第32話 夜会5
わたしたちは大広間を進んで、料理のテーブル近くに陣取った。
べっ、別に、おなかが空いているからじゃないからね!
たまたまそこが空いていたから、それだけだからね!
「おかしゃま、たいへんなの! おやさいでできたくまさんがいるの!」
「あら、見事な細工ね。美味しそうなカナッペが並んでいるから、あとでいただきましょうね」
「おかしゃま、あっちにはこおりでできたおおきなとりさんがいる! とぶの? あのとりさんは、とぶの?」
「おそらく飛ばないと思うわ。羽の上にデザートを乗せているから、飛んだら大変なことになるもの」
「そうね、おいしそうなのがおちたらもったいないのよ。たべものは、たいせつにしなくてはなりませんなの」
「その通りですよ、ジェレミー」
「ぼくが、はねのうえのでざあとを、ぜんぶたべたら、かるくなるからとぶかもしれないの」
「飛ぶ前にジェレミーのおなかが痛くなるから、試しては駄目ですよ」
わたしたちの会話を耳にしたのか、近くにいた紳士と淑女(たぶん夫婦だ)から笑い声が漏れた。彼らは「なんて可愛らしいお話でしょう」「美味しいお菓子をあげたくなってしまうな」と、ジェレミーを優しく見た。
うちの子を褒められたら、親としては嬉しくなって当然である。
満面の笑みを浮かべたわたしはふたりに向かって会釈し、『うちの子、世界一可愛らしいでしょう?』という想いを伝えようとする。するとふたりは驚いたような表情でわたしを見、顔を見合わせてから、改めて笑顔で『その通り』と会釈をしてくれた。
あら、このふたりの顔には見覚えがあるわ。シャロン・アゲートが参加した何かの会で会ったことがある人みたいね。
ちなみにシャロンは、美形男性と天敵の王妃以外のことはあまり眼中になかったようだ。それでいいのか貴族令嬢、と突っ込みたい。
ジェレミーはまん丸おめめで、わたしたちが礼を交わすその様子を見ていたかと思うと、一歩前に出て言った。
「こんにちは。ぼくはジェレミーです。さんさいです」
うきゃーん、なんて礼儀正しいいい子なの! きっとわたしたちが知り合いなのだと思って、きちんと自己紹介をしようと考えたのね!
うちのジェレミーは、小さな貴公子なのです。
「ま、なんて愛らしいこと!」
ご婦人の方が、手にした扇で顔を隠しながら呟いたが、目がキラキラ光っていて頬を染めているのが見えたので、たぶん、ジェレミーの可愛さに大打撃を受けているに違いない。
ご婦人は隣りの男性の腕を軽く叩き「ほら、あなたも」と促している。本来なら厳しい顔をしているだろう男性は腰を屈めてジェレミーと目線を合わせると、目尻を下げて微笑みを浮かべながら言った。
「これはこれは、丁寧な挨拶を恐れ入ります。わたしはハンベル・マキアード侯爵と申します。こちらは妻のヘレンです」
ヘレン様は笑顔でジェレミーに頷き「よろしくね、ジェレミー様」とおっしゃった。
マキアード侯爵夫妻だったわ!
ジェレミー氏、とんでもない大物を釣り上げるの巻!
「おちかづきになれてうれしいの、でしゅ!」
侯爵と握手を交わしたジェレミーは、嬉しくてその場で小さく飛び跳ねてしまった。それがヘレン夫人のツボにハマったらしくて、彼女は「きゃわゆいっ、跳ねてる、跳ねてるわ!」と扇に隠れて面白がっている。
「あのね、こちらのおうつくしいおかたはね、ぼくのおかしゃまなのです。とてもすてきでしょ? おかしゃまはかわいくてやさしくて、ぼくがねるときには『どうぶつのうた』をおうたいになって、おふとんをとんとんしてくださるのよ。だからね、ぼくはね、おかしゃまのことがすごくすきなの」
「まあ……」
ヘレン夫人は、わたしの顔を見ていたずらっぽく笑った。以前のシャロンを知っているからなのね。
彼女は夫の侯爵のように身体を低くすると、ジェレミーに「大好きなお母様がいらして、素敵ですわね」とお声をかけてくださった。
「確かに、今夜のドレスは品も良く、とてもお似合いで美しいわ」
「そなのよ、ぼくもさいしょみたときにおどろいたのよ! ……でも、へれんおねしゃまも、とてもおうつくしいのよ? おねしゃまは、おひめさまなのですか?」
「えっ!」
驚いて目を見開いたヘレン夫人は、後ろによろめいてしまった。侯爵が支えてくださったからよかったわ。
ちなみにこの発言は、ドナの「いいですか、ジェレミー様。歳上の女性はすべて、お姉様とお呼びするのが紳士のマナーなんですよ?」という恐ろしい洗脳の成果である。
「あっ、おねしゃま、だいじょうぶですか?」
なんと、うちのちっちゃな紳士くんも、小さなおててでヘレン様を支えているわ! やだ、素敵、これはグッと来ちゃう!
「あっ、ありがとうございます、ジェレミー様」
少女のように頬を染めたヘレン様(シャロン・アゲートの穴だらけの情報によると、成人した息子がふたりもいるお年の美魔女)が、お礼の気持ちでジェレミーに握手をしようとしたら、うちの紳士ちゃんはその手を両手で取ってにっこりと笑った。
「いいのよ、へれんおねしゃま。おひめさまをたすけるのがきしのおやくめなの」
最終兵器ジェレミーが、またしても爆弾を投げた!
ヘレン様は息も絶え絶えになり、マキアード侯爵から「ヘレン、大丈夫か? 気をしっかり持つのだ」と励まされている。
「ええ、ええ、大丈夫ですわ。わたしは正気です。……ジェレミー様、なにか欲しいものがあるかしら? あのね、ヘレンお姉様はとても頼りになる騎士のジェレミー様に、プレゼントをお渡ししたくなってしまったのよ。どんなものでもよろしいわ、欲しいものを教えてくださいませね。乗馬はお好きかしら? 大きな白い、素敵な馬に乗ってみたいとお思いにならなくて? それとも、森の中に秘密のお城を建てましょうか? 高い塔がある素敵なお城を……」
「ヘレン、ヘレン、全然正気ではないぞ!」
侯爵に肩を揺さぶられたヘレン様は、頭をカクカクさせながら「でも、どうしてもジェレミー様にあげたいの! とにかくなんでもあげたいの!」とうわ言のように呟いている。
これはあかんやつや。
侯爵夫人が全財産を貢ぎそうになってるで。
わたしの中の関西人が、呆気に取られて言った。
首をこてんと倒して「え?」と考えていたジェレミーが、ヘレン夫人に言った。
「どうぞおきづかいなく、なの。へれんおねしゃま、あなたのおうつくしいえがおが、きしにとってのいちばんのおくりものなのよ?」
何事かと成り行きを見守っていた、周囲にいた貴族たちの中から「はああ……」というため息が聞こえた。
「ジェ、ジェレミー様、天使過ぎる……尊い……」
大変だわ、あのヘレン夫人が、社交界の重鎮としてその名が響き渡るヘレン夫人が、白目をむいて失神しそうになっているわ!
「ヘレン!」
ええと、ヘレン夫人、大丈夫……かしら?
そんなちょっとした騒ぎもありましたが。
わたしたちの入場から少し時間が開いて、呼び出し係が現れた。彼はファンファーレのあとに高らかに声をあげた。
「国王陛下ご夫妻のご入場でございます!」




