも覚悟が足りないまま、私は一人の命を握りつぶしてしまったのだ。

 出来る事なら彼女が何を思っていたのか、最期のその言葉を聞きたかった。


『――知りたい?』

 不意に聞こえた言葉に、私ははっと頭を上げる。そこには優希の姿がぼんやりと浮かんでいた。

「優、希……ちゃん?」

『そうだよ』

 信じられない思いで私は彼女を眺めていたが、すぐに顔を伏せて目を逸らしてしまった。瞬きをする度に生きていた頃の優希の顔と、潰れてぐちゃぐちゃになった顔がちらちらと入れ替わるのだ。

『もうっ、酷いよいずみ……人の顔を見て顔を逸らすなんて』

 おどけた調子の懐かしい優希の声。その声に少しだけ安堵した私は、ゆっくりと顔を上げた。

『あなたが殺したからこうなったのに』

 ずいっと音も無く彼女の顔が迫った。骨は砕け眼球が飛び出している。赤黒く染まり歪になったその顔から、今度は目を逸らすことが出来なかった。息も出来ず見つめ合っていたが、瞬きすると生前の綺麗な顔に戻っていた。つい大きく息を吐いてしまう。

「ごめんね、優希ちゃん……本当に、ごめんなさい」

『……』

 何度も何度も謝るが、優希は一向に口を開かない。涙で濡れた私は、とうとう口を閉じて彼女の言葉を待った。

『……謝罪はそれだけで終わり?』

 冷たく乾いた言葉に、私は胸を刃物で貫かれた錯覚に陥った。そんな、そんなのいくら謝り倒しても足りないくらいだ。再び謝ろうとして、優希の言葉に遮られる。

『いいの、もう謝らないで。必要ないわ』

 相変わらず彼女の声に温度は無い。

「……赦してくれるって事?」

『赦さない』

 ぴしゃりと叩きつけられた私は、絶望で力が抜けていくのを感じた。

『最期に私が何を思ったか知りたいんだっけ。風を切って落ちてる間、体中の血液が凍るような気がしたわ。その後は最悪だったよ。ぐんぐん遠ざかる二人の姿を見ながら、前触れもなく体が潰れたんだもの。骨が軋んでバラバラになって、血が飛び散るのも見た。あはは、ジェットコースターよりもスリル満点だったよ』

 想像して、更に自責の念が襲われる。意識せず謝罪の言葉が零れ出た。

「ご、ごめ……」

『謝るなって云ったでしょう!』

 涙でぼやけた視界に、見たこともないくらい怖い顔をした優希がいる。先程の崩れた顔よりも、感情の窺える今の彼女の方が怖いと感じた。

『いずみ、謝らないで。私達親友なんだから、そんなに頭を下げないで』

 優しい口調で、優希が囁く。気が抜けて、止め処なく涙が溢れてくる。

『でも――赦してあげない』

 続く言葉に、時が止まった。

『赦さないし、謝らせない。私からは何も云うことは無いわ。憎んでもあげない。あなたはずっと罪を背負って生きていきなさいよ。断罪されようなんて思わないことね。これが私の復讐……そうね、呪いかも』

「そんな……優希ちゃん! 私はどうしたらいいの? ねえ、ねえ!」

『知らないよ。同じ場所から落ちて死んでみたら? でもそんな事したら、それこそ赦さない』

「やだ、嫌だよ。私もう駄目だよ」

 涙も流れず、私は優希に赦しを、断罪を乞うた。しかし彼女の姿は徐々に薄れ、私に枷を残したまま消えてしまった。

『一生、後悔を一人で抱えて生きなさい。それじゃあさよなら、いずみ』

「待って、待ってよ優希ちゃん! 嫌あああああ!」

 ――私の夢は、ここで覚めた。


   * * *


「おはよう、随分とうなされていたね」

 夢から覚めて現実に戻ってきた私は、男の腕の中で目覚めていた。

 呼吸は乱れ、全身に嫌な汗をじっとりと掻いていた。最後に見た優希の姿を、まだ鮮明に覚えている。男の腕から離れて、机の上に寝転んだ。どうやら座ったまま眠っていたらしい。

「やれやれ、君が望んだのが贖罪……自身への断罪とはね」

 頭上から男の声が聞こえてきた。私は何も云わず、腕で目を覆った。真っ暗な視界に、私を睨む優希の顔が浮かんだ。

「その所為で、折角受け取った君の記憶や悪夢が全部戻って行っちゃったよ。……まあ、夢を見る過程で発生する感情が目的だから、僕としては構わないけどね」

 夢の中で記憶が捻じ込まれていたのは、そういうことだったのか。私は一度失った思い出を、夢の中で過去を繰り返す事によって元に戻してしまった訳だ。それにしても……これが私の本心。心の底から望んでいた事だったとは。

「どうする? 大事なお友達から言い渡された罰だよ、変な気なんて起こさずに云い付け通り生きていくのかい?」

「他人の夢を覗き見るなんて……趣味悪いわよ」

 男の声を聞いている内に不安定だった気持ちは安定し、ようやく私は体を起こした。

「……墓参りから帰る間、私はずっと考えていたの。このまま家に帰っても何も変わらない、ならいっそ死んじゃおうって」

 私の言葉を男は黙って聞いていた。それを一瞥して、構わず続ける。

「でも夢の中で優希ちゃんに云われて、私が死んだら彼女が怒るだろうなって思った。……どうしたらいいのかな」

 自然と涙が流れてきた。彼女は私の事を赦さないと云った。そして憎まないとも。私がどうするかは、私が決めなくてはならない。優しく静かにゆっくりと、男は労わるような口調で語りかけてきた。

「本来は、幸福な夢を見てもらうのがウチの主旨なんだけど……悪夢を望む人なんて、少なくとも今まではいなかったからなあ」

 眠る前に、彼は『一番求めている夢を見る』と云っていた。ならばこれは私自身が望んだ夢で、夢の中で優希に伝えられた言葉を私は甘んじて受け入れなければならない筈だ。しかし……

「君のその苦しみを、僕が救ってあげることは出来る。永遠に続く幸せな夢を、気が済むまで見ていると良い」

 幸せな夢……か。正直逃げてしまいたい。何もかも忘れてしまいたい。どうして私は夢に見てまで優希を殺した事実を思い出してしまったのだろう。男の云うとおり思い出なんて捨てて幸せな夢を見れば良かった。

 そこで、いつの間にか近付いていたのか、突然耳元で囁かれた声に私は飛び上がった。

「――君の悪夢を、僕が食べてあげるよ」

 驚いて退くと、男の手に握られているものに気付いた。刃物のように見えるが、何だろう。私が訊ねる前に、男が答えた。

「これは『夢』そのものだ。これで自分を貫けば、悪夢を飲み込んでくれる。ただ、幸せな夢の代わりに、現実では二度と目覚めないけど……ね」

 そっと差し出されたそれを受け取ると、私はじっくりと眺めた。夕闇の黒と黎明の群青が渦巻いているような、そんな不思議な色だ。マーブル模様の濃紺に、知らず意識が吸い込まれてしまいそうになる。

「もう一度訊こう。……どうするんだい?」

 私は両手でしっかりと柄を握ると、目をぎゅっと瞑った。涙を零しきって目を開ける。クリアになった視界に、私を狙う刃が構えていた。

「店主さん、一応お礼は云っておきます。ありがとう」

「うん」

 機会をくれた事に対して感謝の意を伝える。名前も知らない男は、小さく頷くだけだった。

 刃を構えなおす。夢を見て多少は揺らいだが、覚悟は元々決まっている。それに自分が生み出した空想とはいえ、優希の言葉を聞けて良かったじゃないか。逡巡は何回も繰り返した。後悔はとっくに終わっている。

「……優希ちゃん、ごめんなさい。私は、このまま生きていくなんて出来ないよ」

 喉元にあてがうと、ゆっくりと瞼を閉じた。手は震えていない。

 優希、逃げる私の事を赦して欲しい。

「私は――弱かったんだ」

 自分を貫いた。


 最期の選択を終えた彼女は、机の上にぐったりと横たわっている。

「そっか、君は夢を選んだんだね」

 どちらが正解かなんて、僕には分からない。久しぶりの『お客さん』だったが、なるほど、今回はこういう結末か……

 机から降りて扉の前に立った。手で触れずとも、僕には分かっていた。

「君、気付いていたかい? 夢から覚めた君は、既にこの扉を開くことも出来たんだよ」

 独りで呟いた言葉は誰にも聞かれず、宙で霧散して消えた。

 永遠に目覚めない眠り姫は、最期に喉を突き刺した。……本当はアレ、最後の手段だったんだけどな。そもそもが異例だったんだ。こういう事もあるさ。

 亡くなった彼女はまるであらゆる苦痛から解放されたような穏やかな表情だった。今頃どんな夢を見ているんだろう。

 僕も目を閉じた。今日のお仕事は終わりだ。次のお客さんは一体どんな人だろう。その人が見る夢は幸せだと良いな。せめて今回のお客さんだった可哀想な彼女へ、最後に眠りの挨拶をしよう。

「――おやすみ、良い夢を」

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― 新着の感想 ―
[一言] 辻村深月さんの『ツナグ』を思わせる興味深い小説でした。夢という抽象的な存在をテーマに人生に踏み込んだ内容で、感慨深い作品でした。
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