第1話 未知なる世界
夏の空はどこまでも高く澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れていた。
山道を一人、自転車のペダルを漕ぎながら登っていく少女がいた。
美咲俊、高校二年生。
後ろで纏めた長い黒髪を靡かせて、山を登っていく。
ミサキの頬には汗が滲んでいたが、その表情はどこか楽しげだった。
ミサキはアウトドアが大好きだった。
ハイキング、キャンプ、サイクリング――
外の景色を見ることが何よりも好きで、学校の勉強の合間を縫っては、こうして山へと足を運ぶことが多かった。
特に、山頂から見る景色は格別だ。
遠くの物が見え、街や森が小さく見える。
その壮大な風景を目にすると、心が洗われるような気分になる。
ミサキは息を整えながら、ペダルをさらに踏み込む。
道は徐々に狭くなり、木々が生い茂る中をくぐり抜けていく。
自転車のタイヤが小石を踏むたびに軽く弾み、その振動が足に伝わる。
勾配がきつくなるにつれ、ペダルを踏み込む足にもじわじわと疲労が溜まっていく。
それでも、ミサキは止まらなかった。
山の上から見える景色のためなら、この程度の苦労は厭わない。
むしろ、それを超えた先にある達成感こそが、彼女にとって何よりの報酬だった。
数十分後、ついに目的地に到着した。
山頂は広く開けており、眼下には街並みが広がっている。
遠くには青く輝く湖が見え、その向こうには連なる山々がそびえていた。
「うわぁ……最高……!」
ミサキは思わず声を漏らし、息を呑んだ。
手に持っていたスマートフォンを取り出し、カメラを起動する。
シャッター音が響き、数枚の写真を撮った。しかし、次の瞬間――
ゴゴゴゴゴ……!
地面が激しく揺れ始めた。突然の地震に、ミサキは驚愕する。
「なっ!?うそ、地震……!?」
足元が揺らぎ、思わず膝をついた。
山全体が大きく震え、遠くの木々がざわめいている。
次の瞬間、地面に大きな亀裂が走った。
バキッ!
「……え?」
ミサキの足元の地面が、まるで奈落へと続くようにぱっくりと裂けた。
そのまま彼女の体が落下する。
真っ逆さまに。
意識が途切れた。
***
気がつくと、どこかの森の中だった。
目の前に広がるのは、深く生い茂る木々と鮮やかな緑の草花。
空は青く澄み、太陽の光が木漏れ日となって降り注いでいる。
森の奥からは鳥のさえずりが聞こえ、爽やかな風がミサキの髪を優しく撫でた。
「……ここは、どこだ?」
ミサキはゆっくりと身を起こした。
体のあちこちが痛むが、大きな怪我はないようだった。
「そっか……私は地面の裂け目に飲み込まれて……今は何時だ?」
バッグからスマートフォンを取り出し、画面を開く。
時刻は15時。しかし、画面の右上には見慣れない表示があった。
圏外。
「……え?」
眉をひそめる。
この山は、電波が届くはずだった。
地震の影響で通信障害が起きたのだろうか。
しかし、それにしても妙だった。
さっきまでいた場所と、ここは明らかに違う気がする。
とにかく、状況を把握するためにも行動するしかない。
ミサキは立ち上がり、森の中を慎重に歩き始めた。
その時、突如として鋭い悲鳴が響いた。
「キャアアアアッ!」
突然の叫び声に、ミサキの背筋が凍る。
これはただ事ではない。
誰かが危険な状況にある――そう直感した。
躊躇う暇はなかった。
もし本当に危険な状況なら、一刻を争う。
「……くっ!」
心臓が高鳴る。怖くないと言えば嘘になる。
だが、それよりも、見捨てることの方が後味が悪い。
彼女はぐっと息を飲み、意を決して音のする方向へと駆け出した。
***
木々をかき分けながら進むと、視界に異様な光景が飛び込んできた。
耳の長い一人の小さな少女が、小さな緑色の小人――ゴブリンに追い詰められていた。
彼女は金色の長い髪をなびかせ、手に持った杖を振るって必死に抵抗している。
しかし、少女の動きは追い詰められ、次第に押され始めていた。
「ヤバい……!」
考えるよりも先に、ミサキは走り出していた。
全力で駆け、勢いよくゴブリンに体当たりする。
「――っ!」
小さなゴブリンの体が弾かれるように吹き飛び、地面に転がる。ミサキは素早く少女の腕を掴み、叫んだ。
「逃げるぞ!」
「は、はい!」
少女は驚いた表情を浮かべたが、すぐに頷き、ミサキと共に森の中を駆け抜けた。
***
走ること数分。
二人は息を切らしながら、ようやく足を止めた。
ゴブリンの気配はもう感じられない。
「痛っ……」
少女が足元を押さえて顔を歪めた。
靴を脱ぐと、足が赤く腫れあがっている。
恐らく捻ったかなんかしたのだろう。
「腫れ、結構ひどいな……これはしばらくじっとするしかないな……」
「大丈夫です……こんなのすぐに治せますから」
「治せます……?」
少女は微かに微笑み、杖を握り直した。
そして、静かに呟く。
「ヒール」
すると、淡い光が足元を包み込み、傷がみるみる塞がっていった。
「なっ……!」
ミサキの脳が理解を拒否する。
「今、何をしたんだ……!?」
「回復魔法を使ったんですが……魔法を見るのは初めてですか……?」
「魔法……!?」
魔法だなんて、まさかそんなファンタジーの世界みたいな……
現実離れした言葉に戸惑いつつも、目の前で見せられた治癒の光が、それが紛れもない事実であることを物語っていた。
「魔法を使えるなんて……君は一体何者なんだ……?」
少女は優しく微笑みながら頷いた。
「私の名前はリーナ。魔法はママから教えてもらったんです」
「お母さんから……?君のお母さんも魔法を使えるのか?」
「はい!私のママは昔、冒険者をやってた事もあるんです!」
リーナの自己紹介を受けて、ミサキは更に言葉に詰まった。
彼女だけでなく、彼女の母親も魔法が使えて、そのうえ冒険者?
ミサキの頭は既に大混乱状態だった。
「えっと……貴方の名前はなんでしょうか?」
「私は……美咲俊。日本の……普通の女子高生、かな?」
自分でも説明になっていない気がしたが、リーナは柔らかく微笑みながら頷いた。
「ミサキさん……助けてくれて、本当にありがとうございました」
リーナが深々と頭を下げる。
ミサキはばつが悪そうに頭をかきながら、どうにかこの状況を整理しようとした。
「それより……リーナはなんでこんなところにいたんだ?」
「ママが病気で倒れて……薬草を取りに、この山へ来たんです」
リーナは少し寂しげな表情を浮かべた。
ミサキはふと、今自分たちがいる場所がどこなのかという疑問を改めて抱いた。
「……それなら、一緒に山頂を目指そうか。薬草も見つかるかもしれないし」
山で遭難した場合、むやみに下るよりは山頂を目指した方が安全だと、登山の知識として知っていた。
リーナも少し驚いたようだったが、すぐに微笑んで頷いた。
それから二人は、慎重に山道を進み始めた。
ミサキはスマートフォンを取り出し、時間を確認するが、相変わらず「圏外」のままだった。
仕方なくバッグにしまい、リーナと共に歩を進める。
道中、森の中には見慣れない生き物たちがいた。
透明なゼリー状のスライム、小さな角の生えた兎、額に宝石のついたリス――
それらの姿を見るたびに、ミサキはますます現実感を失っていった。
「本当に、異世界に来ちゃったのかもな……」
ミサキは小さく告げる。これが夢であればどれほど良かったか。
しかし、痛みも空腹も、すべてが現実だった。
(でも……ちょっと面白いな……)
そんな事を一瞬思うミサキだったが、頭を振り、気持ちを引き締めた。
***
夕暮れが近づくにつれ、二人は少し開けた場所を見つけ、休息を取ることにした。
リーナは疲れからか、その場で目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。
ミサキは彼女の安らかな寝顔を見つめながら、今日起こった出来事を反芻していた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
どこか遠くから、不気味な足音が響いてくる。
ミサキはすぐに身をこわばらせ、息をひそめた。
暗闇の中から、緑色の肌をした小柄な影が姿を現す。
それは、昼間リーナを襲っていたものと同じ存在――ゴブリンだった。
ミサキは咄嗟にリーナを起こそうとしたが、すぐに考えを改める。
起きて声でも出されようものなら、相手にバレてしまうからだ。
そこで息を殺し、じっと動かずにやり過ごそうとした。
しかし、ゴブリンはこちらに目を向けると、ニヤリと笑った。
「気づかれた……!」
ミサキは足元に転がっていた木の枝を手に取り構える。
「こうなったら……やるしかない……!」
ゴブリンはこん棒を振りかざし、ミサキに襲い掛かる。
ミサキはぎりぎりのところで身をかわし、反撃に出ようとするが、相手は俊敏だった。
何度か木の枝で反撃するものの、決定的な一撃を与えられず、次第に追い詰められていく。
息が上がり、焦燥が胸を締め付ける。
ゴブリンがこん棒を振り上げる。
殺られる!
――そのとき、リーナが目を覚ました。
「バリア!」
彼女が杖を振ると、淡い光がミサキとゴブリンの間に広がり、攻撃を受け止める。
(今だっ!!)
ゴブリンが一瞬怯んだ隙に、ミサキは地面に転がっていた石を掴み、思い切り振り下ろした。
ゴスッ!
鈍い音が響き、ゴブリンは倒れ、動かなくなった。
息を切らしながら、ミサキはようやく恐怖から解放された。
リーナが駆け寄るが、ミサキはゆっくりと、その場で意識を手放した。
***
翌朝、目を覚ましたミサキを見て、リーナは安心したように涙を流していた。
「ミサキさん、大丈夫ですか……?」
「ごめん、大丈夫、心配かけた……」
ミサキは微笑みながら、遠くに転がるゴブリンの亡骸を確認し、複雑な気持ちで息を吐いた。
(あれは……私が殺したんだ……)
罪悪感とも不快感とも言い難い感情がミサキを渦巻くが、それでも立ち上がり、前を向く。
「行こうか……」
「はい……」
こうして、二人は再び山を登り始めた。
***
それからしばらく歩き、ついに二人は山頂へと辿り着いた。
「っ……!!」
そこには信じがたい光景が広がっていた。
城壁に囲まれた都市、大きな森に湖、空を飛ぶ赤いドラゴン、そして天を突くような巨大な大樹。
現代では決して見られない幻想的な景色に、ミサキはしばし言葉を失った。
「すごい……」
息を呑むように呟く。
そして、ふと思う。
――この世界を、もっと知りたい、歩いてみたい!
危険な場所なのはわかっているが、それでも好奇心を抑えきれない。
「私は……冒険者になりたい……!」
元の世界に帰る方法を探すためにも、この異世界を生き抜くためにも。
ミサキの新たな旅が、今始まるのだった。
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