『ふたつの水路が語るもの』
毎日の配達で大津町と泗水町を走っていると、同じ阿蘇の水に恵まれた土地でありながら、水路の姿が大きく異なることに気づきます。今回は、その違いを地形と歴史から辿ってみました。
ふたつの水路が語るもの――大津町の「利水」と泗水町の「治水」、大地が紡いだ記憶
早朝の澄んだ空気の中、配達の車を走らせていると、車窓のすぐ脇を流れる水路のきらめきがふと目に留まる。日々この土地を駆け回り、集落から田園へとハンドルを切る者にとって、足元を流れる水は単なる風景の背景ではない。それは季節の移ろいを告げ、集落の成り立ちを決め、大地の起伏を雄弁に物語る生きた脈動である。
かつて受け持っていた泗水の町と、今こうして毎日走っている大津の町。どちらも阿蘇の恩恵を背負い、滾々と湧き出る豊かな水に恵まれた土地でありながら、そこを流れる水路の佇まいは驚くほど対照的だ。片や、深く頑丈な石組みの中で力強く水嵩をたたえ、大地を貫く幹線水路。片や、田の畦や軒先に寄り添い、澄んだ光を宿してサラサラと穏やかに巡る水路網。このふたつの風景の違いを辿っていくと、異なる宿命を背負った大地が、それぞれに育て上げてきた「水との付き合い方」の歴史に行き着く。
大津の水路に立つとき、まず圧倒されるのは、自然の傾斜に抗うかのような「攻めの意志」である。大津の町が広がる合志台地は、本来であれば阿蘇の火山灰が厚く降り積もった不毛の乾燥地帯であった。降った雨は忽ち大地に吸い込まれ、作物は育たず、長らく人の定住を拒んできたこの高台に、南を流れる白川から水を押し上げる――それは途方もない大地への挑戦であった。
その水路は、一人の英雄が一代で軽々と完成させたものではない。阿蘇の山々を削り、泥灰を巻き込んで立野の峡谷を下る暴れ川・白川。その激流を瀬田の取水口で受け止め、等高線ギリギリの勾配を計算し尽くして台地へと導いた下井手と上井手。古代に開かれ、やがて埋もれていた下井手を清正が掘り起こしてよみがえらせ、さらに清正が遠大な構想を描いた上井手は、子の忠広が掘り進め、最終的には細川の時代に至ってようやく完成を見た。ひとつの水脈を、領主も、石工も、名もなき無数の農民たちも、世代を越えて執念でつなぎ抜いたのである。大津の水路が今なお深く、水勢に満ち、人工の動脈のように力強いのは、荒野を豊かな美田へと変えようとした先人たちの「攻めの利水」が刻み込んだ誇りそのものにほかならない。
一方、泗水の町を巡る水路には、大地を強引に切り拓くような刺々しさがない。合志川とその支流が織りなす穏やかな谷底平野に広がる泗水は、古くからの穀倉地帯であり、水に飢えるというよりは、むしろ水が溢れすぎることに対峙し続けてきた土地であった。大雨が降れば川は容易に暴れ、丹精した実りを一夜にして泥水に沈めてしまう。
ここでの先人たちの知恵は、自然の猛威を力技でねじ伏せることではなく、その力をいかに分散させ、いなすかという「受け流す治水」であった。川の自然な勾配に逆らわず、本流から幾筋もの細やかな井手へと水を分け、水圧を逃がしながら毛細血管のように田畑の隅々へと届けていく。泗水の水路が集落の庭先や田の境を静かに澄んで流れているのは、水害の脅威を巧みに逸らしながら、水がもたらす恵みだけを過不足なく受け取ろうとした、土地と人との長年の調和が景観として定着しているからだ。
不毛の台地に挑み、世代を越えた執念で新たな田畑を拓いた大津の「攻めの利水」。
豊かな水の気性を見極め、その荒々しさをいなして実りを守り抜いた泗水の「受け流す治水」。
どちらが優れているという話ではない。地形が異なれば土が異なり、川の呼吸も異なる。加藤清正が遺した壮大な治水・利水の技術と思想の系譜は、後世の人々の手によって受け継がれ、それぞれの土地の現実に合わせてまったく異なる姿へと花開いたのだ。
朝の光を浴びながら荷物を積み込み、エンジンをかけて走り出す。橋を渡るたび、水路の脇をすり抜けるたび、車輪の下からは四百年、あるいはそれ以前から続く大地の営みが確かに伝わってくる。力強く大地を潤す大津の水も、静かに暮らしを支える泗水の水も、この肥後の大地で生きてきた人々の祈りと知恵が結晶した尊い血脈なのだと、ハンドルを握る手のひらに改めて実感するのである。




