第九話
いつも何事も、ひとつの問題もなく順調に進むことはない。たとえば佐藤色音が、クマという仮の姿に身を隠し続けられなかったように、なんでもないような気の緩みから事実はこぼれ落ちる。
たとえばいま俺が、乙葉つむぎの攻略についてクマと話しているところを、乙葉の友人である七瀬玲奈に聞かれてしまったように。
「それで高橋先輩、いまつむぎのことを話してたみたいですけど、『攻略』とか『デレ』とか、言ってましたよね。どういうことですか?」
ゴミ捨て場の横の花壇に俺は腰掛けてクマと電話していた。ここなら昼食時間、まったくひと気がないからだ。いつもの校内巡回ルートであり、滅多に人の来ない場所。だから、放課後に乙葉にどう働きかけるかを、弁当を食べながらクマと話していたのだ。
そんな場所に人がいて、そしてクマと会話する俺の話を聞いていて、加えて、それが乙葉の一番の友人の七瀬玲奈だった。七瀬は俺からは死角になって見えない校舎の角の裏にいた。これが、どれほどの不運か。
目の前には立ってこちらを見下ろす七瀬。俺はクマとラインでやりとりしていたスマートフォンの電源を落としてポケットにしまう。そして、
「……え?」
とぼけることにした。
七瀬は手にしていたスマートフォンをこちらに向け、動画を再生する。
『……てカウントできねぇよ。だからまだ続行。……急かすな。絶対失敗するだろそれ。……なんで拗ねてんの。レースかよ。そんなんより乙葉の攻略優先した方がいいに決まってるだろ。デレだよデレ! 最終的な』
弁当を食べながら花壇に座って電話している姿の俺を、数メートル先から撮影した動画だった。建物の角からスマホのレンズだけを覗かせて撮影したのだろう。
「ちゃんと動画撮ってます。知らんぷりは無理です」
「ゔ〜〜〜〜〜〜」
七瀬の顔から視線を逸らさず、頭の中に散らばる言葉と思考を片っ端から探る。
「あれだ、デレステの話してたんだよ。なんか、ゲームの」
「知らないですけど」
正直俺も知らない。入華がやっているのでおそらくオタク向けのゲームなのだろう。乙葉や七瀬がその類のゲームをやるようには思えない。
「なんかそのー……リズムゲーム? それの攻略の話」
「そのゲーム、つむぎとなんの関係があるんですか?」
「え〜っと……」
無理だ。
冷や汗が出てきた。これが乙葉に伝われば乙葉の攻略は断念せざるをえないし、それだけで済む保証がない。女子のコミュニティでこの話が流れれば、ヒロインたちの攻略どころか学校生活にまで多大な影響が出る。
どうにか言葉を繋げて現実味のあるエピソードを仕立て上げたいが、他人を納得させられる文章が浮かばない。考える時間を与えられても誤魔化しきれない内容だ。袋小路で渦巻く焦燥が脳にストレスを生む。
「高橋先輩、どう言い訳しても私は納得しません。本当のこと話してください。これ以上誤魔化すんだったらこの動画そのままつむぎに送ります」
俺はすべてを話した。
「はぁぁああ………………なるほど……?」
いまに至るまでのすべてを聞いて七瀬の第一声がそれだった。
「んー……あぁ……それなら色々と辻褄が合うというか、納得いくというか……だからか……」
「だろ?」
「いや、だろ? じゃないんですけど……。高橋先輩自分の状況わかってますか?」
俺のいまの状況は狙っていた女の子の友人に「バレるとまずい悪事」がぜんぶバレた、ってところだろう。
「だからまぁ乙葉に黙っててほしいんだよ」
「ふつうはこんな訳の分からないことに巻き込まれてたらすぐに伝えますよ?」
「あいつふつうじゃないじゃん……」
「そうですけど……私はふつうなので」
ここにクマさえ居ればうまく話を誘導できたかもしれないが、生憎俺しか居ない。俺にできることといえば相手に頼み込むくらいだ。
「頼む! この通り!」
「あの……、花壇に腰掛けたまんまお弁当食べてこの通り! とか言われてもどの通りだよって感じなんですよね。もっとあるじゃないですか、頼み方って」
「え、土下座要求してんのお前?」
「違います! 座りっぱなしで手にお箸持って声だけ真剣って正しいお願いの仕方じゃないでしょ!」
「だっていま弁当食べてるし……」
「だから……はぁ……いいです。高橋先輩みたいな人に正論言ったって仕方ないですからね。さすがに私もつむぎといたらわかります」
「なんだ俺と乙葉が同類みたいな……。あいつの方がだいぶおかしいからな?」
「つむぎも同じこと言いますよ絶対」
考えを整理しているのか、しばし黙り込む七瀬。しゃべりながらでは食べるのに集中できないので、ちょうど箸を進められる時間を得た。俺はその隙に弁当を食べ進める。
質問なんですけど、と思案の底から浮かび上がった七瀬が俺に問いかけてくる。
「高橋先輩の最終的なビジョンってどんなものですか? それと現在までの、そのビジョンを達成するために取り組んできたことは?」
「え、面接?」
「違います。それで、どんなものですか? 高橋先輩の言う『ヒロイン』と付き合うことがゴールなんですか?」
「いや。デレさせたいだけだな」
「んー……ようはモテモテになりたい?」
「モテたいわけじゃないな。現状ヒロインだらけの中で誰もデレないのはどう考えてもおかしいから、この間違った状態を正したいだけ」
「正し、正したい……? そうですか……。なにか理想があって、そこに向かってゼロから構築していくんじゃなくて、高橋先輩は現状にある不満を改善するための改革がしたいわけですね」
「これ面接?」
「違います。……なんだっけ……いわゆるハーレムを目指しているわけじゃないんですね?」
「そうだな」
「それじゃこれまでの取り組みを教えてください」
「あいつの無くし物探した時にライン交換して、夏月との……幼馴染との関係修復の依頼を口実に出かけたりしてるな。最近は一緒にカフェ行って、なんだかんだ部屋に上がらせてもらったかな」
七瀬はなるほど……と、俯く。こいつはなんなんだ。
「実績はどうでしょうか? つむぎ以外の、その……ヒロイン? への取り組みっていうのは」
「乙葉が一人目だよ」
「え、そうなんですが? てっきり……ああ、いや、いいです」
「他のやつらはちょっと……だいぶアレで。乙葉が一番まともだったから。消去法で」
「つむぎが一番まとも……? そうですか……。そういえば高橋先輩って付き合ってる人いるんですか?」
「いない」
さっきから質問がやけに具体的だ。彼女の目的はなんなのだろう。
「よかった。これで彼女が居たら本当に最悪でした。いまでも最悪ですけど。ありがとうございます。これで面接終わりです。それじゃあ高橋先輩」
彼女は俺を正面に捉え、改まってこう言った。
「私が協力します。乙葉つむぎの攻略」
「……え?」
七瀬玲奈が、いまだ弁当をもぐもぐしている俺をまっすぐ見下ろす。
「これだけ心強い協力者はほかにいないですよ」
・乙葉つむぎが一番好きな異性の体の部位は鎖骨。
・そして一番されたいシチュエーションは頭を撫でられること。
「攻略本じゃん。こんなすぐ答えわかっちゃうのかよ」
俺と七瀬は下校直後、家庭科の調理実習室に居た。
「『七瀬玲奈』の名前は伊達じゃないってことですよ」
「その名前の伊達じゃない要素どこ?」
カチチチチ、と七瀬がコンロをつける音。なにか調理をするわけでもなく、火になにかを当てているようだった。俺は椅子に座り向かいで作業する七瀬を見ていた。
「なにしてんの?」
「つむぎに鎖骨を見せる建前をつくってます」
「というと?」
「これでいまから高橋先輩の肩を刺します」
七瀬が火を止め、ティッシュ越しに摘んだ針を見せてきた。
「そして『なんか痒いなぁ、蚊に刺されたかも。見てくんね?』って言って肩を露出させてつむぎに鎖骨を見せつけてください。この針は熱で消毒したので問題ないです」
「お前頭いかれてんのか? 殺菌すれば諸問題なくなると思うな。人に針刺す行為の中で一番些細なことだからな、殺菌って」
「他にいい方法があるんですか? 実際に蚊を捕まえて肩を刺させるなんて無理ですよ」
「……そうだな、キスマーク、とか。蚊に噛まれた跡に似てるって聞くじゃん」
「……そうなんですか? 実際のは見たことないですけど。それどうやって肩につけるんですか?」
「え? なんでわかんないの?」
「………………は?」
ワイシャツのボタンを外して行き、襟に指を引っ掛けて肌着ごと引っ張り、肩口を露出させる。
「ちょ、ちょっと……」
動揺をみせる七瀬をよそに顎を思いっきり引き、肩にある鎖骨の付け根あたりに口をつけ、吸引する。ジュパァッ! と音を鳴らして唇を離した。
「ほら、肩なんて余裕で口届くから」
「……いや、ごめんなさい。私が一瞬勝手に変なこと考えました。それでいいと思います」
「思い上がるなよ七瀬。ヒロインでもないやつにイベントなんてあると思うな」
「真顔でそれ言うのやめてください。本当に怖い。とりあえずこれからつむぎと合流するので、校門に着く前に肩見せて頭撫でる短期決戦でお願いします」
「短期すぎるだろ。乙葉はいまなにしてんだよ」
「スマホ失くして探してます」
「また⁉︎」
「昔からよく物失くすから……つむぎ」
「まぁそんな感じするよな。でもいつ見つかるかわかんねぇだろ……」
「スマホならここにあります」
乙葉が家庭科教室特有の大きいテーブルの下の荷物入れから可愛らしいカバーのスマートフォンを取り出した。七瀬がここに仕掛けたわけでもなさそうなので、見当がついていたのだろう。
「……じゃあどっかでスマホ探してる乙葉見つけて帰るか」
俺と七瀬は家庭科教室を後にした。何人かに聞き込みをするとすぐに乙葉の居場所がわかったので、校舎の裏手に来た。乙葉は絶対にスマホなんて落ちてなさそうな溝を念入りに見ていた。
「つむぎ、前から言ってるけど自分の行動範囲以外に持ち物は落ちないから」
「あ、玲奈! と高橋!」
すたたたーと駆け寄ってくる乙葉に七瀬がスマートフォンを渡した。
「ありがと〜! 感謝!」
乙葉が満面の笑みを七瀬に向けた。これはまた探し物を見つけてやりたくなるような良い笑顔だった。これほど愛嬌のある子なら、七瀬が「もうっ! しょうがないなぁ」というふうに乙葉に付き合い続けるのも納得できる。
「あ〜〜〜〜かゆ〜〜〜〜!」
俺はワイシャツの肩のあたりを爪を立てずにかしゃかしゃと掻く。七瀬が「早い早い早い」と小声で言うがもう乙葉の注意を引いてしまっている。俺は自分で皮膚を吸引した時のようにワイシャツのボタンを外し肌着ごとぐいっと引っ張って患部を探す。ふりをして鎖骨を露出。乙葉の様子を伺うと彼女は食い入るように俺の首元を見ていた。
「なぁ乙葉、ここら辺蚊に噛まれてねぇか? すげぇ痒いんだよ」
「………………えっ、あ! あ〜……」
乙葉は視線を外さずおぼろげな返事を返す。
「おい」
「あ! うん! ちょっと赤くなってるからもしかしたら虫に噛まれちゃってるかも!」
「そうか。どうりで……」
そう言いながら服を正すと乙葉はあからさまに名残惜しそうに顔を歪めた。あまりにもわかりやすい。七瀬に「どうだ?」と目をやると、七瀬は無言で自分の頭をなでるジェスチャーをした。なでろと言うことだろう。いや早すぎるだろう。畳みかけすぎだ。別にいいか。
「乙葉頭にゴミついてるぞ」
「え⁉︎ どこ、どこ」
乙葉は犬みたいにぶるるっと短い髪を振る。
「え、取れた?」
自身の頭をぱたぱた叩きなが訊ねる乙葉。すかさず俺は背の低めの乙葉の頭に手を伸ばして、軽く三度なでた。普段のはちゃめちゃな行動言動とは裏腹にしっかりと手入れのされた紙はサラサラで、非常に触り心地が良かった。
乙葉は目を点にして顔を真っ赤、体がガチガチに硬直してしまった。もうすこしなでられそうなので、さらに二十回なでた。七瀬がちょっと! と小声で制止しなければまだなでていたかもしれない。
「なかなかゴミ取れねえと思ったら視界に浮いてる糸くずみたいなやつだったわ、ごめん。ゴミは俺の方だったみたいだ」
「……高橋先輩それ飛蚊症ですよ」
睨みつけながら俺の誤魔化しに乗る七瀬。
「いや飛蚊症ではない。断言できる」
「じゃあなにが見えてたんですか」
「俺自身、なのかもしれない。俺ゴミだから」
「…………そうですか。ちょうどそこにゴミ捨て場があるのでさっさとあっちに行ってください」
よし。これでうまく言い訳ができただろう。いまの理屈で納得できただろうかと乙葉を見るとさっき見たときとまったく同じ状態だった。
「つむぎ」
七瀬が肩を揺するとすぐ、乙葉はハッと正気を取り戻した。
「あ、ご、ごめんごめん! ちょっとわたしが何者なのか、なにを成したいのかどうすれば社会貢献できるのか、考えてた! へへ……」
顔を赤くしたまま視線を足元で泳がせる乙葉。効いてる効いてるw
それから三人で校門へ向かう。道中の短い時間に二回、「こんどはマジで髪にゴミがついている!」とうそぶき頭をなでると、乙葉はまったく同じ反応を見せた。七瀬がやりすぎですよという強い念の篭った形相で訴えかけてくるので、それ以上はやらなかった。
「じゃ、俺こっちだから。じゃあな」
校門を出てすぐのところで別れの挨拶のためすこし立ち止まる。
「それじゃ」
七瀬がすぐに答え、乙葉が続く。
「……あ、う……うん……じゃ…………」
いまだ動揺を引きずっているようで声量がいつもの五分の一ほどしかなかった。心なしか身長も数センチ縮んで見える。体重も軽くなったのではないだろうか?
七瀬がちっちゃくなった乙葉を連れ歩き出す。そして振り返って俺にだけわかるように親指を立てた。俺もサムズアップを返し、帰路についた。
帰宅。
「ただいま」
リビングの床に座ってスマートフォンを眺める入華と、ソファの上からじーっと入華の方を見ているクマがいる。
「んー」
「お帰りなさいお兄さん」
入華に「お兄ちゃんお帰りなさいだろ」と説教をしてやりたいところだが、クマが近しい言葉を言ったおかげで溜飲が下がる。俺がリュックを置き床に座ろうとしたところでクマが話しかけてきた。
「今日は放課後校内をうろうろしてましたね。補講だったり居残りだったりはなかったですよね? ラインで誰かと会う約束もしてなかったですし、なにかあったんですか? いつとならすぐ連絡してくれるので言いづらいことなら言っていただかなくてかまいませんが」
「なんだお前俺のストーカーか? なんでぜんぶ把握してんだよ」
「クマきもいよ」
俺と入華に連続攻撃をされたクマはあわあわと弁解を始めた。
「な、なんですか、ただお兄さんになにかあったのかなって気になっただけじゃないですか! それに僕は入華ちゃんのストーカーなので。お兄さんなんて眼中にないので! 思い上がらないでくださいよ!」
「ああ、すまん言い忘れてたわ」
「なんですか!」
感情が昂ったままのクマがそのままの勢いで問いただしてくる。入華も俺の話が気になるようでスマをから視線を上げた。
「七瀬玲奈にバレた」
『なにが?』
クマと入華の声が綺麗に重なる。
「ヒロインとかデレとかいうのぜんぶ」
『ええっ⁉︎』
身を乗り出したふたりに順を追って説明する。
クマと電話しているところを目撃され、かつ証拠を押さえられていたので言い逃れできず白状。七瀬の助言に従い乙葉へアプローチをかけると結果は上々だった。
「って感じ」
「はぁ……そうですか……」
「ふーん……」
クマも入華もあからさまにテンションが下がっていた。せっかく乙葉の攻略が一気に進んだというのに、なぜ。
「あの、七瀬さんがお兄さんと僕の通話しているところに居合わせたのって偶然なんでしょうか? 僕がお兄さんに見つかったときは本当に運が悪かっただけですけど……」
「いやあとで聞いたら最初から疑ってたらしい。捨て犬作戦のあれ乙葉から聞いてたから注意してたって」
「…………………………いや、まぁそうですよね……」
「あれされておかしく思わない乙葉さん相当おかしいけど……」
あの件に関してはきちんとラインで弁明をしたのでそのおかげだろう。妹の当たりが強くて家出をしたが、俺のいない家は耐え難いと妹が俺を連れ戻した感動のやつだと話したのだ。乙葉はすぐに信じていた。
「ま、とりあえず、これで乙葉攻略に王手だな!」
「まぁ…………」
「んー…………」
「なんか今日ノリ悪くないか?」
そんな、なんともいえない雰囲気の悪さを拭えないままその日を終えた。
「定番も定番! 幼馴染に看病してもらう作戦〜!」
土曜、乙葉がうちに来た。入華は当たり前のように逃げたのだが、クマは招集しても来なかった。クマもなんだかんだ女子高生なので、友達付き合いなど色々都合があるだろう。俺を優先しろ。
「仮病ってことか」
「いやいや高橋はバカだな〜。夏月さんの性格だと仮病ってバレた時どうなるかわかんないじゃん!」
「…………よくわかってるな」
あのきつい視線で「ぜんぜん風邪ひいてないじゃん」と言われる場面を想像して身震いした。
「はい、これうちからタライ持ってきました!」
乙葉が小さめのプラスチック素材の青いタライを顔の横に掲げる。
「え? それが?」
「えへへ! わたしの天才的発想に驚愕するがいい!」
乙葉がにこっと無邪気に笑った。
そして三十分後。
「死ぬ……死ぬ……」
リビングのど真ん中でびしょ濡れになった俺はタライの中に立ち、クーラーガンガンの中、延々乙葉に霧吹きで水をかけられていた。
「乙葉……もういいだろ……。寒い……これ完全にもう風邪ひいてるよ……だって震え止まらないもん」
体の隅から隅までを刺すような冷たさが襲う。ずっと歯がガチガチと鳴って止まない。
「まぁまぁ! バカは風邪ひかないって言うし念入りにやらないとね!」
結果を言えば俺はまったく風邪をひかなかったし、乙葉の方が風邪をひいて学校を休んでしまった。そんなわけで夏月にラインを聞くいい機会などにはならなかった。