第21話 謎の陰謀ですか?
ジェレミーがドナとミミルカを相手に『お名前書き遊び』を始めたので、わたしはなんとか泣き止んだ家庭教師のハワードに言った。
「ハワード、ずばり聞くわよ。初対面の時にどうしてあんなに悪い態度をとったの? 単に王都でのわたしの悪評を聞いていたからなの?」
鼻と目を真っ赤にした青年は一瞬怯んだ表情をしたが、すぐに気持ちを整えたようだ。
「それは……お待ちください」
意外なことに、彼はしばらく考えてから答えた。
「冷静に考えますと、わたしはどうして噂しか知らないあなたを敵視していたのかと不思議になります。どうやらわたしは、シャロン様がジェレミー様の害悪になると思い込んでいたようですね」
「『いたようです』とは、まるで人ごとのように言うのね?」
「はい。どうやらそれは、わたしが自分で考えて出した結論ではないようなのです」
わたしは眼鏡の奥の瞳をじっと見つめた、最初に会った時のような、嘲るような色はまったくない。
「自分で言うのもなんですが、わたしは比較的知的な人物で、感情に振り回されるようなことはめったにありません。あっ、さっきのあれは別ですよ? 尊い天使様にあのような過分な言葉をいただいたら、誰だって心が天まで舞い上がり感極まってしまって当然ですよね!」
「ええ、当然よ! うちの可愛いジェレミーは天使だから、あれは仕方がなかったわね!」
わたしたちは一生懸命に誰かの名前を綴っている尊い天使を見て、満足のため息をついた。
「それなのに、わたしは自分で考えること、判断することを放棄してあなたを『悪人』であると決めつけてしまった。こうしてシャロン様のお人柄を直に拝見した今、まるで頭の中の霧が晴れたように正常な判断ができるようになりました。これもおかしな話です」
「おかしいどころか、恐ろしい話だわ。自分の意思を捻じ曲げられてしまうなんて……」
わたしの頭に『洗脳』という言葉が浮かんだ。
誰かがハワードを洗脳した?
こうしてすぐに自分の思考を取り戻したのだから、強いものではないとしても、本当に洗脳されていたとしたら大変なことだ。
「ハワード、教えてちょうだい。わたしが来る前に、わたしについて話をしたのは誰?」
「……レガータ夫人だけですね」
レガータ夫人!
またしても、あの謎の女だわ。
「わたしはレガータ夫人の推薦でこの屋敷に住み込みの家庭教師としてやって来ましたが、彼女はこの屋敷にいる人たちとあまり仲がよろしくなく、その関係でわたしも距離を置かれていました。まあ、生活に支障がないので放置していたのですがね。だから、シャロン様について会話をしたのはレガータ夫人のみです」
ハワードは頭が良いだけあって、整然と話す。ちょっと癖が強いし、あのレガータ夫人とつるんでいると思われたら距離を置かれていても仕方がなかっただろう。
「あなたが悪い人でないことは、ジェレミーの態度からわかります。あなたをとても尊敬しているようね。ハワード、これからもジェレミーの教育をよろしくお願いいたします」
わたしが頭を下げると、ハワードは「シャロン様! 頭をあげてください!」と慌てている。
「あなたは、とても賢くいらっしゃるし、お優しいし、ジェレミー様のことをとても大切に思っていらっしゃる女神のようなお方です。女神と天使の母子にお仕えできることは、このハワードの喜びですので、誠心誠意お務めさせていただきます!」
「まあ、そんな大げさな。でも教育に熱意があるあなたのような教師にジェレミーをお任せできて幸運だと思うわ。レガータ夫人はいろいろ問題があったけれど、人を見る目は確かだったようね」
「ありがとうございます。そういえば、あの女性は王都に行くと言っていましたね。故ジャクリーヌ様の縁者だと思っていましたが、どのような経緯でナニーに選ばれたのでしょうか?」
「ハワードも知らないの?」
彼は難しい表情で頷き「あの人には不可解な点が多過ぎます」と言った。
今日の勉強は午前中で終わり、わたしとジェレミーは昼食をとってから屋敷の周りを散歩することにした。
「ぼくがおかしゃまを、ごあんないします! ぼくね、おにわのことや、おはなのことや、あとはいけのこともね、よくしってるのよ!」
「そうなのね。それでは案内をお任せするわ」
「はい!」
ちっちゃな紳士は「どじょ」とエスコートの手を出してくれた。
ちっちゃ! おてて、ちっちゃ!
そして、柔らかくてとても温かいの。この世で一番可愛いおててなのよ。
わたしたちは手をつないで、屋敷の周りをぐるっと歩いた。辺境の地なので敷地が広く、ちょっとした運動にいい距離だ。
「おかしゃま、かだんにおはながさいてます。にわしさんがそだててくれてるのよ」
「まあ、綺麗に咲いているわね。そういえば、ジェレミーは紫色を知っていたわね。紫色のお花も咲いているの?」
「いまはさいてないかな?」
「紫色が好き?」
「いいいろなんだって、れがあたふじんがおはなししていたのよ」
「いい色?」
なんで突然、紫色を推したのかしら?
日本にいた時に、東西を問わず紫色は高貴な色として好まれていた、と聞いたことがある。偉いお坊さんは紫色の袈裟を身につけていたし、貝から取り出した色素で染めた『貝紫』は『クレオパトラの紫』とされていたんだっけ。どうして貝で紫色に染まるの? ってびっくりしたから覚えているわ。
でも、シャロン・アゲートの知識を探ったところ、この世界で紫色が高貴な色にされている事実はない。
むしろ大っ嫌いな色なのよね。なぜならば、天敵の王妃アルテラの髪の毛が紫だから!
……ん?
なんか今、引っかかったわ。
「ねえジェレミー、レガータ夫人のお話に、紫色の髪をした人が出てきたの?」
「はい、おかしゃま。むらさきいろのかみをしたおんなのひとが、くろいかみのおとこのことなかよくなるおはなしにね、でてきたのよ」
「お母様も、そのお話のご本を読んでみたいわ」
「ぼくのおへやにある! おみせしますなの!」
わたしは嫌な予感でいっぱいになって、散歩を切り上げジェレミーに頼んでそのお話の本を見せてもらった。
「やっぱり、あの女が絡んでるわ……」
王都に向かったというレガータ夫人。
そして、紫色の髪の女と黒髪の男の子が一緒に暮らすという、手描きの絵本。
銀の髪の女神と黒髪の男の子の悲劇も手作りの本だった。
「お帰りなさい、ダリル様」
「おとしゃまー! おかえりなさい」
「ただいま」
予定よりも早く戻ってきたダリル様を、わたしたちは玄関で出迎えた。ジェレミーを抱っこするわたしは、筋トレの日々が身を結んだことを喜んだ。天使はやっぱり軽々と持ち上げるものよ。
「こうして家族に出迎えてもらえると、一日の疲れも吹き飛ぶな」
ダリル様が手を伸ばしたので、ジェレミーを渡した。ふふふ、天使パワーで癒されるがいいわ!
「おとしゃま、おちゅかれなの? おしごとたいへんなのね。ぼくもはやくおおきくなって、おとしゃまのおてつだいをするの」
「ありがとう、ジェレミー。期待しているよ」
ダリル様にくりくりと頬ずりをされ、ジェレミーはきゃっきゃと笑い声をあげてから「ぼくね、しゅごく、おてつだいするの」と鼻息を荒くしてやる気を見せている。
もう可愛いったらない。
うちの天使は将来有望なデキる天使なのだ。
「少し汗をかいてしまったからな、風呂に入ってくるが……おまえも一緒に入るか?」
ダリル様が、気軽な感じでジェレミーに声をかけたが、ダリル様の背中越しに見える家令のエルトンと家政婦長のセレア(ふたりとも、ダリル様の出迎えでここにいるのだ)が目玉が飛び出しそうなくらいに驚いているから、これは初めてのことなのだろう。
「はいゆ! おとしゃまとおふろ、はいゆ!」
興奮して口が回らないジェレミーの愛おしさよ!
「おとしゃまといっしょ、うれしいの!」
うんうん、嬉しいね、よかったね。
ジェレミーが嬉しいとお母様も嬉しいの。
「そうしたら、おかしゃまもいっしょにはいるの?」
「え?」
「だって、ぼくたちはかぞくなのよ」
……それは、駄目ですね。
思わずダリル様の顔を見ると、彼はわたしから目を逸らしてなぜか胸の辺りを見て、顔を赤くした。
どこを見て、なにを考えてるのよ! えっち!
「ね、おかしゃま?」
「ええと、ええとね、ジェレミー。お母様は……お母様はこの美貌を磨くために、これからドナとミミルカの超美容マッサージを受けなければならないのよ! だからね、お風呂はお父様とふたりで入っていらっしゃいね?」
「そなのね。おかしゃまはとてもおうつくしいから、とくべつなおふろにおはいりになるのね」
キラキラ輝く純真無垢な瞳で、ジェレミーが言った。
「そうだな。そして我々男は美しい貴婦人を守るために生きるのだ。ジェレミー、しっかりと励んで、お母様をお守りできる男になるのだぞ」
「はい、おとしゃま! はぎぇむの!」
「うむ!」
わたしは『なんとかごまかされてくれたわ……』とほっと胸を撫で下ろした。
「そうだわ。ダリル様、あとでお話ししたいことがありますの。お風呂から出てからお時間をいただけます?」
「ああ、かまわん」
そして彼は、わたしだけに聞こえるように耳元で囁いた。
「入念に身体を洗っておく」
「にゃっ!」
ちっ、違うわよ! そういう話じゃないの!
ダリル様は挙動不審になるわたしを見て、にやりと笑った。
こっの、ちょっと顔がいいからって! 人のことをからかうんじゃありません!




