思惑と感謝と合意3
「気が変わる前に契約をしましょうか」
ホッと息を吐き出したクリアスは嬉しそうに微笑みを浮かべる。
俺としても意思が伝わったようで安心する。
「えっと……コボルトさん、ナイフ、貸してもらってもいいですか?」
クリアスはそっと手を差し出した。
俺はナイフの刃を持って、クリアスの手に柄を乗せる。
「ありがとう、コボルトさん。じゃあ……契約を始めるね」
ナイフを受け取ったクリアスは、緊張した面持ちで長く息を吐き出した。
「うっ……」
クリアスはナイフを指先に当てる。
一瞬のためらいを見せた後、クッとナイフを引く。
「コボルトさん……こっちに来てください」
俺は一歩、クリアスに近づく。
クリアスは緊張した面持ちで俺の上に手を伸ばす。
指先から滲んだ血がポタポタと俺の額に垂れてきた。
「血をもって契を結ばん。我が声に応えし者よ、その魂に我が思いが届かん。闇に彷徨う牙よ、我が願いに応え、共に歩め。我が名、魂に刻まれし時、汝は我が同胞、我は汝の導となろう」
クリアスの血が額から頭の中に入り込んでくる。
俺の中の少ない魔力がざわつくような感じを覚える。
血が淡い赤色の光に変わり、魔法陣を描いていく。
空中に描かれた魔法陣は静かで美しいものだった。
「‘うっ!?’」
額から暖かいものが体に広がっていき、全身に広がっていく。
これが契約ってやつなら悪くない。
そんな風にも思っていた時だった。
暖かさが胸を満たそうとした瞬間、俺の中の何かが目を覚ます。
まるで胸に満ちようとする暖かさを拒絶するように、本能が暴れ出した。
「‘ぐっ……! なんだ、これは……’」
全身の毛が逆立ち、抑えがたいような感情が襲いかかる。
「‘ウォーーーーーーン!’」
堪えきれずに俺は遠吠えした。
次の瞬間には俺の意識は黒い闇の中に飲まれていった。
ーーーーー
「‘ここは……俺は死んだのか? 違うか……’」
気づいたら真っ白な世界にいた。
俺は死んだのかと顔を触る。
ゴワゴワとした毛の手触りに、少なくともコボルトの姿のままであることは分かった。
死んだらせめて人の姿に戻るだろうなんて思い込んでいるせいで、コボルトの姿なら死んでいないと自然と判断していた。
「‘……それで、なんだあれは?’」
俺の目の前にはコボルトがいた。
白い世界の中でそこだけ黒い。
黒い地面から伸びた黒い鎖がコボルトの体に巻き付いて拘束している。
白いところが広がり、黒いところを塗りつぶす。
鎖が伸びている黒い地面が白く染まると、黒い鎖が地面からちぎれて消えていく。
そうしてだんだんと白が広がり、コボルトを拘束している鎖が無くなり、最後に地面には小さく黒い丸が残る。
鎖がなくなって自由になったコボルトは黒い丸の上でしばらくぼーっとしていたが、やがて立ち上がった。
「‘なんだってんだよ……’」
コボルトが顔を上げる。
血走った目をしていて、牙を剥き出しながら、こちらに向かって唸っている。
犬の頭してるのにちっとも可愛くない。
だがそれは自分も同じなんだと気づいて、軽く自分で傷つく。
「‘なっ!?’」
唸り声を上げながらコボルトが突然飛びかかってきた。
反応が少し遅れた俺はコボルトに押し倒される。
「‘ふざっ……けっ……!’」
コボルトは言葉にもできないような声を出しながら俺に噛みつこうとする。
俺は腕でコボルトの喉を押さえて、噛みつかれないように抵抗した。
ガチガチと音を鳴らして口を開閉するたびに、ヨダレが顔面に飛んでくる。
ゾワゾワとする死の危険を感じる。
「‘チッ……どけろ!’」
このままやられるわけにいかない。
俺はコボルトのことを足裏で蹴り上げながら体を転がす。
乗っかっていたコボルトも投げ出されて地面を転がる。
「‘やろうってのか……!’」
ここまでコボルトよりも能力の低い相手なんていなかった。
だから何をするにしても苦労した。
コボルトが相手なら条件は同じだ。
常に劣等感に苛まれるのも飽きてきたところだ。
俺はコボルトが体勢を立て直す前に襲いかかる。
クリアスと違って対話を試みるつもりなんてない。
コボルトの横っ面を蹴り飛ばす。
「‘お前は一体何者なんだ!’」
転がっていったコボルトに馬乗りになって、上から殴りつける。
抵抗するコボルトの爪が頬をかすめるが、俺は気にせず攻撃を続ける。
「‘コボルト……お前はまさか……’」
殴りながらここはどこで、コボルトはなんなのか考える。
一つの考えが浮かんだ。
「‘お前は……俺なのか?’」
息を荒くしながら、大きくコボルトを殴る。
コボルトは抵抗しなくなり、ただ怒りに満ちた目で俺のことを睨みつけている。
なぜそう思ったのか分からない。
でもそう思い始めたら、そうなのだと分かった。
コボルトは俺だ。
正確にいえばコボルトとしての体の本来の持ち主の意識がコイツなのである。
「‘……すまないな’」
謝罪の言葉を口にする。
本当だったらどう生きていたのだろうか。
他のコボルトと一緒に群れをなして、必死に厳しい世界を生き抜いていたのだろう。
どこまで生きていられたかは俺にも分からない。
上手くやれば長く生きるだろうし、下手すれば数日だって生き残れないような世界だ。
だがそんなコボルトの体の中には俺の意識が宿った。
本来あるはずだったコボルトの意識は消えずに、俺の奥底に封じられていたのだ。
時々出てきそうになる薄ら暗い本能はコイツのものだったのかもしれない。




