聡美
今日も終わった、さて帰るか。
「お疲れさまでしたー、お先に失礼します」
とある中小企業に勤める俺は、缶コーヒーを片手に退社する所であった。近頃は、人気の雑貨であるアロマポットの在庫管理に追われて忙しく、伝票入力に追われていた。自宅に帰る途中で、コンビニに寄って、夕食の幕の内弁当と缶ビールを二本購入し、そのまま直帰する。
玄関を開けて、上着のスーツを脱いで、ネクタイを緩める。一人暮らしの安い1LDKだ。ペットのチッチがいつもの様に疲れた俺を出迎えてくれる。チッチは緑色の縞々模様で、鳥かごの中で新聞紙の巣の中にうずくまって俺を見つめている。チッチが最初家に来た頃、まだ六センチくらいしか身長が無かったが、あれから十センチも伸びて、今では十六センチの立派なインコだ。俺はチッチの脇のテーブルに備え付けられたパソコンの電源を入れて、今日の一日のニュースを閲覧しながら、缶ビールを飲んだ。
『芸人の佐藤栄次郎が麻薬取締法違反で逮捕』、『集団的自衛権の行使による国防軍の編成強化』……など、世知辛いニュースの見出しが目に飛び込んできた。俺は溜息を吐くと、もう一口、もう二口とビールを注ぎ込む。手元の幕の内弁当は、しなびれた鮭の身が半分千切れかかっていて、別の弁当を選べば良かったなと思った。
しばらく、ニュースを見てから、Youtubeでお気に入りのミュージシャンのプロモに目を通す。新曲を出した、The Nebruskalという海外のバンドのボーカルは相変わらず切れの良い声で、心に突き刺さるようなメロディを歌っていた。インコのチッチが何か言い出したので、もう寝る時間だと思い、鳥かごに遮光カバーを掛けてやる。餌は毎朝一回やることに決めているのだ。水は三日に一回くらいのペースで変えている。風呂に入ろうと思い、下着を箪笥から出して、トイレに入ってから、浴室へ向かった。会社の大内聡美のことがふと頭に過ぎったが、次の瞬間には上司の柴田の顔が浮かぶ。糞、今日もあいつから怒鳴られたなと思いながら、頭を洗う。シャンプーの泡が肩に落ち、乳首を通過して、下半身まで降りてきた。面倒くさいので、シャンプーの泡で、脇やら下半身やらの毛も一緒に洗ってやった。その後、身体を洗って、湯船にじゃぶんと浸かる。しばらくぼんやりとしていると、同期の大下聡美のことが頭に再び浮かんできた。決して聡美は美人ではない女だが、とても女性らしい受け身な体質の女で、胸が大きかったなとか、お尻はどうだったかなとかそんなことを想像しながら、前頭葉でしばらく彼女の身体を弄び楽しんだ。そして、溜息を吐いた後、湯船から出て身体を拭いた。
――前日は、疲れていたのですぐに寝た。チッチに餌をやってから、窓の外を見ると豪雨だ。それにしても、今日は歴史に残るほどの強い台風の嵐だという。こんな日に出勤するのだけは勘弁して欲しい。バイクで通勤しているものだから、嵐の中の通勤だけは避けたいと思っているのだ。しかし、会社からは何の連絡も掛かってこない。出社せよとの事だろう。俺は、アパートの駐輪場に置いてあるバイクのエンジンを掛けると、合羽を着た姿で会社を目指した。こんな嵐の中で通勤している人は居るのだろうか。いつもより、交通量が少ない。きっと、他の会社の人は自宅待機を命じられたりしているのだろう。
会社に着くと、上司達は既に出社していた。
「おはようございます」
すると、総務の木村が小走りに俺の元にやってきてこう言った。
「おはよう、池上君。今日ね、もう会社閉めようと思うのよ。これじゃ、お客さんも集まらないと思うし」
「そうでしたか、やっぱり、こんな嵐の日にはお客さん来れないですよね」
木村が頷きながら、髪に手をやる。先日切った髪形を気にしているのだろうか?流石に俺は一回り上の女性に恋などしないよと思いながらも、自分のデスクの整理に取り掛かった。
デスクに座って、ファイルの整理をしながら、残っていた伝票の入力を三十分位で終わらせようと必死だった。ちょうどその時、聡美が俺のデスクの前を歩いていた。その姿を俺はなんとなく見つめていたのだが、どうしても彼女の胸の揺れに視線がいってしまう。我ながら、疲れているかなと思いながら、再び伝票の入力を終わらせようとした。十分程して、入力が終わった所で、俺は外の天気の状況でも確認しようと思い、事務所の窓に向かうと、そこにたまたま居た聡美が話しかけてきた。
「こんな日に出勤しろなんてやなものよね?まだ出社してない社員の人には木村さんが電話したんだって。こっちの身にもなってよって思う」
俺もそう思いながら頷いた。聡美は会社ではオヤジキャラとして通っているが、妙な色気のようなものを覚えてしまう自分が居た。
「まぁ、帰れっていってもな。俺、バイクで来てるからさ、この状況だともうちょっと待ってから帰った方がいいような気がするけど、電話貰えた人たちはいいもんだよね」
聡美が俺の顔をボーっと見ながら、何かを感じていた。俺はその後、入力の終わった伝票を印刷に掛けて、ファイリングした後、所定の棚に納めた。そして、しばらくして合羽を着て、帰宅する準備をしていた。そして、総務の木村が俺が帰ることを承諾したので、俺は会社の裏口を出ると、そこに聡美が居た。
「あぁ、聡美さんももう帰るの?」
すると、聡美がこう言った。
「うん。池上君、バイクでしょ?私の車で送ってあげるよ」
「えっ、でも、バイク置いたままだったら、明日出勤できないよ」
聡美が知恵を凝らしたようで、次のように言う。
「……明日の朝も送ってあげるよ。そうしたら、バイク置いていけるでしょ?」
なるほどなと俺は思った。それはもっともだ。嵐の中、正直バイクで帰りたくないのである。
「あぁ、そうだね。本当にいいの?じゃ、お願いします」
というわけで、俺は聡美の車で自宅に送ってもらうことになった。
聡美の車は紺色のミニバンだった。車内は何処と無く柑橘系のコロンの香りが漂い、オヤジキャラには似合わない可愛らしい彩のシートカバーなどが掛けてあった。俺は持っていた鞄の中から手帳を取り出し、明日以降の会社での予定などを彼女と話しながら、彼女は慎重に車を走らせていた。窓の外では、車道の脇に立っている棕櫚の木がゆさゆさと靡き、鹿児島特有の夏の空気を匂わせていた。そして、脇では俺が話すことを彼女はただ聞いていた。その後、会社の上司の話を彼女が私に投げかけ、それに対して一問一答のように答える俺が居る。
自宅周辺に近づいた頃、俺は近所のコインランドリーの駐車場で下ろしてもらうことをタイミングを見計らってから、次の信号を超えた辺りで言った。
「四大字のコインランドリー知ってる?あそこで下ろして貰えたら嬉しい」
すると、聡美が俺の顔を神妙な顔をして覗き込みこう言った。
「えっ、いいの?」
「うん、歩いてすぐだから大丈夫だよ」
しばらく不自然な無言が続いた後、聡美がこう言った。
「もう、今日はいいの?……行きたい所あったんじゃ?」
俺はその時、何のことを言われているのか自分で分からなかった。行きたい所って何のことだ?そして次の瞬間、脳天にピーンと来た。あぁ、聡美は気づいていたんだ、俺が性的な目で彼女の身体を最近見ていることに。凄く恥ずかしい気持ちになってきた。しかも、彼女はそれを素直に受け入れてくれている。ここは一体、どう答えればいいのか?しかし、聡美とそんなに親密な仲になっているわけでも無いのだし。俺は物凄いスピードで思考を巡らせる。正直、聡美のあの豊満な肉体を弄びたいと思う自分が居る一方で、誠実さを気取り、ここは紳士に仕事仲間として、あのアヒルの顔がトレードマークのコインランドリーで下ろしてもらうことが最善ではないかと結論を出した。
「うん、あ、明日七時半に迎えに来て欲しい。コインランドリーに」
俺は少し混乱と興奮が入り混じって、上手く喋れなかった。そして、こう言う。
「今日は帰りますよ」
紳士な俺は、このような経験を逃し、聡美と例のコインランドリーで別れた。俺は何か情けないような、嬉しいような、そんな気持ちを抱きながら、自宅の玄関を開ける。チッチが鳴いていた。もしかしたら、彼女もこの帰り道に泣きながら帰っているのではないかと思いながら、俺は何か申し訳ないことをしてしまったような気がして、チッチの前まで来てこう言う。
「ただいま。……やっちまったなぁ」
すると、チッチが目をくりくりさせながらこう言う。
『アリガトウ、サヨウナラ。アリガトウ、サヨウナラ……』
チッチが俺の気持ちを代弁してくれたかのような気がした。窓の外の嵐は、幾分か退いたかのような気がした。その夜、女というものは分からない生き物だなと心底悩んだ。