第3話 エリシアという少女
「えっ! 私が誰か分からないの?」
「ああ。だから、キミの名前を教えて欲しい」
大きく瞳を見開いた少女の顔は青ざめていた。
まずは名前からと思って真っ先に尋ねてみたけど、ひょっとしてあまり良くなかったかな。
「もしかして、記憶喪失? そんな……」
少女は震える唇で独り言のように呟いた。
綺麗な緑色の瞳が潤む。
彼女の表情には悲壮感が滲んでいる。
「弱気になっちゃダメ。こんな時こそ、私がしっかりしなくちゃ……」
自身に言い聞かせるように小声でそう言うと、少女は胸に手を当てて深呼吸した。
そうしてこちらに向き直った彼女の眼には力強い光が宿っていた。
「……私の名前はエリシア。あなたの……、シオンの妹だよ」
「妹!? キミが、オレの?」
「……う、うん」
エリシアは目をパチクリさせて、戸惑っている。
しかし、驚いたのはこっちも同じだ。
そういえば何度も「兄さん」と呼ばれていた。
この身体はエリシアの兄だったのか。
ということは、これはあれだ。
たぶん、アニメとかでよくある転生というやつなんじゃないか?
車に轢かれて、別世界のシオンという少年に生まれ変わった。
夢物語みたいだけど、今のところはそう考えるしかなさそうだ。
「……名前を聞いても、私のこと分からないの?」
エリシアは真剣なまなざしでこちらを見た。
そうか。
エリシアからしたら、兄が記憶を失ったように見えているんだな。
転生して来た別人だなんて名乗っても信じてもらえないだろうし、ここは兄のフリをしておいた方がいいかもしれない。
「悪い。なにも思い出せない」
「そう……」
しょんぼりと目を伏せるエリシア。
しかし、彼女はすぐに視線を上げて笑顔を作った。
「ま、まだ起きたばかりだし、思い出せなくてもしょうがないよね。明日、リオール先生に相談してみましょう! なにか解決方法が分かるかも!」
エリシアは頑張って明るく振る舞おうとしているが、表情は硬かった。
兄が記憶を失ってしまったら、そりゃあ不安になるよな。
それでも必死に前向きになろうとしている健気な彼女に、なにか声をかけてあげたい。
だけど、記憶喪失の兄ってどういう言動をするべきなんだろうか。
あれ。もしかしなくても、素直に転生者だって打ち明けた方が正直に色々話せて良かったのでは?
し、しまったぁ!
軽率に嘘をついたさっきの自分をぶん殴りたくなっていると、不意にグルグルと腹が鳴った。
「……お腹空いたの? あっ、もう外もすっかり暗くなっちゃったね。待ってて。すぐに夕飯を作るから」
「あ、ありがとう……」
この家の勝手なんて分からないし、下手に手伝おうとしない方が良さそうだ。
エリシアがパタパタと台所へ向かうのを見送って、木製の食卓から椅子を引き出し大人しく待つことにした。
しばらくすると、食欲を誘う香りが台所から漂ってきた。
誰かに食事を作ってもらうなんて随分と久しぶりだ。
ふと、台所に立つ母さんの姿が脳裏に浮かぶ。
異世界に転生したってことは、もう元の世界には戻れないってことだよな。
家族と離れたいとは思っていたけど、まさかこんな形で叶うことになるなんて。
こうして座ってよく考えてみると、なんだか心細くなってくる。
「いやいや、なに考えてるんだオレ」
オレのことを顧みない家族なんて、いてもいなくても大した問題じゃない……、はずだ。
これからエリシアという見知らぬ少女と暮らすことの方を気にするべきだろ。
「兄さん、お待たせ。一緒に食べましょう」
エリシアが食卓にシチューの皿を並べてくれる。
「い、いただきます」
スプーンで一口掬って、ゆっくりと口へと運ぶ。
トロミのあるホワイトソースと野菜の甘みが口いっぱいに広がった。
「う、うまいっ!」
いつも自分が作った料理ばかり食べていたせいか、誰かが作ってくれた料理の味についつい夢中になってしまう。
あっという間に目の前のシチューを平らげると、エリシアは目を丸くした。
「そ、そんなに美味しかった?」
「ああ、最高だよっ! ありがとう、エリシア」
率直な感想を述べると、エリシアはほんのりと頬を赤らめて笑った。
「……ふふっ、よかった。そんなに喜んでもらえるなんて、私も嬉しい」
あどけない少女のような外見なのに、どことなく大人びた印象もあるエリシアの微笑にドキリとしてしまう。
「え、えっと。お、おかわりある? こんなに美味しいシチューならいくらでも食べれるよっ!」
動揺しておかわりを要求してしまった。
やば。ちょっと図々しかったかな?
「……あははっ! うんっ。たくさん食べていいよ」
エリシアはおかしそうに笑い、空の皿を持って台所へと駆けていった。
どこか硬さが残っていた彼女の表情が少し柔らかくなった気がした。
こうして夕食をすませ、食器の片づけを手伝い終えた頃にはすっかり夜も更けていた。
「ふぁ、そろそろ寝ましょうか……」
眠そうにしているエリシアに、寝室へと案内されたオレは驚いた。
「え。ベッド1つしかないのか……」
「うん。兄妹だし、当たり前だと思うけど」
エリシアはキョトンとした顔でベッドに腰かけた。
いやいや。初対面の女の子と一緒に寝るとかめっちゃ気まずいんだけど。
エリシアはオレと同い年くらいの見た目をした美少女だ。
しかも、今は寝間着に着替えていた。
寝間着と言っても、薄い肌着みたいで素肌の露出が激しい。
白く細い太腿に否応なく視線が引き寄せられる。
「どうしたの? 兄さん」
怪訝そうな目線を向けられて、オレはハッとした。
「な、なんでもないよ。気にしないでくれ」
できるだけエリシアの方を見ないようにして、ベッドに横になる。
「じゃあ、おやすみなさい」
エリシアが明かりを消して、室内が闇に包まれる。
心臓の拍動がうるさくて寝付けない。
と最初は思っていたけど、満腹になっていたこともあってすぐに眠気が襲ってきた。
「聞こえる? ねえ、起きて」
なんだか聞き覚えのある声に呼ばれて、目を開ける。
やけに明るい。
いや、明るいというより視界がすべて真っ白だ。
寝室の壁もなにもない、だだっ広い空間が辺り一面に広がっていた。
「ああ、良かった。起きてくれた。ずっと一人だったから話せる人が現れてくれて嬉しいよ」
声がした方へと目をやる。
するとそこには、金髪緑眼の少年が立っていた。