第二話
翌々日の五時間目の休み時間に入華からラインがあった。一年生のヒロインたちの情報を調べ上げたのだという。入華が人と接する時の姿を知っている俺からすれば真っ先に疑いたくなってしまうものの、詮ない嘘を吐くような人間でもない。俺は放課後を待った。
図書室で三冊本を借りて校内を歩き回る。もう真ヒロインを探すことはやめたので意味のないことではあるが、しばらく止める気にはなれなかった。
本来であれば今日は電車で帰宅する日だったが、電車で家より遠い駅におりそこから徒歩で帰る過程は金銭的にも精神的にもくるものがあったので止めることとする。これからは歩行とバスの二刀流だ。ホコーとバスストリーム。
「ただいまー」
「んー」
「おかえりお兄ちゃん、だよな?」
「死んで隣来て」
おかえりお兄ちゃんと言わせたいのだがどうしても言ってくれないし、指示によると一度命を絶つ必要があるらしい。不服は唱えずソファに座す入華の隣に掛ける。その時、入華の膝の上に熊のぬいぐるみが乗せられているのを見てとって。
同年と比べ大人びている入華だが、可愛らしいものを身につけると年相応、あるいはさらに幼い人形じみていた。冷ややかな顔立ちによく似合っている。
「てか調べるの早すぎないか? 俺でもけっこう時間かかったぞ」
暗に情報の確度や量を問うも入華は無言で返し、ローテーブルに熊のぬいぐるみを座らせた。意図がわからない。
「ねぇ、話して」
「……」
入華の目を見る。彼女はまっすぐぬいぐるみを見ていた。自分の眉間に皺がよるのを感じた。入華は昔から変な子ではあったが、まさか兄であるこの俺が恐れを抱くことになるとは思いもしなかった。
「あれ? どうしたの」
お前がどうしたんだよという状態の入華は再び呼びかけ、ぽすぽすとぬいぐるみの頭を叩く。が、ぬいぐるみは沈黙を崩さない。当たり前だ。ぬいぐるみなのだから。
もしぬいぐるみが愉快に話し始めたら、俺は自分の頬を思いっきり殴って壁に頭を打ち付け水で顔を洗って正気を取り戻す。もちろんそんな気の狂ったことをするつもりはない。なぜならば、ぬいぐるみはしゃべらないからだ。
『いっ、入華ちゃん! まだ心の準備が……』
甲高い耳障りな声が発せられた。隣に目をやるが入華が口を開いた様子はない。
『ど、どうも初めましてお兄様!』
俺はただちに自分の顔面を殴り、立ち上がって壁に頭を打ち付け、流しの蛇口を捻って流水を頭からかぶり、後頭部から顔を伝って流れ落ちる水をすくって少々乱暴に顔を冷やす。水が散り流れをつくるシンクに黒っぽい、よく見ると血が混じっているのに気がつく。どうりで痛いわけだ。痛覚も頭も正常のように思える。
俺は顔を拭くのも忘れてソファの傍に屈む。
「入華、すまん。俺気づかないうちに大麻の煙でも吸ったかもしれない。いまこのぬいぐるみがしゃべった」
「てか血……! めっちゃ……うわ服についてるよ⁉︎」
『幻聴じゃないですよ! 僕はちゃんと』
あそこまでやって正気を取り戻せなかったのか、またあの声が聞こえてくる。俺は自分の顔を殴るために右腕を持ち上げた。待って! という鋭い声とともに振りかぶろうとした手首が掴まれる。入華だ。
「ストップ」
俺は左の拳で顔を殴る。やっぱり痛い。
「ちょっ……ちょっと……」
立ち上がろうとすると入華に腰を掴まれ強引に座らされた。恥ずかしながら俺は入華より遥かに身体能力が劣るので、強く引っ張られるなどすると逆らうことができない。
そもそも俺の筋力や体力は、運動が苦手な同年代の女子としのぎを削る域にある。体が固いわけではないのでかろうじて私生活に不便はないが、家で力仕事を任されることがなかったことに関しては我ながら不憫だった。
「それで?」
俺は消毒液とガーゼを取りに立ってソファに戻り、応急手当てをしながらぬいぐるみに話しかけた。
『あ、はい。僕は入華ちゃんのストーカーをさせていただいている者です! よろしくお願いいたします、お兄様!』
この声、よく聞けばテレビの警察密着番組で聞く犯罪者の加工した音声と同じだった。やや耳障りだ。
「よろしく。てかお兄様ってのやめてくれよ。俺は唯一入華のお兄ちゃんだからな」
『おにぃ』
「無理」
『アニキ』
「無理」
『お兄ちゃん』
「死ねよお前お兄ちゃん呼びは入華専用なんだよもし俺をお兄ちゃんと呼びたかったら月三千円は払えよ」
『お兄さん』
「それならいいよ」
いいんだ、と入華が呆れる。嫉妬だろうか。可愛いやつめ、と朗らかな気持ちになっていたが、ひとつだけ気になることが残っている。
「入華おまえ、このぬいぐるみ友達から貰ったって言ってなかったか?」
イマジナリーフレンドから貰った(自分自身で買った)のだと疑っていたが、ストーカーから贈られたもののようだった。しかしそれでもストーカーを名乗る人物から受け取ったぬいぐるみを友達から貰ったと答えた真意はなんなのだろう。
「え、ストーカーって友達に入るよね……?」
機嫌でも窺うような声音で俺に訊ねてくる。俺はそんな入華の反応にある種のショックを受けつつもどう答えるべきか考えようとした時、先んじてぬいぐるみが答えた。
『ストーカーは友達じゃないですよ』
「えっ⁉︎」
入華はビクッと体を跳ねさせ驚愕に目を見開く。まずい。
俺はなんとか言葉を引っ張り出して捲し立てる。
「しょうもないこと言うなよストーカー、友達からストーカーになることって少なくないだろ、だったら逆もあるし、そうやって行き来できるもんだったら実質同じものと言ってもいい、てことは友達はストーカーだしストーカーは友達なんだよ、同時に二つの性質を持ってんだよ、見方によってはどっちにもなるみたいな、つまり広い意味で言えばストーカーも友達に入る。だからそのストーカーが言ったのは冗談だ。わかるか入華」
「そ、そうだよね……びっくりした……」
入華はほっとしたようで、口元を緩ませる。
『えっ……』
見えているのかはわからないがとりあえずぬいぐるみを睨みつけておく。下手なことを言うな。
『あっ……ごめんね入華ちゃん。僕たち友達だよね! 急に冗談言ってごめん』
「ほんとに趣味悪いからやめて、こういうの。次はないから」
『う……うん……』
俺も次はないで欲しいと願った。
「それで入華、このストーカーがなんだ」
「一年生の可愛い子のこと調べてきてってだったじゃん。だからこのルフィに頼んだ」
「ルフィ……?」
出し抜けに麦わら海賊団船長の名が出てきて聞き返してしまう。
『あ、僕のことです』
手をあげてこちらを振り向く姿を幻視するほど軽い調子だったので、少し苛立った。
「いや僕のことですじゃねぇよ。なんて不名誉なことしてんだよお前。なんで? なんでそれ名乗ってんの。尾田の方名乗るだろ普通」
『どこの普通なんでしょうか……入華ちゃんの名前から取ったんです。イルカは英語でドルフィンじゃないですか? そのドルフィンの中三文字で、ルフィ。どうですか? なかなかいいセンスだと自負しているんですが』
「最初の『ド』と最後の『ン』どこ行った? ピンポイントでルフィ取るなよ」
『そのふたつは、まぁ……僕の背景に掲げときます。ドン! って感じで』
「やめろ完全にルフィだろ! 名前変えろ!」
しばしの話し合いの結果、入華のストーカーの呼称は「クマ」となった。熊のぬいぐるみが由縁だというのにワンピ要素が残ってしまった。しかしこのくらいは許容の範囲内だろう。
「それでクマ、一年生のヒロインの情報を集めてきてくれたんだな?」
『はい!』
「よし。それじゃあヒロイン選定会議を始める」
俺はスマートフォンを取り出しこれまでのヒロイン情報を蓄積したメモアプリを立ち上げる。
『わかりました』
「急……」
入華は当惑、クマは問題なくついてきているようだ。
ヒロインを全員デレさせたいと大きな目標を俺は掲げたが、いかんせん全員同時に攻略するのは不可能だ。なので「まず攻略すべきヒロイン」を選び出すことにした。そしてふるいにかけた。
「ヒロインな、実は全員で十人ちょっといるんだよ」
「多くない?」
「多い。多い上にみんな人格等に問題があるからスタメンからベンチヒロインに下げた」
「いや人のこと悪く言い過ぎだし……。結局何人になったの?」
「七人」
「多いな……」
その批判は甘んじて受け入れるが、これ以上は削れない! というところまで削ったのだ。原価販売なのだ。
「まずは三年、新名羽柔。羽に柔らかいで『うにゅ』。冗談みたいな名前だったから出席簿も確認したけど実際にこの名前だった。スタイルはバランスが取れてるかんじで、髪を暗めの灰色に染めてる。それで、新名羽柔は確認できただけで四十人以上と付き合ってる」
『すみません僕処女厨なので新名さんはやめませんか』
「まぁクマ待て。付き合った男には羽柔リストってのが渡されるんだが、そのリストには五十個、これから付き合うにあたっての要望みたいなのが書かれてる。その中から三つだけ紹介する。
1、スマートフォン、PC等の機器から私以外の連絡先をすべて削除してください。必要な連絡先は私のスマートフォンの方に登録します。
5、浮気をした場合死んでください。もし自らの意思で自決できない場合は私が殺害します。
50、病めるときも健やかなるときも私を幸せにしてください。……こんなかんじだ」
「この人はやめとこうお兄ちゃん。次」
「ひとまず三年は、新名羽柔で終わりだ」
「それより、ヒロイン……なんだよね? その人」
なにを今さら、と訝しむ。
「そうだが」
「関わりは?」
「関わり……?」
入華は俺の答えを受け、苦虫でも噛み潰したような顔で数瞬黙った。
「……繋がりだよ。同じクラスだったり、中学が同じだったり、知り合いだったり、お兄ちゃんはその人とそういう繋がりはあるの?」
「ん〜……」
「……ないのにヒロインって言ってんの?」
「いや、ある! 全員同じ高校だろうが! 可愛い妹がいて、幼馴染がいて、担任がいて、クラスに学年一可愛いやつがいて……! そこまでそろったらもう他の可愛い子もヒロインだろうが! 同じ学校というだけで他校のモブ男子にとって絶対に超えられない関わりだろうが! 同じ高校ってのは圧倒的コミュニティだろうが! だから全員ヒロインだろうが‼︎」
俺の魂を込めた説得は入華に届いただろうか。たぶん、壁を超えて隣の部屋には聞こえたと思う。
『やめとこう入華ちゃん』
「…………お兄ちゃん、続けていいよ」
クマの小さな力添えもあって入華を納得させられた。入華は疑問が解消されたためか、より一層厳しい表情になり、真剣みが増したように見える。
「わかればいいんだ。じゃあ二年いくぞ。白城凪。俺のクラスにいる学年一可愛いって言われてるやつだ。ものすごい男嫌いで、中でも俺のことを一番嫌ってる」
「なんで……」
入華の問いにすぐには答えられなかった。俺も原因がわかっていないのだ。
「……知らん。マジで心当たりがない。それと白城凪の攻略は後回しに決めてるから、そのまま次行くぞ」
『なぜ後回しに決まっているんですか?』
「俺と白城は同じクラスなんだぞ? 今は違うが絶対隣の席になるからその時に仕掛ければいい。焦ることはないだろ」
『絶対隣の席になるとおっしゃいましたが席決めはクジではないんですか? 秘策でも?』
クマの愚問にため息が出た。当たり前のことを一から説明する。
「しかるべき偶然ってのがあんだよ世の中には。だからそのうち必ず白城は俺と隣の席になる。そのタイミングで始めればいいから別に今すぐ取り掛かる必要がないんだよ」
『……次、お願いします』
すぐ理解に至ったらしいクマは素直に引き下がった。クマは物分かりがいい。
「次は」
ピポピポピポピポピンポーン! と進化をキャンセルできそうなほどのインターホンの連打。入華はビクッと驚き、クマは『う⁉︎』と咄嗟のことに混乱していた。
俺は直ちに玄関へ向かい戸を開く。立っていたのは隣の部屋に住む幼馴染の夏月。
「うるさい死ね」
「いや……いや、すみません」
言い訳が出かけるも引っ込めた。明らかにこちらに非があるので食い下がる必要はない。食い下がれば食い殺される。
「輝倫、あんた本当に次やったら殺すから。べつにあんたのためじゃないから」
誰のためでも殺すな、という言葉を飲み、「はい」と返す。すると夏月はやや不機嫌さを残した顔をしたまま、背中にポニーテールを揺らしつつ帰って行った。
「おいクマ、今の聞こえてたか」
『……は、はい』
「あいつがヒロインのひとり。朝来夏月。俺の幼馴染で隣の部屋に住んでる。高校は別。あの通り、頭がおかしい」
『たしかに……あまり優先すべきだとは思えないですね……』
「だろ? それで二年はこのふたりで以上だ。あとはクマ、頼む」
入華がクマの頭をぽんと軽く叩く。それを合図にクマが話し始めた。
『じゃあ僕が調べてきたお三方を紹介します。ひとりめ、高橋入華。一番可愛いです』
「ああ、一番可愛い」
「……」
入華は照れるでも怒るでもなく、情調の読めない横目で俺を見ていた。少なくともヒロインのする顔ではなかった。
『入華ちゃんの説明は省きますね。それに、入華ちゃんは今回お兄さんに協力する形になるんですよね?』
「デレさせるとか言われてなんかされるよりかそっちがいい……」
と入華が不承不承の態で答える。俺は一年生の情報を集めてほしいとお願いしたに過ぎないが、ふたりの間ではそういうことになっているらしい。不都合はないので口は挟まなかった。
『ふたりめは佐藤色音さんです。イチオシです。攻略するにあたって彼女の友人たちが邪魔なことを除けば他に問題はありません! 写真をお送りしますのでお顔の確認をお願いします』
クマの言葉に重なるようにスマートフォンに通知が入り、確認するとメッセージアプリに見覚えのない「クマ」という者から画像が送られていた。
画像を確認すると、そこに写っている少女は俺の指定したヒロインに間違いなく、彼女とその友人たちと共にお洒落なカフェの前で可愛らしくポーズを決めている。
入華にも同様のラインが来たようでふたりしてスマートフォンを注視する。
俺は、てかさ、と切り出した。
「クマお前なんで俺のライン知ってんだよ。教えてないぞ」
『入華ちゃんにくださいと言ったらくれました』
「おい」
入華を見る。
「いや、だって……友達に言われたらライン渡すじゃん、普通……」
クマは友達ではなくストーカーだ。仮に友人だとしても、普通は友人の兄のラインを貰うことなどない。けれども入華は友達がいないためわからないのだ。
「それよりさ、この佐藤さん? 私こういう友達いる感出す人無理……」
『え⁉︎ 入華ちゃんそれヒロインの評価に関係なくない⁉︎』
「友達いる感出すというか友達がいるだけなんだけどな。次行けクマ」
入華は友達がいないため友達がいる人間を無差別に嫌っている。納得させようがない。
『う、うーん……わかりました……では三人め、乙葉つむぎさんです』
ラインに通知。高校の教室で撮影された友人とのツーショットだった。彼女で間違いない。
『乙葉つむぎさんも天然系の方です』
「も?」
『勉強も運動もできません。長所は元気で可愛いところくらいですね』
「お兄ちゃんじゃん」
入華がハッとした顔で言う。
「俺こんなに可愛いか?」
「死ね。顎引いて上目遣いでアヒル口するなきもい」
『……あの、それでどうしましょうか。最初の攻略対象は乙葉つむぎになるんですか?』
消去法でヒロインが決まってしまいそうだ。しかし、納得できるかと問われれば、否。
消去法で残った乙葉つむぎと言う少女は、すべての考えを黙殺して選ぶだけのヒロインなのだろうか。
「お兄ちゃん?」
俺は近場に放り出されていた自分のバッグからノートとボールペンを取り出し、ノートを開いて一ページ剥ぎ取った。
ハサミで細長く切ってゆき、その先端にヒロインたちの名前を書いていく。名前を隠すように手で握り、入華に差し出した。
「入華、引いてくれ」
「え、嫌なんだけど……。せめて私のクジがどれかだけ教えてよ」
俺は手を開いて「いるか」と書かれたクジをちょいっとひとつだけ長くして手を握りなおす。入華はその飛び出す出したクジを避けて隣のクジを引いた。
「おい! なんで避けんだよ!」
「普通避けるよ! ……はい。つむぎって書かれてるよ」
そう言いながら入華が手の細長い紙切れのくじを見せてくる。たしかに「つむぎ」と記されている。
「攻略するヒロインこんなふうに決めちゃっていいの?」
「しかるべき偶然を運命って言うんだ」
乙葉つむぎ。
高校一年生。勉強も運動も苦手で、元気と可愛さだけが取り柄の少女。
俺の高校の後輩で、第一ヒロインだ。