第8話 お風呂はいいですね
荷解きはすぐに終わり、わたしはドナとお風呂に入ることにした。道中はそれなりの格の宿に泊まったが、あまりのんびりはできなかったのだ。
美味しい屋台巡りが忙しかったしね、ふふふ。
「屋敷には使用人も入れる大浴場がございます。ドナさんもお疲れでしょう? 奥様のご入浴には屋敷のメイドと共にわたしがお仕えいたしますから、よろしければお風呂に入られてはいかがですか? この時間なら空いていますわ」
優しいミミルカが言った。子爵令嬢なのにまったく偉ぶるところがない。
「いいですね、大浴場!」
そしてドナは、遠慮がない。
「あら、羨ましいわ……」
わたしも大浴場に入りたい。
世話を焼いてもらって小さなお風呂に入るよりも、銭湯みたいな広々とした湯船に浸かって手足を伸ばしたいのよね。
この世界では常識外になっちゃうけれど。
「じゃあ、シャロン様も一緒に行きましょうよ。ドナがお背中を流しますよ」
「いいわね、それでは大浴場を使わせていただこうかしら」
ミミルカは「お、奥様? 正気でいらっしゃいますか?」と声をひっくり返して叫んだ。
「だって、広いお風呂に入りたいんだもん……おっと、入りたく存じますわ」
口調が砕けてしまったのでほほほと笑ってごまかしたけれど、ドナには「やだー、『もん』だって! かーわいーい」と揶揄われてしまった。
「それでは、セレアさんに連絡して、大浴場を貸し切るように手配いたしますわ」
「別に貸し切らなくてもいいわよ。この屋敷の女性が入るだけでしょう? 見られて困ることもないし」
だいたい貴族の女性はひとりで入浴しないものよね。お付きの者が髪も身体も洗って、なんなら全身のマッサージもするんだもの。
でも、ミミルカさんは狼狽えながら言った。
「困ります! 奥様の、その、玉のお肌を、旦那様よりも早く目にでもしましたら、もったいなくて目が潰れてしまいますわ!」
「……いやん」
聞き捨てならないことを耳にして、純なわたしは頬が熱くなってしまった。
「……あっ」
ミミルカも真っ赤になった。
「違うんです、そういう意味ではなくてですね」
言い訳するミミルカをドナが「どーゆー意味ですかー」とつんつんしながら笑うので、かわいそうに汗をかいている。
「そうだわ、せっかくだからミミルカも一緒にお風呂に入りなさいな」
「えええええーっ! わたしが、奥様と?」
「いいですね、親睦を深めるために洗いっこをしましょう。奥様の髪を洗うのを手伝ってくださいよ。ふたりなら手早くできるでしょ?」
「そうしてちょうだい、ミミルカ」
「えっ、あのっ、わかりました、セレアさんと相談をして参りますわ!」
慌てたネズミのように、ミミルカが部屋から足早に出て行って、その間にドナが着替えを用意してくれた。
「旅で埃っぽくなりましたからね、大きなお風呂でさっぱりしてきましょう」
というわけで。
驚くセレアさんに「他の者が近づかないようにいたしますので!」と貸切にしてもらった広いお風呂に三人で入った。
「んあああああーっ、沁みるわあ……」
わたしは思わず、魂の叫びのような声を出してしまった。
「ぬあああああーっ、沁みますねえ、心にまで沁みますねえ……」
ドナはもっと変な声を出した。
これこれ、お風呂はこれじゃなくっちゃね。
ミミルカは悟りを開いたような顔をして「こうなったらなにものにも動じませんわ、わたしはできる子、たとえ常識が吹っ飛んでも、奥様に誠心誠意お仕えするだけですわ」と呟きながらお湯に浸かっている。
そんなミミルカに、ドナは「そうそう、細かいことを気にしたら負けなんですよ、シャロンお嬢様、じゃなくて奥様の場合は、とりあえず池に落ちたりしなければセーフってくらいに考えとけばいいんです」と変なアドバイスをしている。
「ま、ちょこっと鈍臭いところもシャロン様のチャームポイントですけどね。このドナはお嬢様が酷い目に遭わないように、ずっと目を光らせてきました! メイドの鑑なんですよ!」
「……鈍臭くないもん」
違うのよ、池に落ちたのはジャクリーヌさんが体当たりしたからなのよ。
ゆっくりと手足を伸ばしてお湯をいただいてから、ほかほかになったわたしたちは部屋に戻った。メイドが飲み物の用意をしてくれたので、フレッシュな果物を絞ったジュースをいただき、ぷはあっと言いそうになるのをこらえる。
お風呂あがりの一杯は最高よね。
「そういえば、すっかり忘れていたけれど、旦那様とジェレミーにはいつ会えるのかしら? このうちでは、夕食には子どもも同席できるの?」
基本的に、テーブルマナーをしっかり身につけてからじゃないと、幼い子どもは夕食の席にはつかない。別の部屋で取るのだ。
ミミルカは「そのことなのですが……」と声を落とした。
「大きな声では言えないのですが、旦那様はあまりジェレミー様とは関わりを持たれない傾向がありまして。お食事はいつも別々に取られていますし、まったく顔を合わせない日もございます」
「なんですって? ごはんも一緒に食べていないの?」
わたしは「それではいつ顔を合わせているのよ。旦那様はジェレミーの父親よね? 三つの子を父親が放置しているなんて、いったいなにをやっているのよ!」と厳しい口調で言ってしまった。
怯えたような表情のミミルカに「あっ、脅かしてごめんなさいね。ミミルカが悪いんじゃないのに」と謝る。
シャロン・アゲートはなにしろ『悪の氷結花』という役どころを務めるキャラなものだから、油断すると異常なくらいの威圧感が出てしまうのよね、いけないいけない、えへっ。
わたしの『えへっ』という顔を見たミミルカは、なぜか「かっ、可愛い……」と赤くなってしまった。
「紹介されるのを待とうと思っていたけれど、早急にジェレミーに会う必要がありそうだわ。ミミルカ、家令のエルトンと家政婦長のセレアをここに呼びなさい」
「はい、奥様!」
「お呼びでございますか、奥様」
「エルトンに聞きたいことがあります。そこに座りなさい。セレアも座って」
わたしのきっぱりした口調に、ふたりは従った。
「ジェレミーの養育についてです。現在、どのような態勢で臨んでいるの? 先ほど、父親であるダリル様との関わりが少ないことを耳にしました。母親のジャクリーヌさんが亡くなってから、誰がどのようにジェレミーを育ててきたのかを教えなさい」
「はい、それがですね……」
ふたりの話を聞いて、わたしは頭を抱えた。
「家庭教師とナニーに丸投げですって? ジェレミーはまだ三つなのよ。勉強の前に、充分な親の愛情が必要なのに……。それで、ジェレミーの成長は順調なのかしら? 身長や体重の推移がわかる書類は? えっ、ないの? 生まれた時から今までの生育歴は? 病歴は? 初めて立っちした時の状況は? おかしいでしょう、どうしてなにもわからないのよ!」
ちなみに、ナニーとはベビーシッターとは違って、乳幼児の保育と教育を長期に渡って行う職業だ。ジャクリーヌさんが生きていた時から長期の契約を結び、この家に住み込みで働いているらしい。
「シャロン様、お鎮まりくださいませー、頭から湯気が立っていますー、氷結の魔女なのに湯気とはこれいかにー」
「誰が魔女よ! 失礼な子ね!」
わたしはドナを叱りつけた。
なんだか気が抜ける。
そう、わたしがイライラしてもなんの解決にもならないのだ。
「とにかく、ジェレミーに会わせてちょうだい。今すぐよ」
エルトンとセレアは、困ったように顔を見合わせた。
「どうしたの?」
「申し訳ございません。旦那様より、自分が不在の時に奥様とジェレミー様を会わせてはならないと、命じられております」
「どうして? わたしはジェレミーの母親になるために……」
言いかけて、口をつぐむ。
忘れがちだけど、わたしはたいそう評判が悪い令嬢だったのだ。さすがの辺境伯も、自分の目が届かないところで『悪の氷結花』シャロンとジェレミーを会わせたくはないだろう。
「わかりました。それでは、夕食の席を顔合わせにしていただきましょう」
「いえ、食事の時は、一緒には……」
「食事を共に取らずして、なにが家族ですか! もしもダリル様が反対なさるようでしたら、わたしの口からひと言申し上げさせていただきますわ。他にも言いたいことが山ほどありますしね……」
目を細めて「ふふふ……」と笑う姿が悪役丸出しだったようで、ドナに「シャロン様、その顔をすると魔女っぽいですよ? 可愛くないからやめましょうよ」と文句を言われてしまった。