第10話 『冷やし中華のはじまり』
喫茶店「コウノトリ」のカウンター。
またどうでもいい疑問を、拓真が小さくつぶやいた。
拓真:「……冷やし中華、始めました。……なあ、これって、そんなに構えることか?」
陽真:「あ? メニューの貼り紙やろ。」
拓真:「うん。思ってん。始めましたって、どこか仰々しない?」
陽真:「まぁ言われてみれば、なんか宣言感あるけど、それ思うの人類が誕生してお前が初めてやで。」
拓真:「俺、これ見るたびに思うねん。始めたけど、何が?って。」
陽真:「いや、冷やし中華やん。書いてあるがな。」
拓真:「せやけど、その言い方やとまるで何か壮大なドラマが幕開けたみたいやん。春が終わって、夏が来て、ついに俺たちは冷やし中華を始める――みたいな。」
陽真:「冷やし中華にそこまでの期待を持つなや。プレッシャーで潰れるぞ。冷やし中華が。」
拓真:「せっかく始まりました言うてんのに、出てきたもんがもうラストシーンの顔してんねん。」
陽真:「冷やし中華がラストシーン飾れるわけないやろ。過剰な期待をしたるな。食べ物やぞただの。」
拓真:「てかさ、冷やし中華って毎年やるんやろ? ならまた始めましたって言えや、って思う。」
陽真:「2年目の冷やし中華とか貼ってあったら怖いやろ。」
拓真:「いや、でも俺たち客からしたら、去年の夏にも確かに出会ってるわけで。なのに、なぜかはじめましての顔して出てくる。」
陽真:「記憶の初期化されとんねん。たぶん、毎年別人なんやろ。冷やし中華側が。」
拓真:「やとしたら悲しいな……名前は同じやのに、魂は別人。入れ替わり冷やし中華や。」
陽真:「誰が注文すんねん、それ。」
拓真:「あと、俺まだ一度も終わりましたの貼り紙見たことないねん。」
陽真:「確かに。始めましたは宣言するのに、終わるときは黙って消えるよな。」
拓真:「それって人生も一緒やないか? 生まれたときは始まりましたって祝福されるのに、終わりは静かに、ひとりで。」
陽真:「いやいやいやいや。お前今、冷やし中華で“生と死”の話に持ってったん?」
拓真:「……あの貼り紙、もっと重く受け止めるべきかもしれん。」
陽真:「お前は今度食っとけ。せっかくやし。」
拓真:「注文してみようかな。今年の冷やし中華、ようこそって。」
陽真:「やめとけ。誰も幸せにならん。」