第19話 ジェレミーの教育
玄関までダリル様を見送って振り返ると、屋敷中の使用人が全員集合したのではないかと思うほど、大勢の人がわたしを見ていた。
え、なに?
これから喧嘩バチバチ仕掛けてくるわけ?
上等よ、受けて立とうじゃないの!
ジェレミーを抱いた手に力を入れて、なんならこちらから宣戦布告しようかと思っていたら、家政婦長のセレナがハンカチで目元を押さえながら「ああ、奥様! ありがとうございます。奥様がいらっしゃって、このお屋敷は明るい場所へと生まれ変わりましたわ!」と、涙声で言った。
って、どうして泣いているの?
見ると、セレナのところに近寄って慰めている家令までが「このエルトン、辺境の地に屋敷を構えて以来、旦那様に真摯にお仕え申し上げて参りましたが、今日のこの日を迎えることができて感激を抑えることができません」と声を震わせている。
わたしが首を傾げていると、今朝も最高に可愛いジェレミーが言った。
「あのね、おかしゃまがいるとね、にこにこがふえるのよ。きっと、おきれいでやさしくてかわいいおかしゃまをみると、おとしゃまもおやしきのみんなも、うれしいきもちになるの。ぼくだって、おかしゃまといるとうれしくてたのしくて、おむねがあったかくなるんだもの」
はうっ!
この子は朝からなんてことを……攻撃力が強すぎでしょう! 天使の矢で胸を貫かれてしまったわ!
可愛くて優しいのはジェレミーの方なのよ。
でも、そう言われて周りをよく見たら、わたしに対して敵意を抱いた視線を向けている者はいないようだ。
ジェレミーが防波堤になってくれているのかしら?
こんなに可愛い子が笑顔で抱っこされていたら、どんな悪人も清らかな聖人に見えてしまうだろう。
抱っこしている者は問答無用で『いい人認定』されてしまうのだ。それがたとえ、『悪の氷結花』と名高い極悪令嬢であっても!
うん、ここは勘違いさせておきましょう。
と、ドナがわたしの背中をつついて言った。
「シャロン様は、今変な理屈を考え出しているでしょう? でも、それは全部間違ってますからね。本当にポンコツで可愛いんだから」
「ちょっと、聞き捨てならないわね。あなたにわたしの頭の中がわかるとでもいうの?」
「『悪い噂が流れているわたしは、きっとみんなに嫌われているわぁ、あら、意地悪を言われないわぁ、きっとうちのジェレミーが可愛いからごまかされているんだわぁ』なんて感じ?」
「…………」
「大丈夫ですよ、シャロン様」
いつも失礼でふざけているドナは、珍しく普通に微笑みながら言った。
「お嬢様を悪く言う人たちは、本当のお嬢様を知らないんですよ。シャロン様の真の姿を知った者は皆、シャロン様のことを好きになります。だから、ハリネズミみたいに警戒しなくて大丈夫です」
「……ハリネズミ?」
「触れるもの皆凍らせる、警戒心と闘争心バリバリの可愛いハリネズミちゃんですね」
「主人をネズミ扱いするとは何事ですか!」
叱っても、ドナはまったく動じない。ジェレミーに向かって「ぼっちゃま、ハリネズミっていう動物はご存知ですか? 背中にトゲトゲがある、可愛い顔をしたネズミなんですよー」なんて言って興味を引いている。
どうやら今日やることは、ハリネズミについてのお勉強になりそうね。
ジェレミーの勉強は、住み込みの家庭教師が担っている。
ジェレミーはお勉強用の椅子に腰かけ、わたしはソファーにおさまって部屋で教師を待っていると、ハワードは時間ぴったりにやって来た。
「……勉強中は、出て行ってください」
眼鏡の教師はわたしを追い払いたいようだが、そうはいかない。
壁際に待機しているドナが「シャーッ!」と猫のように威嚇したが、ハワードは鼻で笑った。
「今日は授業参観ですわ。授業参観、もちろんご存じですわよね?」
この世界に授業参観という言葉があるかどうかは知らないけれど、そんなのかまわない。ジェレミーに関してはわたしがルールですからね、ふふふ。
「親として、どのような教育が行われているのかを把握する必要がありますわ」
「あなたはその調子で、レガータ夫人を追い出したのですね」
「あれは無能どころか、ジェレミーにとって成長を妨げる害悪でしたもの。子を守るのが親の務めですわ」
家庭教師のハワードと、一触即発のバッチバチな感じになり、いよいよ苛烈な戦いが始まる……。
「あのね、あのね、ぼくは、おかしゃまをおまもりするのです! それがむすこのおちゅとめなのよ。だからね、ぼくはたくさんおべんきょうして、かしこくなって、ちゅ、ちゅよーくなるの。はわあどしぇんしぇい、おべんきょうをおねがいしましゅ!」
力が入り過ぎて、だいぶ噛んでる!
むっちゃきゃわゆい!
なんてきゃわゆいわたしの騎士ちゃんなの!
溢れる愛おしさに押し流されて、ソファーに身体を投げ出してしまいそうよ。
と、いけないわ。
レガータ夫人の手先、家庭教師のハワードの魔の手からジェレミーを守らなければ……。
「そっ、それは、立派な心がけですね! それでは、はわあどしぇんしぇいと一生懸命にお勉強、していきましょうね」
顔を真っ赤にして、ハワードがものすごく自分を抑えている様子で言った。
「はいっ、はわあどしぇんしぇい!」
「くうっ、尊い!」
……え?
なぜに、そんなに、萌え散らかしているの?
イメージとかなり違うハワードが、ジェレミーに綴り方を教えている。日本では、小学校に入ってからひらがなカタカナを学ぶのに、まだ三歳のジェレミーは、いくらか文字を読めるようになっているようだ。
やはり、この子は賢い。
「いいですか。それでは、これから試験をします。今日も間違えた数だけ鞭打ちがありますからね。しっかりと思い出すように」
鞭打ちですって?
今、鞭打ちって言ったわね?
ジェレミーは、怯えた顔で「が、がんばりましゅ」と言った。
なんてことだろう、こんな小さな子に罰として鞭打ちを与えるなんて、人としてやってはならないことだ。
わたしはハワードを冷たく睨みつけたが、彼はまったく無視して試験を始めた。
試験の結果、十のうちジェレミーは五つも間違えてしまった。
「それでは、五回の鞭打ちですね」
「ご、ごめんなしゃい、はわあどしぇんしぇい……」
ハワードが取り出した細い木の棒を見て、ジェレミーは泣き出しそうだ。
あんな棒でジェレミーのことを打つの?
そんな暴挙を、このわたしが許さないわ!
許さない……わ?
ハワードは棒をジェレミーに渡すと、シャツの腕を捲り上げて勉強机の上に乗せた。
「生徒の間違いは、不甲斐ない教え方をした教師の責任です。さあジェレミー様、しっかりと打ってください」
「ごめんなしゃい、いつつもまちがえてごめんなしゃい」
「ちょ、ちょっと待ったああああーっ!」
わたしはジェレミーの手から棒を取り上げた。
「あなた、なんてことをしてるのよ!」
「……罰を与えなければ、身につきませんから」
「いやいや、おかしいでしょう! 駄目です、このやり方は子どものためになりません。禁止いたします!」
ジェレミーが打たれていたわけじゃないことには安心したけれど。
こんなの、絶対、駄目よ!
わたしは強制的に休憩タイムにして、ドナにジェレミーの相手を任せた。ちょっと授業参観しただけなのに、問題があり過ぎだ。
「ハワード先生。子どもを脅して学ばせるという方法は、間違っています」
「……鞭を使うのは、ごく当たり前のことですよ」
「当たり前だから正しいというわけではありませんよ! っていうか、ジェレミーのことを打つのかと思ってヒヤヒヤしましたわ」
「なんてことを! あんな可愛い子を打つだなんて、あなたは鬼か魔獣ですか!」
「打たせるのも同じくらい酷いことですよ! ジェレミーの心が傷ついてしまいます!」
「しかし、圧をかけないと勉強が捗りませんし……」
「その考えが間違っているのですよ。押しつけて無理に勉強させるのではなく、自然に勉強をしたくなるような環境を整えたり、勉強方法を工夫することが大切なのですわ。それこそが、教師の存在理由です」