第八話
さようなら全ての改行
今日一緒に帰らない!?
と、乙葉つむぎからラインがあったので、俺は中庭にあるベンチに座り乙葉を待っていた。遠目から生徒指導の教師がこちらの様子を窺っている。俺がまた何かするのではないかと気にしているのだろうが、残念なことに今日はただ人を待っているだけだ。
しばらくして乙葉が駆け寄ってきた。
「あ! 高橋!」
「よう」
「高橋と歩いてるところ見られたくないから先行ってるね! 向こうのバス停の先の歩道橋あたりで合流しよ!」
「元気な声で失礼なこと言うなよ」
「じゃ!」
「いやいやいや」
スタタと校門へと駆けていく乙葉。自分から一緒に帰るよう連絡を入れたというのに。それに合流場所がバス停ではないところもまた恐ろしい。なぜならバス停そのものを待ち合わせ場所にしてしまうとバス通学の学生たちに俺たちの存在を捕捉されてしまうからだ。俺と歩いているところを見られたくないという意思が強く感じられた。
「ヤベー女だよほんとに……」
一分ほど経ってから乙葉の後を追った。人目につきづらい場所にポツンと立つ乙葉。なんでもない風景だが、顔貌の造形に優れた彼女が立つと物語性が生まれ、周辺の情報量が跳ね上がる。だから自然と視線が引き寄せられる。黙っていれば可愛いのだ。
「行くぞ」
「あ! うん!」
どこに向かっているのかわからないが、おそらくは乙葉の自宅だろう。俺の家とはまったくの逆方向だった。俺からすれば乙葉を送り届けた末に帰路につくことになるので、一緒に帰るという日本語の意味が問われる。
「高橋はあの後夏月さんとどんなラインしたの?」
「ライン? してないよ」
「してない⁉︎ 普通遊びに行った後なにかしらない⁉︎」
「ないんだよなそれが。そもそもあいつのライン持ってないし」
夏月とは昔から家が近いため会おうと思えばいつでも会えたし、連絡も電話で事足りていた。ラインでやりとりする機会も必要もない。
「え? 幼馴染なのにそんなに独特な状態なんだ!」
「いや独特かどうかは知らねぇけど……」
「やっぱりここはさ、関係性の第一歩! ライン交換すべきだと思うんだよ!」
「どうだろうなぁ……」
小学校時代からの幼なじみなのにその段階から始めるのか、という疑問が生まれる。
「自分から関わり方を変えなきゃ相手との関係は変わんないんだから!」
「たしかに……」
乙葉は普段声がデカくてバカなだけだが、たまに確信を突くルフィのように見える。俺だけ常時間抜けな状態のルフィなのはどうしてなのだろう。たまには確信を突きたい。
「あとひとつやりたいことがあるんだ」
「なんだ」
「わたしたちが一緒に歩いてるところを見せる!」
「前に一緒にいられるところ見られるとまずいって言ってたじゃねぇかよ。支離……支離め……なんとかすぎるだろ」
「なんでそんな簡単な熟語もわかんないの高橋」
と、鼻で笑う乙葉。
「意味滅裂、ね。高校生なんだからこのくらいは覚えようよ」
「たぶんそれ違うな」
「高橋の方が頭悪いんだからそんな突っかかってこないでよ! 前はああ言ったんだけどちゃんと理由はあるよ。やっぱり下手に刺激しちゃうと関係が悪くなるから、最初は影響を与えないに越したことないじゃん」
「だな」
なんか今日のこいつ賢くね?
「前の高橋と夏月さんの関係を見た上で刺激してもいいラインは大まかに把握できたから大丈夫」
「わかった……。それでプランは?」
「説明するからちゃんと覚えてね。まず、久しぶりに高橋と遊んで夏月さんは関係が動き始めたのを感じる。次に高橋からラインを交換しようと言われて関係が深まりそうな予感を持たせる。やりとりをはじめて高橋とのコミュニケーションが生活の一部になる。そこに高橋と同じ学校の制服のめちゃくちゃ可愛い私が高橋とふたりでいる様子を見せて、高橋に女の影がある緊張感を持たせる。それからも普段通りのコミュニケーションを続けるけど夏月さんはすこしだけ不審を抱えてる。そこで二度目、私といるところを見せて、不安を確定させる。ラインだったり日常のやり取りで発露するレベルの不安が見られたら、実は夏月さんのためになにかプレゼントしたくて妹の友達に協力してもらってたって伝えてプレゼントを渡す。できれば誕プレがいいんだけどね。それで夏月さんはモヤモヤが晴れるのと同時にホッとしている自分を自覚するはず。……プランとしてはこんな感じだけど、どう?」
「誰⁉︎」
こいつ本当に乙葉つむぎか? 乙葉がふいに覗かせた聡明さに狼狽える。
「俺が頼んだのはただの夏月との関係修復だぞ。恋愛によりすぎじゃないかそれ」
「あ……! あああぁぁぁ…………」
クク……。俺の勝ち。
「たしかに〜! 視野が狭くなってたよ……!」
「お前他人のことバカにしておいて全然ダメじゃん。ぷぷっ」
「高橋はほんとにダメダメだね! そうやって人が考えたものにケチつけるのはバカだってできるし、むしろ自分じゃなにも生み出せないからケチしかつけないんだよ! バカは! 残念だね!」
「ビックマム並みに生み出しまくってるけど俺は」
「うるさーい!」
お互いを下に見ていても同じ水準で言い争えるということはどちらも同じ高さにいるのだ。いや、高さではなく低さと呼ぶ方が正しいか。
そうこうしているうちに、表の大通りから一本入った住宅街というには店が多い道を歩いていた。俺の知らない道だった。ここどこ?
「あ! あれあれ!」
「あのカフェ?」
「そう!」
乙葉が指した方にはレトロな看板を下げたカフェがあった。レトロといっても塗装は綺麗で、窓枠であったり外から見えるインテリア類は古臭いデザインだがどれも真新しかった。
「お前カフェ嫌いって言ってただろ」
「他人がやってると癪だけど自分はいいの! それにちゃんと目的があってきたし! 自分に酔ってるほかの人たちとは違うの!」
「……潔くていいと思う、逆に」
ろくでもない女に連れ添って店に入る。木とコーヒーの香りが満ちていて、やや暗めの店内をオレンジの電灯が照らしている。俺にはこういうのがいいのか悪いのかわからないが、多分世間一般ではいい雰囲気と呼ぶのだろう。店内にはうちの学校の生徒もちらほら見られ、他の学校の生徒もいる。注文は乙葉に任せた。
「奢る気ないからお釣り返せよ」
と言って注文を終えた乙葉に三千円渡す。
「ケチ! バカ! 高橋!」
「高橋で悪かったな!」
「ケチとバカはいいの……?」
俺は小ぶりのトレーにドリンクとワッフルとを乗せ、ふたりで席についた。乙葉の方はドリンクの他ゴテゴテしたパンケーキを頼んだようだ。
「あのさ、なんで俺カフェに連れてこられてんの?」
「えっ……言ってない?」
「言ってねぇよ」
一緒に帰ろうと言われ気づけばぬるっとカフェに連れ込まれていた。なぜ一緒に帰ることになったのかも聞いていないし、カフェに入った理由も聞いていない。
「あ! ごめんごめん。夏月さんと次にデートする場所の下見みだよ! 夏月さんの高校ってうちの高校から近いし一緒に来れるでしょ?」
「そうだな」
俺の分のドリンクをちゅっと吸った。コーラかと思っていたらブラックコーヒーでぶえっ! となった。
「それに『放課後予定がずれるかもしれないから』って言って連絡のためってことでライン聞けるし。実際学校終わりに合流ってなるとこまめに連絡取らなきゃだからね」
「待て乙葉。お前これブラックコーヒーじゃん! しかもでかいサイズだし……。こんなまずいもん大量に飲めるわけないだろ」
「ええっ⁉︎ 男の子ってコーヒー好きでたくさん飲むんじゃないの⁉︎」
「格好つけてるやつと舌がバカなやつしか飲まねぇよ」
人間はおいしいと感じるものと、体に必要なものを欲するようにできているのだ。まずい上に身体機能に不要なコーヒーを好んで飲む者は人間ではないと言っても過言ではない。
「あとあと、すごく可愛い店員さんいるらしいよ! 夏月さんと来る時はその子の方を気にして夏月さんのことイラつかせてね!」
「小学生向けゲームの指示みたいな口調で意図のわからないこと言わないでくれ。それにそんな子居たか?」
「まぁ〜……さっきのレジの子ではないだろうね!」
こいつ……。
乙葉にジトっとした目を向けるが当の本人は「あはは」という顔をして気にしていない様子。女子のコミュニティで今のような発言をすればすぐに孤立してしまいそうだが、彼女はうまくやっているのだろうか。乙葉の友人を七瀬玲奈くらいしか知らないので、実情がまるでわからない。俺の不安をよそに乙葉は言葉を続ける。
「ただ雰囲気を悪くするのが目的じゃないよ。前フリなんだよ! 高橋が他の女の子に気を取られているのを目の前で見てモヤモヤするでしょ? それで店を出てすぐに『やっぱあの店員よりお前の方が可愛いな』って言うの! どう⁉︎」
「さっきも言ったけど関係を修復するにしては内容が恋愛に寄りすぎなんだよ、お前の」
「あ……あぁ…………」
とはいえ。それが絶対にダメかと言えばそうでもない。夏月もヒロインなのだから乙葉のついでにちょろっと攻略を進めても良いのだ。ただし、二兎を追う者は一兎をも得ず。乙葉が先決であることを忘れないようにしなければならない。
「でもありっちゃありだ。やってみる価値はあると思う。気になるのはその可愛いって噂の店員のシフトだな。居なきゃ意味ないだろ?」
「その時はわたしか佐藤さんに頼んで! たぶんその店員さんよりわたしと佐藤さんの方が可愛いだろうし、ふたりの近くに座って店員さんの代わりになる!」
「なるほど。よく自分で言えたもんだなって感じだけど、たしかにお前くらい可愛いやつなんてそう居ないし、目の前でお前のことチラチラ見てたら嫌か。……てか佐藤って誰だよ」
「え⁉︎ 佐藤色音だよ!」
誰? と思ったが、そういえばクマの本名だった。忘れていた。
「はいはいあいつね。よし、それでいこう。てか思ったけど、たぶんその店員のシフト調べられるからそれに合わせよう」
「え、ほんとに?」
クマなら数日とかからず調べ上げるだろう。
「ツテがあんだよ。そんじゃ乙葉のその策でやってみるか」
「やったー! それじゃなにか一品奢ってよ!」
乙葉の手元を見ると既に先程のパンケーキは消え、皿だけが残されている。しゃべりながらもきゅもきゅしていたがこんな短時間で平らげたのか。
「コーヒーあげるよ、これ。しかも俺の飲みかけ」
「『しかも』じゃないけど⁉︎ ミルクとかたくさん入れて飲みなよ! せっかく買ったんだから!」
そこで俺はピンと閃いた。ここでなにか一品注文するよりも、「また別の機会に奢る」とすることで次会う口実になるのではないだろうか。冴えている。
「また今度買ってやるよ。お前もこれから晩飯だろ」
「わ! 汚い! 奢ってくれないつもりだ!」
「そんなんじゃねえよ! 今日は晩飯食べにきたわけじゃな…………」
俺はなんとなく視線を感じて、そして言葉が詰まる。
「高橋?」
そんな俺の異変に、原因を探ろうと俺の顔を覗き込む乙葉。そして俺の視線をなぞるべく振り返った。俺たちの視線の先に、このカフェの制服を着た夏月が立っていた。
「高橋! コーヒーすぐ飲み干して! すぐ出よう!」
コーヒーを手に取ると俺の食道が「やめろ!」と嫌がる。しかし俺は無慈悲にブラックコーヒーを流し込む。倫理観が許すならこんな汚水そのへんに捨てたい。
「やっぱ待った! わたしたちが一緒にいるところを見せよう!」
俺はハムスターのようにパンパンになった頬のまま乙葉を睨みつける。
「ごめんごめん……」
悪びれもせずへへへと笑う乙葉。口いっぱいのコーヒーをなんとか飲み干した。
「ふざけんなよお前……」
「それよりあれ……夏月さんが例の店員さんってこと……だよね?」
「……そうなんじゃないか?」
客の視線を集めつつ慣れた様子で食器を下げている。もうこちらは見ていない。
「高橋知ってた?」
「知ってたらノコノコこんなとこ来ねぇよ……。てかバイトやってんのもいま初めて知ったよ」
「ほんとにコミュニケーションちゃんと取ってないんだね……。ていうか夏月さんにわたしたち見られてた……よね? たぶん」
「俺はがっつり目合った」
「わたしとっさに逃げようかと思ったけどあとちょっと談笑してから出よう。想定してた計画とズレるけどこれで夏月さんを揺さぶる!」
というわけで俺たちは十分ほど教師の悪口で盛り上がってから店を出た。ふたりそろってガラス張りの店内を振り返ると夏月がこちらを見ていた。乙葉がビクッと驚く。
「なにビビってんだよ」
「い、いや、目があって普通にゾクっとしちゃった……」
乙葉はヒヤヒヤとした様子で、俺を盾にしてカフェから見えない位置どりで歩く。こいつはすぐ俺を盾にする。
どこに向かっているのかわからないが、歩きながら夏月のことを話していると乙葉が「あ!」とデカい声を出す。
「見て見て猫! 猫ー!」
三十メートルはあろうかという道のりを、タッタッタッと早いのか遅いのかわからない走り方で駆ける乙葉。その先には白い物体が落ちている。乙葉は猫らしきそれを数秒ほど眺めまたタッタッタッと帰ってきた。え?
「お前なにしに行ったんだよ」
「猫じゃなくてビニール袋だった! あはは!」
「あははじゃないだろ」
もしかしてこいつ、おかしいのかもしれない。
「わたしね、猫ちゃんにいつでも餌をあげられるようにいつもちゅーる持ち歩いてるんだよ! 小腹が空いた時に食べられるしおすすめ!」
おかしい。そもそも猫餌を食うな。
「もう五時かー! 小腹すいたね!」
ちゅーる一本で満足しそうな気配を出しながら乙葉がバッグの中をまさぐる。さっきカフェでスイーツを食べた記憶がないのだろうか。なぜさらに食べようとしているのだろう。
「はい! 高橋にもあげ、ああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎」
「なにっ!」
乙葉が二本のちゅーるを差し出すと同時にバカデカい声で叫ぶ。そんな予期せぬ事態でも人間の性質は不変で、素早く動くものに視線がつられる。無意識に目で追っていたそれは、小さい長方形の紙切れだった。前に拾った乙葉の母の形見に酷似している。
「わあああああ! お母さんの! お母さんのやつが!」
「形見な!」
形見はひゅん、と風に仰がれて道の向こう側へと攫われていく。
「た、高橋追いかけて! わたしめっちゃ足遅いから!」
「俺クラスで一番足遅いぞ!」
「なんでだよ!」
「生まれつきだよ!」
俺とつむぎは見苦しいフォームで大した速度も出せず走り出す。幸い風は強くないが、俺たちを嘲笑うように絶妙に追いつけない。
「くそ。信号か」
この時間帯、退勤ラッシュには早いが車通りが多い。そのため普通に信号で足止めをくらってしまう。形見の宝くじは行き交う車の気流で右往左往し、辛うじてその辺を舞っている。
「あわわわわ! もうぺたんと潰されちゃえばいいのに! なんでフラフラしてるの!」
「いや潰される方がまずいだろうが!」
緊張のかな暴れ回る宝くじを見守り、ついに車が止まる。
「青だ!」
と同時に突風が吹き上げ、宝くじが高く舞い上がる。
「おい!」
「ああー!」
宝くじを決して見失わないようにそれを見上げながら信号を渡る。
「ぶげっ‼︎」
「ぎゃっ‼︎」
空を見上げながら走っていた俺たちはものの見事に正面の壁にぶつかった。痛みで一瞬前までの記憶が飛ぶ。ぶつかったのがガラスではなく人の家の塀なのは運がよかった。
「いたたたた……。お母さんのやつどこ⁉︎」
「向こうだ向こう!」
俺たちは痛みの中立ち上がり、再び目標を捉え走り出す。
「高橋これダメだよ! 上見ながら走ると危ない!」
「そんなこと言っても前見ながらくじ追っかけながらは無理だろ!」
「いやできるよ!」
「どうやって?」
「えっと……その……。高橋は宝くじをそのまま追って、わたしが……高橋の手引っ張るからさ、それで、信号とか人とか、避ける……から!」
「手繋ぐってことか?」
「あっ……ま、そう……。繋がなくちゃいけないわけじゃないけど、その方が……ね! というか全然……うん……」
空を爆走する宝くじを追っていて非常に危険なのに、そんな俺にさらに会話までさせるな。
「別に手を繋ぐ必要ないだろ」
「えっ⁉︎」
なぜか驚く乙葉。なにを驚くことがある。俺はいま、アレを持っているのだ。犬のリード。俺はカバンからリードをカバンから取り出し、首輪を装着。取手を乙葉に手渡す。
これだけの作業を並行して行えるとは、我ながら神業である。音楽を聴きながら勉強などまったくできないし、同時に複数の作業を行うと行動がバグるので、今のは奇跡と言っても過言ではない。
「これでいいな。それで犬みたいにコントロールしてくれ」
「よくないよ⁉︎ 手繋げばよくない⁉︎」
「走りづらいだろ」
「そう……だけどさ……」
葛藤の末に乙葉は俺のリードを引く。俺がひたすら宝くじを追い、乙葉が俺を制御。完全体になった俺たちはもっとも最適な姿で街を駆ける。
「危ないっ!」
「ぐぶっ⁉︎」
木にぶつかりそうになったらしくいきなりリードを引かれ、首が絞まる。死ぬ。
「か……加減しろ……!」
「力加減なんてわかんないよ! 犬の散歩もしたことないんだよ⁉︎」
そんなことをしているうちに風も弱まり、彼我の距離は縮まっていた。羽根を思わせる優雅な動きで、乙葉の母親の形見である宝くじは地面にゆっくり落ちていく。
「また風が吹く前に回収するぞ!」
「うん!」
その時、後方から現れた鳥の影が滞空する宝くじに当たる。そして、その場から宝くじが消失した。すぐには理解できなかったが、鳥に持っていかれたのだ。
「ちょっとぉぉおおお! なんか見たことない鳥が咥えてっちゃったよ⁉︎」
「なんだあの鳥⁉︎」
宝くじを攫っていった見たことのない変な鳥は、バサバサと飛び去っていく。速度を緩めていた俺たちだったがまた加速する。
「乙葉! あいつ撃ち落とせ!」
「なにで⁉︎」
体力のない俺はいよいよ最高速度で走っていられなくなった。というかもう俺も乙葉も手や足を大振りしているだけであり、進む速度は歩いている人間とさほど変わらない。遥か遠くに見える鳥。このまま追い続けたところであの鳥には追いつけないし、追いついたところで空を飛んでいる相手に接触できねない。あとは祈ることしかできないのだ。
どこかの木にでも止まれと念じていると、鳥はゆったりとした動きで向きを変えて下降していく。
「おっ……乙葉……! あいつ……どっかに降りるぞ……!」
「はぁ……はぁ……や、やっと……」
息も絶え絶えの俺たち。乙葉のリードに従いながら鳥の後を追い続けると、そこは見覚えのある街並みと河川敷だった。乙葉と出会うために段ボール箱に入って乙葉に拾ってもらおうとした、まさにあの場所。こんなところまで来ていたのか。思っていた以上に移動していたようだ。
「た、高橋……! 鳥! 川!」
鳥が川辺に降り立つ。運良く周りに人はおらず、さほど警戒もしていない。
「はぁーっ……はぁー……っ……高橋、高橋が、鳥、捕まえて! わたしがお母さんのやつ鳥から!」
「よ、よし……わかった……」
全身、上手く力が入らないほどには疲労していたが、これで終わらせられると思うと力が湧いてきた。俺たちは二手に分かれた。俺は鳥と並ぶよう川沿いに、乙葉は俺と鳥とを直角に結ぶよう内陸側に位置取る。
十メートルほど離れ、俺は鳥のフリをしながら鳥にゆっくりと近づく。鳥がこちらに顔を向けるが、「いや、俺は鳥ですけど……」という顔で乗り切る。野生の鳥は相当警戒心が強いらしいが、そんなそんなふうにやっているとなんだかんだ二メートルぐらいの距離まで近づけた。俺が鳥だとでも思っているのだろう。所詮は算数もできないような鳥頭なのである。俺は、算数ができる。
俺は「全然見てないですけど……」という顔をして鳥を横目で確認し、鳥の注意が俺と反対に向いた瞬間飛びかかる。決して羽ばたけないように両手で羽根のあたりを抑え込む。
「乙葉!」
物音を立てず忍んでいた乙葉がこちらに向かって駆け出した。てっとてっとと、決して体重は重くないのに重々しい動きで走る乙葉。足おっそ。
そんな乙葉を見たせいで気が抜けてしまったのか、身を捩った鳥が俺の拘束から脱してしまう。鳥は咥えていた宝くじを落とし、くじはひらひらと川の水面に乗る。
「うぎゃ!」
飛び立つ鳥から顔を守ろうと腕でガードした乙葉。ただでさえ汚いフォームで走っていた乙葉は案の定バランスを崩し、足が絡まる。川へ吸い込まれていく乙葉。
「うえっ⁉︎」
「危ねっ」
俺は咄嗟に、川へ倒れかかる乙葉の腕を掴む。乙葉と視線が交わった。しかし腕から伝わる運動エネルギーから、体勢を保てず一緒に川へ落ちることを直感。手を離した。
乙葉はおわああとか言いながらぼちゃんと川に落ちた。水面に浮いていた宝くじは飛沫にのまれ沈んだ。
「……」
俺は無力な自分を嘆き、しばらく立ち尽くしていた。
「女っていってもやっぱ人間一人分の重さって相当なんだな。腕上がんないんだけど」
「わたしさすがにそこまで重くないから! 川の水吸って重くなっただけだから!」
あの後俺はちゃんと乙葉を川から引き上げてた。言った通り乙葉がすごく重かったせいで腕の調子が悪い。たしか乙葉の体重は48とか9とかそのあたりだった。もう50kgだ。50kgの人間が服を着て、かつびしょ濡れならば60kgにはなるだろう。そんなものを引き上げたのだから腕を痛めてしまうのも必然と言える。
その60kg越えの乙葉は、地面に座り、背中をやや丸めて自身の体を隠すように抱いていた。
「最悪……なんでキャミつけてない時にこんな……」
上からブレザーやニットを着ていなかった乙葉は、白シャツが肌に張りつき大部分の肌色を浮かせていた。そして薄い水色のブラジャーが透けているのでそれが恥ずかしいのだろう。
「なぁ、今そんな丸くなってんのって服透けて恥ずかしいからか?」
俺の言葉を受け、ひどく赤面した乙葉の全身がぎゅーと力む。
「……あ、あの……高橋……さ。それ……聞く? 見えてないフリしない……?」
「いや……俺は気にしてないしな」
「わたしが気にしてるんだよ!」
「いやそんなのはどうでもいいんだけど」
「よくないだろ!」
「ブラが見えてるのが恥ずかしいならブラ脱いだほうが良くないか? そうすれば隠すの先だけでいいじゃん」
「さ、先って……そんなわけないよね⁉︎」
「体操服は?」
「今日は体育なかったから持ってない……」
「俺の着る?」
「えっ⁉︎」
背負っていたリュックからナップザック取り出し中を確かめる。今日使用した体操服と汗拭きに使ったタオルが入っている。俺の一連の動作を、乙葉は気もそぞろで見ていた。
「あったわ。使う?」
「わ……えと……いっ、いいの?」
体操服の上着を取り出して鼻を押し付ける。少し汗臭い。
「微妙に臭いな……」
「あ、いやっ、全然全然! 気にしないよわたし!」
「ちょっと待ってて」
俺は体操服のズボンと上着を持って川辺にしゃがみ込み、両方とも川につける。冷たい水流に汗を染み出させるようにゴシゴシと洗う。
「なにやってるのおお‼︎」
俺の腕を掴みにかかる乙葉。
「なにって……洗っただけだが?」
「洗っちゃ意味ないよね⁉︎」
「透けてるのが嫌なんだろ? 体操服は濡れても透けないから。それに汗臭いのは嫌じゃん」
「いやいやなんで乾いてて透けてないって二つもメリットあるのにわざわざ透けないってメリットだけ残すの!」
乙葉は俺の動きを両手で止めようとしたために、さっきまで腕で覆って隠していた胸元が見えている。
「丸見えだぞ」
「わああっ!」
俺に指摘され自身の胸を見下ろして声を上げた乙葉はすぐに掴んでいた手を離して体を隠す。顔を赤くしながら恨めしそうに見上げてくる。
せっかく透けブラをしているので、見れるだけ見ておこうとガン見していたら顎を掴まれ顔をバキっとあさっての方向に向けられた。
「あ、乙葉。いい方法があるぞ」
そんなわけで、俺は自分のびちょびちょの体操服を着て、制服のワイシャツとズボンを乙葉に着せる。その上体にさらに乙葉のワイシャツを着せ、それでもブラが透けるので肩のあたりに乙葉のスカートを巻く。これで胸元はスカートで隠れた。俺の制服のネクタイが余ったので乙葉の制服のネクタイと一緒に結び二又ネクタイとし、俺がワイシャツの下に着ていた肌着を適当に頭の上に被せた。
「これで透けないよな……ああ、あとバック持て。俺のも」
乙葉の左手には彼女のバック、右手に俺のリュックを持たせた。これで完璧だな。
「全部乗せすな! …………私こんな気持ちになったの初めてだよ」
「俺が体操服着てるし全部乗せではないだろ」
「あ、そっか」
取り乱してしまったかに思えた乙葉がすぐに冷静さを取り戻したので、他になにか乗せるものはないかと乙葉に持たせた俺のリュックの中を覗く。丁寧に畳んであったブレザーがある。裏の生地が濡れてしまうが、まぁ困っている人が目の前にいるのだからと、乙葉のスカートが巻かれた肩にブレザーを掛けてやった。
「これで寒くもないな」
「最初からそのブレザーだけでよかったよ!」
わがままなやつだな、と少々気に障りながらも見捨てはせず、衣服はそのままに家まで送ってやる。犬の首輪を付け忘れたなぁ。
乙葉の家は住宅街の浅い地区にある、可愛げある庭付きの一軒家だった。乙葉の後に続いて玄関に入る。
「あー、えと、制服乾かす? 着替えとかも……貸す、けど……」
そういえば俺たちはビチョビチョの実を食べた全身ビチョ人間かと思われても仕方ないほどびちょびちょだった。このまま帰ったところで、電車なりバスなりに小さい水溜りを作るのと半径三メートルが川臭い程度なのだが。
「いいのか? じゃあ頼む」
「ちょちょちょちょっと待ってて! バスタオル持ってくる!」
「乙葉、今日家に親居ないのか?」
玄関に出しっぱなしになっている靴はなかったのだ。
「まだ帰って来ないかな」
「そうか、よかった」
自分の娘がこんな妖怪みたいな格好させられてると知られるのは大変よろしくない。
「えっ、えっ⁉︎ あ……」
乙葉はなぜが動揺しているようです挙動不審になった。
「早くバスタオルくれ」
「あ! うん!」
ぺちゃぺちゃと濡れた素足で廊下をゆく乙葉。俺が掃除をするわけではないが、雑巾かけるのが面倒だなと思いながら乙葉の背中を見送った。
乙葉が帰ってくるのを待っていると体操着のポケットに振動。確認するとクマからラインが来ていた。
その文面は「改めて調べましたが、やはり乙葉さんのお母様は存命のようです。今乙葉さんのお宅に居られるんですよね?特にお母様に関する話題には慎重になってください。」というものだった。
「どういうことだ……」
今日川底に沈んだハズレの宝くじのことを、確かに乙葉はお母さんの形見と呼んでいた。どういうことだ。
すこしして乙葉が戻ってきた。俺は乙葉の指示に従い奥の部屋で体を拭いて乙葉の体操服に着替えた。体操服はゆとりのある作りとはいえ俺と乙葉ではずいぶん身長差があるため窮屈だった。
「わたしの部屋二階だから!」
先ほどまで写真アプリもびっくりなほど盛りに盛られた服装だった乙葉は、すでに部屋着に着替えていた。カーキ色のハーフパンツに同色のゆったりとしたTシャツ。ちょっとした動物のキャラクターがワンポイントでデザインされている。入華より筋肉がついていないようで、腕も脚も入華と比べほっそりしている。そんな乙葉の背に続いて部屋にお邪魔する。
「ど、どうぞ……」
「お邪魔します」
「その、ちゃんと片付けてないから、あんまり見ないで! というか、いつもはもっと綺麗なんだけど」
「その言い訳なんだよ。いま綺麗じゃなかったら意味ないだろ」
入華の二京倍くらい女の子らしい部屋だった。本棚には少女漫画が大量にあり、うわ、となる。おそらく俺たちの母親世代の『ヒマワリカバリー』もある。母親がいくつか少女漫画を持っていて昔は入華も読んでいたのだ。いまでは異世界モノやら悪役令嬢モノばかり読んでいるが……。
タオルで吹いたばかりのサラサラの裸足で足元のラグの感触を味わいながら、乙葉に指定されたあたりに座る。先刻まで濡れた体操服を着ていたのだ、俺のパンツは見過ごせないほど水気を含んでいて、じわじわと乙葉の体操服を蝕んでいた。座ると、じゅわ、と不快な湿り気が尻を触る。
「パンツも濡れてるからお尻ビチャってなるんだけど、お前の父さんのパンツとか借りれない?」
「お父さんの下着なんて可能な限り触りたくないよ!」
本当に今日は家に親がいなくてよかった。
「その部屋着かわいいな」
「え⁉︎ あっ、そうかな⁉︎ へへ……」
乙葉は照れながらも嬉しそうにはにかんだ。効いてる効いてるw
クマに言われたように服を褒めたことで、つい先ほどクマに言われたことを思い出す。乙葉の母親の件だ。
「乙葉、お前のお母さんって死んだの?」
「――えっ?」
機嫌の良さそうだった乙葉はきょとんとした表情を浮かべ、感情が読み取れなくなる。それから数秒乙葉の動きが固まる。動揺して取り繕えないのか、なにか言葉を考えているのか、どちらとも言えなかった。
俺もじっと乙葉の視線を見返す。
「……えっ、なんで?」
「いや、あの宝くじのこと形見って言ってたから死んだのかなって」
「いや全然死んでないよ? どうしたの急に」
「死んでないの⁉︎」
なにを言ってるんだ……という顔の乙葉。その顔をしたいのは俺だ。
「えーっと……形見? って思い出の物のこと言うんだよね? だから形見であってるよね?」
「いやっ……じゃあ別居してたりしないの? いろいろ都合があって、一緒には暮らしてない、的な。それかその、親の都合で離婚とか再婚とか」
「バリバリこの家に住んでるよ……」
「え?」
俺の驚きをよそに、乙葉は立ち上がって壁際のタンスへ向かい、なにやら引き出しから取り出した。それはA4サイズの紙で、何かが印刷されている。柄っぽくはない、幾何学的な繰り返しの模様だ。その紙を俺の前まで持ってくる。その紙を見てまず飛び込んでくる情報は数字。それと、小さな日本語。そこで俺は気づく。
「おいこれ、あのハズレの宝くじか……?」
「そう! わたしすぐ物を無くしちゃうからコピーしてるんだよ! 原本はどっか行ったちゃったけどね」
あははと笑う乙葉。俺はもう本当に、感情を処理しきれなくなり、最終的にすべての感情を失ってしまった。
「って言ってもわたし怒ってるからね! 高橋がお母さんのやつ川に落としたの! コピーって言っても大事な形見なんだから!」
「っていうことだった」
帰宅して自分の服に着替えた俺は、入華とクマに今日のできごとを話した。クマはソファに力なく倒れ、入華は床にひっくり返る。
「いや、色々とお疲れ様です、お兄さん」
俺が脱いだばかりの乙葉の体操服を嗅ぎながらクマが労ってきた。
「ちなみにその後なにかイベントはなかったんですか?」
「なんも。あの後、乙葉の母親が買ったっていう変な味のお茶がまずくて誰も飲まないせいで一生減らないからっつってそのお茶大量に飲まされてふつうに帰ったよ」
「来客にまずいお茶飲ますな……」
起き上がりながら入華が呆れたように言う。
「そういやあいつの部屋にヒマワリカバリー置いてたぞ。お前も昔読んでたよな」
「あー……あれ………………」
それから思い出せる限り、乙葉の部屋にあった漫画のタイトルを伝えた。少女漫画がきっかけでふたりが話せるようになるかもしれない。
入華は口元に手をやり考え込み始めた。おそらく「いつから私は異世界モノや悪役令嬢モノしか読まなくなったのだろう……この女子力の差はなんだろう……」とでも嘆いているのだろう。
「乙葉さんとは順調に仲良くなっていますね。この調子でがんばりましょう、お兄さん!」
クマはそう笑顔で言った。安心したような、しかしどこか虚勢でも張っているような、薄っぺらい声音だった。