予告なく開く幕
電車のドアが、まるで記憶の向こう側から誰かが押したかのように、ゆっくりと開いた。
柚月はためらいではなく、敬意を込めてゆっくりと降り立った。何かが始まろうとしているのに、急ぎたくないという時に感じる敬意だ。プラットフォームは清潔だったが、まるで「待っていたよ」と言いたげに雨が通り過ぎたかのようで、湿っていた。
ノートの赤いリボンが潮風に揺れていた。そこには明確な方向性はなかった。ただ白いページと、許可を求めないハートが描かれているだけだった。
蒼太はプラットホームの端から彼女を見つめていた。小柄で、色白で、首には鈴を下げていた。吠えることも、動くこともなかった。しかし、彼の目には、誘いの言葉のような何かを感じた。
彼女は最初の一歩を踏み出した。
スーツケースの車輪は音を立てなかった。跡を残すだけで、数秒後には消えていた。まるで、この瞬間を邪魔するのを恐れて、地面に吸い込まれていくかのようだった。
路地は曲がり、柔らかな光と温かい香りに包まれた街へと続いていた。茶屋。紙屋。閉じられた窓から揺れる影。
蒼太は振り返らずに歩き続けた。しかし、もし自分が立ち止まれば、彼も立ち止まるだろうと分かっていた。
そして、その時、春樹が現れた。
柱のそばに座り、本を手に、髪を右側に垂らしながら、彼は顔を上げなかった。挨拶もしなかった。
颯太は二人の間に座った。ベルがチリンチリンと鳴った。一度だけ。
春樹は本を閉じた。急いで閉じたというより、結末が不要になったため、文章を途中で終わらせるような感じだった。
「君は迷子だ」と彼は言った。
「いいえ」と柚希は答えた。「私は迷子になってしまったんです」
沈黙は答えを受け入れるようだった。
春樹は立ち上がった。リュックを肩にかけ、何も言わずに歩き去った。颯太も彼に続き、柚希も続いた。
霧の中から、まるで数分前にそこに置かれたかのように、木製の橋が現れた。橋の下の水面は空を映し出していなかった。何か別のものを映し出していた。何か別のものを映し出していた。何か別のものを映し出せば、ネタバレになってしまう。
春樹は橋を渡る前に立ち止まった。
渡ったら、もう訪問者ではない。物語の一部になるのだ。
柚希はノートの赤いリボンを直した。
誰が語っているの?
春樹は答えなかった。しかし、彼女が最初の板の上に足を踏み入れると、橋の上のランタンがひとりでに点灯した。
物語はもう彼女に始めようかと尋ねなくなった。
物語はただ始まっただけだった。




