44話『分からない、でもその一蹴を』
「――」
どれほど経ったか、アドニスは顔を上げる。
夕暮れだった世界は淡い月明かりが差し込む、青白い世界へと変貌していた。
体を起こし、黒い眼が自身の右手を見下ろす。
歳の割には大きく、ごつごつと骨ばった。だがまだ子供としか言い切れない掌。
それでもこの手があれば、アドニスは人を簡単に殺す事が出来る。
腕をへしゃまげ、首をへし折り、頭蓋を潰し、鉄さえも簡単に曲げられるだろう。
その確固たる自信が有れば、だが。
「『恐怖』は……『限界』、か」
幼い子供の様に泣きじゃくり。冷静になった頭に浮かぶのは、再度シーアの言葉だった。
落ち着きが戻った、心と頭が発する。
「……ああ、そのとおり。正論だな」
手をきつく握りしめて、眉を顰め黒い眼を閉じる。
僅かな時。アドニスの口元には自身に対して、呆れかえるような嘲笑にも似た笑みが浮かんだ。
『恐怖は限界』
ああ、全く。ぐうの音も出ない。頭が痛くなるほどの正論。
この一週間。自分はなんという下らない感情をシーアに向けていたのだろう。
思い起こすだけで腹立たしく思える。
鍛錬の時。嫌、鍛錬以外でも。
何時もシーアが僅かに腕を振り上げるだけで、アドニスは恐怖し身体が硬直して身体を守ろうと手を翳すばかり。
彼女の一撃が恐ろしくて堪らなくて、身を守る事ばかりに集中させる。
シーアが呆れるのも当然だろう。
彼女からすれば本当に微かに手を動かしただけに過ぎないのに、目の前の子供は無駄に大げさに怯え震えるのだから。
だが、残念なことに。愚かしいと理解しながらも、この自身の恐怖と言う感情は痛いほどに受け入れられてしまう。
それは生物的本能から来る恐怖であるから、仕方が無い。
目の前に得体のしれない化け物が現れ、感じたことも見たことも無い強力な力を振るう。
そんな未知なる恐怖と圧倒的な力の前に、脅えない生き物は何処にも存在していない。
だから、仕方が無い――?
「……」
閉じていた眼を開く。
きつく握りしめた拳を見下ろし、手を広げる。
余りに強く握りしめたせいで、爪の後がくっきり浮かび上がり、血が滲んだ己の手。
僅かな痛みが手から頭に伝わって、全身に広がっていく。
「――こんなもので痛みを感じるなんて、実に下らないな」
その手を振り払う。
流れ出した血が指先を伝い、傷ついた手は燃えるような熱を発し始めるが、アドニスはコレを捨て去る。
黒く、鈍い輝きを放つ眼が細くなった。
――もう、馬鹿げた子供の苦悩も癇癪も終わりにしよう。
「おい、ヒュプノス。いるんだろう。――始めよう」
薄い唇がゆっくりと開き、声を発する。
暗闇に呼びかけるように、静かに、怒りを混ぜて、穏やかに。
纏っていた黒いコートを脱ぎ捨てて、アドニスはゆらりと立ち上がった。
しん……と静まり返る道場に声が木霊して、六花が如く消えゆく。
月光が輝く青白い黒の世界に濡羽色が舞うのは彼の声が消える時であろう。
音などない、空間に暗闇の窓は突如として現れた。
何処までも漆黒に渦巻く世界から。
カツン……。音を立てて白い足が伸び、この世界に降り立つ。
纏うは、何時もの艶やかで身体を露わにする黒いドレス。
結った髪を下ろして、跳ねに跳ねた黒を揺らめかし。
月光を浴びた肌は、青白く真珠の様に輝き放つ。
黒髪の隙間から除く赤い瞳が怪しく妖艶に、そして何処までも燦爛と。
「ニタリ」……。
その、美しさに不似合いで、それで尚美しい何時もと変わらぬ笑みを湛えて。
――シーアは姿を露わとした。
「呼んだかい。少年」
いつ見ても、月など霞む程美しい女は笑みを湛えながらアドニスを見据える。
彼女の姿を映し。少年は一度眼を閉じ大きく深呼吸をすると、眼を開いた。
その口から何一つ、言の葉が紡がれることは無い。
もう要件は彼女に伝え、彼女はソレに答えて姿を露わにしたのだ。後の下らない言葉など不要。
鋭い黒の眼が赤い瞳を映し撮り、静寂が二人を包み込む。
最初にコレを壊したのはシーアだ。
笑みを浮かべたまま、彼女は赤い瞳を細めると小さく鼻を鳴らす。
――それが、合図となった。
アドニスは一気に地を蹴りあげる。
身体を低く屈ませ、奔る。風圧を身体に感じながら。
右掌は爪を立てるが如く。
腕を思い切り後ろに引き推す構えで、彼女の頭を狙い駆ける。
少年の身体は、彼女の目前へ。足を止めると同時に、引き絞っていた掌は弾き出された。
だがしかし、躊躇も無く放たれた手弾は、僅かにも彼女に当たる事は無い。
シーアは表情1つ崩すことなく。頭を傾け、何時ものように避けたのだ。
アドニスは伸ばした腕を撓らせる。
避けられたのならば、今度は鞭の様に、筋肉が締まった長い腕で首を狙う。
白く小さい手が太い腕を掴み上げると、ソレを軸にして軽々と身体は宙へと浮き、クルリと空中で一回転。
今度は彼女が地に降り立つ瞬間を狙う。
身体を捻り、足を上げ、その細い腰をへし折らんと蹴り回す。
ふわりと彼女が僅かな間も無く跳び上がり、避けると分かっていても、我武者羅に一撃を。
彼女が跳び上がったと同時に、アドニスも身体を整え跳び退き距離を取った。
一度着地をして、更にまた後ろへ。止まらない勢いの元。地に手を付いて壁際ぎりぎりに下がる。
――2人の距離、それは20mほどか。
肩で息をしながら、アドニスは身体を上げた。
黒い眼には変わらず、ニタリと笑い続けるシーアを映し撮って。
昼の子供の鍛錬とは違う。一方的に本気で殺す勢いで迫り、加えた攻撃は全て避けられた。
それだけだと言うのに、身体には疲れが隠し切れないほどに現れている。
いや、この疲労は一週間前も、彼女を始めて殺そうとした時も感じたものだ。
口元に笑みを一つ。
息を整えるために深呼吸を繰り出して。
アドニスは再度、地を蹴りその身体を弾き飛ばした。
身体に風を感じながら、彼は奔る。
ただ只管に、奔って、奔って、彼女を目指す。
目に映るのは笑みを湛える美しい女の顔。
彼女の行動が鮮明に頭に浮かび、彼女の言葉が木霊する。
――「今日の鍛錬は終了♪」
楽しげに笑って、鍛錬を強制的に終了させた彼女と、そんな彼女に怒りを覚えた自分。
思いだせば心底、自分自身に腹立たしく思う。
今身体に感じる相当な負荷。
先程……。昼間の何時ものお遊び鍛錬とは違う、彼女を本気で殺すために加えた攻撃。
僅かな3つの動きを繰り出すだけでアドニスの身体は酷い疲れを感じることなった。
――嗚呼、思う。
人は本気で何かを殺そうと動いた時、こんなにも身体に負荷が掛かるモノなのか、と。
彼女が鍛錬を終了させようとしていた気持ちが良く分かる。
疲れが身体に出るこの一撃一撃をシーアは簡単に避けてしまうが、実際は重たい一撃だ。
一番最初に、この一撃を経験していたのならば。
後の1週間の「鍛錬」なんて物は、彼女からすれば、唖然とするものだった違いない。
子供が腕を振り回して遊び襲い掛かってくる。
彼女にはそんな風に見えていたのではないだろうか?
下らない遊びに何十時間も付き合わされて、彼女は心底うんざりした事であろう。
だと言うのに。アドニスは一方的に遊びを取り上げられたと不貞腐れて。
剰え、彼女を我儘だと苛立った。でも、本当は我儘だったのは何方だったのか。
自分自身で「化け物にしろ」と命じていて、こんなもの嘲笑も起きない。
――駆ける。
――駆ける。
まだ、まだ、彼女を狙って駆ける。
――「何か、気に障る事でもしたか?」
――「……したよ」
――「私の事、好き?」
アドニスは、シーアが嫌いだ。
大嫌いだ。その湛える笑みも。セクハラばかりの行動も。自分勝手な所も。
何もかも無理矢理作り上げたその性格も、何かも気に入らない。
でも、彼女が側に居る事は、嫌だとは思えない。
自分を振り回す彼女を鬱陶しく感じても、突き放す事は出来ない。
彼女が約束を破っても、手放す事はしたくない。
こんなの、自分でも気持ち悪いと呆れてしまう。
だけどきっと、そんなモノをぶつけられる方が何十倍も気持ち悪かった違いない。
気持ち悪いと罵倒しておいて、それでも側にいてくれる事が嬉しいなんて。吐き気がする。
そして彼女に「大嫌い」と言葉を投げつけられた時に感じた、言い表せない痛み。
何故、何故だろう。
何故そんなあべこべな感情が自分の中に起きているのだろうか。
残念なことにコレだけは、痛みの正体だけは、どれだけ考えても答えは見つからなかった。
奔って、
掛けて、
我武者羅に彼女へ迫る。
眼の端で、シーアがゆっくり腕を上げるのが見えた。
――「だから、何怖がってんの?」
嗚呼、そうさ。
アドニスはシーアが怖くてたまらない。
初めて会った時から、自分を殺そうとして来た存在で。
振り払えない程の馬鹿力の持ち主で。
デコピン一つで、人なんて簡単に殺してしまえそうな彼女が怖い。
本能的に身体が訴えるのだ。彼女には勝てない、諦めろ、逃げろ、と。
だから、彼女が僅かに動くだけで大げさすぎると言わん動きばかりを取っていた。
本当は彼女が一切此方に、それこそデコピンすらする気は無いと気が付いていても。
それでも恐怖は収まってくれなかった。
彼女の全てが。何よりも。
折れてしまいそうな、その細い身体が、怖くて堪らなかった。
……壊してしまいそうで、怖くて堪らなくなる。
ああ、そうだ。矛盾だ。
アドニスの中には言い表せない矛盾が渦巻いている。
彼女は嫌いだ、でも側にはいて欲しい。
それが露骨に態度に出る。
彼女を化け物と呼び、自分を化け物にしろと命じておきながら、
傷つけたくないと恐怖する。
この女は嫌いだ。
彼女の言動で、我儘を言って喚いて。
こんな女大嫌いだ。
彼女の行動で、訳も分からず赤面して。
唯の化け物としか見ていない。
彼女に嫌われたと、子供の様に泣きじゃくって。
全く、本当にこんなんじゃ、彼女が気持ち悪がる理由も良く分かると言うモノだ。
でも、唯一つ。確かな事はある。
――アドニスは駆ける。
持ち上げられた手を見て、震え固まりそうになる身体を奮い起こし、まだ駆ける。
彼女の目前に迫り、勢いのままに思い切り地を蹴り上げた。身体が宙に浮く。
それを利用し、彼は彼女の頭上へと移動し、足を高く振り上げる。
アドニスは今、ひどい矛盾を抱えている。コレは確かだ。
どうしようもない問題を抱えて、シーアに飽きられかけている。ソレも確か。
下手をすれば「任務」にだって支障が出るかもしれない。
でも、どれだけ考えても、その自分自身の矛盾には答えが出やしない。
それでも、それでもだ。
唯の一つ。見つけられた答えはあった。
泣き続けた先で出した答え。唯一掴み取った答え。
それを彼女にぶつける為に、今彼は此処に居る。
――「君は『最弱』で『限界が存在する』ただの人間だ」
……コレを。この言葉を否定し汚名を払う為に。
お前の言葉が余りに悔しくて堪らないから意地で此処に居る。
彼女の事は怖い。本能だもの。仕方が無い。
違う、仕方が無い――じゃない。
「仕方が無い」なんて言葉は言い訳に過ぎない。
そんなもの、捨ててしまえ。
今度こそ「怪物」になると決めよう。
ただ悔しさを胸に、我武者羅を選び。「恐怖」を振り払って彼女に向かう覚悟を定めろ。
きっと今この瞬間。何処かの物語の主人公であるなら、雄叫びでも一つ上げ、自分を奮い立たせる事だろう。
だが、アドニスは歯を食いしばって、彼女に向かう。
煩いのは嫌いだ。コレは「正義の味方」の一振りではなく。
女一人に縋り続けた、子供のただの悪足掻き。
もう彼女を傷つける事は恐れない。
だからこそアドニスは高く振り上げた足を振り下ろす。
その小さな頭だけを狙い、かち割る事だけを考えて。
シーアと言う【化け物】に、最後の一太刀を。
紛れもなく、これは彼女を殺すための一蹴だ――!
赤い瞳が細くなる。
凄まじい衝撃が辺りに拡がり弾けた。
室内であるはずなのに、吹き荒ぶ風が瀰漫しガラスは揺れ割れ。
頑丈な扉さえも音を鳴らし揺れ動き、遂には凹み上げる。
壁と言う壁が軋む音を立て。
モノと言うモノが飛び交い激突しへしゃげ曲がった。
子供用といえ、綺麗だった道場が見る影も無くなる。
特に、道場の中心だった場所。そこが一番ひどい
木製の床はべコリと潰れ、それ処か地が抉られたかのような大穴が一つ。
その穴の中心で、黒い2つが存在していた。
赤い瞳の女が、満足げに笑みを湛え、黒い眼の少年を見定める。
――アドニスの攻撃は、彼女の頬を掠る事も無かった。
頬処か髪の毛一本、落とす事も無かっただろう。
だって、当たり前。
振り下ろされた黒い脚は、その頭上で白い細腕に受け止められたのだから。
捕まれた脚は、もうピクリとも動かない。
黒い子供が、眉を顰め心から悔しげな表情を一つ浮かべる。
彼にからすれば全てを乗り越えた、女を殺す一発だったのに。
ソレを女には、こうも簡単に受け止められた。
悔しいと、憎たらしいと、顔を顰めるのは、少年だけの特権だ。
唯一、笑い返す事を赦される人物は一人。
彼を真正面から受け止めた彼女は、口元を吊り上げ、彼を見上げる。
彼の攻撃は彼女には当たらなかった。
でも、シーアにはソレで十二分。
笑みを讃えながら、シーアは口を開く。
「――前言撤回しよう。君は確かに『限界』を越えた、正に『怪物』だ」
心の底からの賛美を少年へと送ろう。
今、アドニスは紛れもなく《「恐怖」》を克服したのだ。




