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39話『無色』1

 


 シーアと言う女は、出会った時から感情()がない女だった。


 人はからかう。小馬鹿にする。

 笑って。怒って。膨れ面になって。

 我儘だって平気で口にして、ニタリと張り付ける。


 ――だが、気が付いていた。

 それらは全て、唯の演技であると。


 笑ったふりをして、怒ったふりをして、膨れ面を作って。

 興味が無いから適当な我儘を言って、強制的に物事を終わらせて。

 最後はニタリと男が好まなさそうな笑みを浮かべるのだ。


 この事実は出会って数日のうち。

 鍛錬が始まった頃から知っていた。気が付いていたさ。



 だって、そうだろう。

 人前でコロコロ性格口調を変える存在(人間)が何処にいる。


 ドウジマの前では幼子を。リリスの前では古風を。アーサーの前では知的を。マリオの前では甘さを。

 そして、アドニスの前では掴み処の無い女を。


 人に合わせるかのように、彼女は全てを変えていく。

 其々の前で様々な自分を()()()()()()()


 最初は遊んでいると思い苛立ったが、違う。

 シーアは至って真面目だ。真面目に人と接している。真面目に態々性格を一つ一つ変えていく。

 唯息をするように、当たり前の様に性格を作り変えて日々を過ごす。

 仕方が無さそうに、しぶしぶと言ったように


 そんな彼女にも、誰に対しても唯一変わらないモノが2つある。

 それが【瞳】。赤い瞳。

 彼女はどんなに性格を変えようとも、その赤い瞳に感情()を一切露わにもしない。


 艶やかな女を演じても、幼い子供を演じても、威厳ある女を演じても。

 どれだけ表情を変えようとも、その瞳だけは一切色の色を浮かべることは無い。


 興味の無い瞳。感情が無い瞳。――ちがう、もっとひどい。

 なんだってかまわない。彼女には人への感情が無い。


 そして、2つめに、表情。

 瞳と同じ。彼女が浮かべる顔は全て偽物。

 本物そっくりに作っているが。内心、何を考えているか。理解処か探る事すら出来ない。


 瞳も顔も、本当の彼女は一度も、誰も見たことは無い。


 何故彼女が人前で性格を変えるのか、それは分からない。問いただしたことが無いから分からない。

 実は()()なんてモノは存在していないのかもしれない。

 それでも、その事実を隠す様にコロコロ性格を変えて、人のフリをする彼女の姿は。

 実に酷く気持ち悪くて。同時に腹立たしい。



 ――だってそうだろう。



 どう取り繕うとも。【神】と名乗ったこの化け物は。

 アドニスも含めた全ての人間に、一切の()()()()()のは事実なのだから――。


 そう、彼は心の中で確信していた。



 だから、今日の一連はその確信を粉々に壊されたと言っても良い。

 猫一匹で、心の底から困惑を浮かべたかの彼女。アドニスの発言で驚愕を浮かべた彼女。

 彼女が見せたその表情()は、見間違うことも無く、初めて見せた彼女本来の色だ。


 そして今も同じ。

 流石に瞳の色までは変わらない、ただ表情。

 演じてばかりの顔色に彼女は初めて。



 心の底から吐き気を催す様な表情を、彼女は浮かべさせたのだから――。


 ◇


 『孤児院』の運動場。

 もう誰も居ない夕日の差し込む、この【神の空間】にアドニスとシーアは戻って来た。


 小さな窓からオレンジ色の光が差し込み、床を照らし上げ。美しくも物悲しい叙景を造り出す。

 もう電気を付けなくては暗すぎるその中心に、シーアは無言で歩み寄ると静かに佇んだ。

 オレンジ色の中心で存在感を露わにする真っ黒な影。今も、此処に来る間も、彼女は一切何も口にしない。


 ふわり。

 長い沈黙の後、シーアがスカートをなびかせて振り返った。

 口元に裂けんばかりの笑みを湛え、彼女の赤い瞳には入口の前に立つアドニスの姿が映る。



「……じゃ、始めようか」



 そのまま、何か気の利いた言葉を掛ける訳でもない。

 彼女の口から紡がれるのは、早々に鍛錬開始の合図。


 赤い瞳。赤い瞳。一切色のない真っ赤な血のような瞳。

 綺麗に整った顔だっていつもと変わらない。


 だが、その笑みは何時もと違う。

「ニタリ」と笑うのがいつのも笑みなら、今の笑みは正に口裂け女だ。

 更に口調も何時もと違う。掴み処の無い性格じゃない、例えようがない唯恐ろしさが交える低い響き。

 その漂わせる雰囲気は背筋に寒気が走り、冷や汗が止まらず一瞬も気が抜けない。


 だが、彼女は決して怒っているという訳で無いのだ。

 其処までの感情は露わにしていない。


 ただ彼女は今。只管に心の底からアドニスを、まるで何か人ではない。

 得体がしれないようなモノを見る瞳で見据えている。

 だのに、その瞳には一切色が無いのだから、尚更恐ろしい。


 冷たい静寂に包まれ、悍ましいほどに圧に押しつぶされかけ、アドニスは生唾を飲み込んだ。


「――何か、気に障る事でもしたか?」


 思わず、その言葉が紡がれる。

 その問いに夕暮れの中心でシーアは無言。

 張り付いた笑みを無表情に変えて、無言のままにアドニスを目に映す。

 僅かな間、彼女は小さく「くすり」と笑みを一つ。



「したよ」

「――!」



 ――肯定。

 赤い瞳が細り、眉が僅かに顰められる。

 彼女の言葉は本音だ。

 アドニスは何か彼女の逆鱗に触れる事をしてしまった。これは確定した事実。


 だが、何を此処まで彼女を(たぎ)らせたか。アドニスは見当もつかない。

 険しく顔を顰め、一度目を閉じると再度彼女を見据える。


「…………っ」

 だが、声は出なかった。

 今のシーアを前にすると、出かけた言葉は全て喉に詰まり、発せないまま消えてゆく。

 震える手をきつく握りしめて、大きく息を付く。


「何をそんなに迷っているのさ、少年」

 シーアが問う。


「鍛錬したかったんでしょう?お望み通りじゃないか」

 首を傾げて、何を迷うのだと言わんばかりに。


 嗚呼。だったらその顔を、その表情をどうにかして欲しい。

 いま彼女が行おうとしている行動はもう「鍛錬」なんてモノじゃないだろう。

 一方的に此方を叩きのめす、腹いせの「暴力」だ。


「――失敬だな」

「!」

「私は其処まで非道じゃないつもりだが?」


 まるで。嫌。完全に此方の心を読む言葉を彼女は口ずさむ。

 命令違反だ。アドニスはシーアを睨み上げた。


「命令違反?そうだね。――馬鹿かお前。前々から思っていたが、弱者が強者に何を高望みしている」


 ――その言の葉を彼女は当たり前に遮る。

 正論にもとれる暴論。もう一度口を開けるが、やはり声が出ない。

 仕方が無い。言い返す術はアドニスには無い。

 いや、言い返せる手段が彼には無いのだ。何を言えばいいのかアドニスには分からない。


「……本当に、無自覚なのが更に質が悪い」


 その様子にシーアは更に表情を歪ませた。

 それでもやはり彼女の表情の違いと言うモノは、本当に僅かな一瞬で。

 刹那に何時もの掴み処の無い顔となり、やれやれと彼女は首を振るのだが。それも表だけ。

 内心は先程より恐ろしい物になったに違いない。

 続けざまに「にたり」、彼女は笑う。


「おいおい、なんて目をしているんだ。別に殺す気なんて微塵もないさ。ちょっとばかし本気を出すだけさ。んー、そうだね。一週間前よりちょっと強いぐらいかな?」

「――っ」


 さらりと恐ろしい事を口にしてくれるものだ。

 一週間前に、ちょっとばかしの本気で、否。

「ちょっとばかし」の本気も出さないうちに、アドニスを殺しかけたと言うのに。


 彼女との鍛錬を始めたが、アドニスはまだ「一週間前」の彼女に対抗できるまで成長出来ていない。

 だから敵うはず。嫌、勝つ処か、僅かな攻撃を入れるイメージも全くわかない。


 先程シーアは言った。アドニスが望んでいた事だと。

 違う。間違いだ。――こんなもの、自分が望んでいる「鍛錬」(モノ)じゃない。



「――それ、それなんだよねぇ」


 呆れた声色が響く。

 細い指が顎をしゃくり、訝しげに片眉が下がる。

 彼女の身体はふわりと宙に浮き、赤い瞳が冷たく此方を見下ろした。


「忠告したのに。たった数時間で無自覚で此処まで来ると、本当にどうしようもないよ」


 か細い身体が水を泳ぐ魚の様に舞い飛び、アドニスの前へ。

 白い小さな手が彼の頬に触れ、赤い瞳が彼の姿を映し撮った。


「な、んのことだ」

 漸く漏れた声が出て、何とか問う。

 その僅かな問いだけで、シーアの顔はアドニスを小馬鹿にするような物へと変貌し、白い手はアドニスの頬から離れる。


「いいや」

 小馬鹿にしたまま、吊り上がる口元。


「知らなくていいさ。もう、面倒だ。壊させてもらう」

「……は?」


 言葉の意味が分からず声を漏らす。

 小馬鹿にした表情が無くなり、今度は呆れかえった表情が一瞬浮かび。消える。


「こっちから行くってこと」


 言葉と同時に、彼女の手が降り上げられた。


 ――殴られる。アドニスの身体は自然と動く。

 構えた手は身体を守り、人を簡単に殺す一撃を受けるため、少しでも衝撃を和らげようと身を丸め。

 その顔は恐怖に染まり切り、怯え切った目がシーアを映す。


 ため息が一つ。


「――だから、何怖がってんの?」


 そんな子供を、女は酷く冷たい目で見降ろし。

 容赦もなく。その頬にめがけて張り手を振り下ろすのである。




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