第十一話
やることは、いたってシンプル。いつも通り過ごすだけ。俺も入華も帰宅してからは普段と変わらないように会話して、就寝。次の日学校に行けども、いつもと異なることはしなかった。だからクマにはいつも通りに見えているだろう。いつものように授業をこなし、昼には校内を歩き回り、いつもと違うことはひとつもしない。
帰りのSHRが終わる。支度をして教室を出た。歩いていると隣に並ぶ影がある。二年生の教室があるエリアでは滅多に見れない一年生。それは、乙葉つむぎである。
「ほんとにこれでいいのか?」
「大丈夫大丈夫!」
俺は乙葉にスマートフォンとリュックを渡して真後ろに方向転換。普段使う正門とは反対の裏門へ向かう。
裏門の正面に突っ立って待つ。下校する生徒が俺を避けて左右に割れて行く。あまり長時間ここにいると生徒指導の教師が来るため、意外とリスキーな行為だったりする。
生徒指導の教師が俺の名前を呼ばないか怯えながらも俺は待った。しばらくすると、遠くから女子の集団がやってくる。中心の一番可愛い女子生徒をとりまく華やかなクラスメイトたち。彼女たちは話をしながら俺に注意を向けず近づいてくる。
その集団の中でもっとも可愛い、佐藤色音は歩きスマホをしながら、時折まわりに視線を向けて歩いている。
俺は下校する生徒たちの波に逆らうように、佐藤色音――クマに向かって歩き出した。
流動する人混みは俺を避けて広がり、俺の後ろで緩やかにひとつの流れに戻る。そうして人波を割って進む俺にクマが気づいた。
スマートフォンのアプリはもちろん、発信機でもつけられている可能性のある鞄は乙葉に渡した。俺が普段使う道のりを辿って、俺のいつも通りをなぞるみたいに。
あんなにうまく俺のことを避けていたのに、こんなにも簡単に会えたんだな。位置情報だけでわかった気になるなどストーカーとしての怠慢だ。
ハッとした顔のクマは焦りつつ、周囲の女子になにか伝え道を引き返した。
俺は構わず同じ速度で後を追う。
女子トイレに逃げる選択肢もあるだろう。しかしトイレは袋小路で、いつまでもこもってはいられない。校内で鬼ごっこもいいだろう。俺の体力と脚力では決して追いつけないことをクマは知っている。
しかし一番シンプルで逃げやすいのは、裏門の反対側にある正門だ。そこに辿り着くまでに俺に追いつかれなければ、あとは逃げ放題だ。
だから正門へ向かう道の途中に入華を配置しているのだ。
クマは入華に気付いて立ち止まった。振り返って俺の姿も確認する。入華もそうだ。同じクラスの七瀬に持ち物を預け、七瀬がいつもの入華の下校ルートをなぞればGPSで位置を把握しているクマにはいつも通りに見える。
入華が駆け出す。俺と入華に挟まれてしまった時、もっとも賢い行動は俺が塞いでいる道を引き返すこと。入華には決して身体能力では敵わない、だから俺の方へ来る。それをわかっていて、入華が行かせるわけがないのだが。
俺の方へ向かっていたクマは、入華に回り込まれていることに気づいて方向転換。校舎の方へ逃れた。入華は後を追うが追いつけない、というかわざと追いつかない。そもそも入華は、男子陸上部のエースに次いでこの学校で二番目に足が速い。クマが入華から逃げられるわけがないし、そんな脚を持つ入華が加減して走ればどれだけの余裕が生まれることか。
俺は校舎裏の告白スポットへ向かう。あそこはちょうど長く一本道が続く。俺が予定の位置にスタンバイしてすぐ、後方を気にしながら走るクマが奥の曲がり角から飛び出してきた。
俺に気づいて一瞬身を引くクマ。その動きが止まったところに、猫が獲物に飛びつくように入華が抱きついた。
「クマ捕獲!」
「わぁっ⁉︎」
抜け出そうと身悶えしながらも入華にぎゅっと抱きつかれどこか嬉しそうなクマ。入華の腕から逃げられないことを悟ったクマは、思いっきり首を後ろに回し入華の首元に顔をつけ激しく呼吸し出した。
「入華離すな!」
駆け寄りつつ入華に叫ぶ。クマを気持ち悪がった入華が腕の力を緩めそうだったからだ。息も絶え絶えで入華とクマの前についた。
「はぁ……はぁ……クマお前な、ライン返事しろ、電話取れ。こんなしょうもないことしないと話せないってなんだよ」
「別に私の勝手じゃないですか!」
「わ、クマが私って言ってる……変なの……」
「ひっ、ひどい、入華ちゃん!」
「……あ、いや、クマは私って言ってなくても変だから、気にしないで」
「ひどいひどい!」
「ほら、クマさっさと話せ。なんで急に俺たち避けてんだよ」
「……前にお兄さんに言った通りです。それともう逃げないから離してし入華ちゃん」
「まだ逃げそうじゃん」
「いや……その…………そうじゃなくて……」
「なに?」
もじもじと言いにくそうにするクマ。なんだというのだろう。
「入華ちゃんの…………胸がさ、ずっと当たってて……へ、変な気分になっちゃうから…………」
気持ち悪っと俺が思うのと同時に入華が最大速度で拘束を解いて一歩引いた。すかさず駆け出すクマ。
「入華!」
「わっ」
だったが、入華がすぐにクマの手首を掴んで捕まえてしまった。なんという反射神経。クマは入華に掴まれたせいで腕がビーンとなって若干浮いた次の瞬間には地面に落ちた。
「ぐえっ……」
俺はたまたま持っていた犬用のリードをクマにつけた。俺の腕力ではクマに引きずられてしまうだろうが、また入華にセクハラされるよりはいいだろう。
「もう観念しろ。お前が入華から逃げられるわけないんだから」
「…………」
地面に仰向けになっているクマを俺と入華は見下ろす。クマは十秒ほど黙り込み、諦めた様子で口を開いた。
「入華ちゃん、もう逃げないからお兄さんとふたりにしてくれないかな」
「逃げるでしょ」
「もう逃げないよ。諦めた。お兄さんがリード持ってるし逃げられないよ」
「お前俺の筋力舐めてるのか? 逃げられるぞ」
「もう話がややこしくなるので余計なこと言わないでください! 入華ちゃんも! もう抵抗しないから!」
「やだ。ていうか私たち避けてた理由私も聞くし。なんでお兄ちゃんだけに言おうとするの」
「もぉ〜〜〜〜! もぉっ! いいです。わかりました」
開き直ったクマが立ち上がる。背中側についた土埃を手で払ってやる。入華はこうことやってあげないから。
乙葉が言うには俺とクマのふたりだけでまわりに人がいない場所がよいらしいが、俺の筋力では無理そうだと実感する。そして、入華がクマの後手をガッチリ掴み、俺がクマの正面でリードを持つ。教師に見られるとかなりまずい絵面な気がする。クマがここで大声で助けを呼べば完全に終わるが、クマの表情を見るとそんな気はなさそうだ。
クマは目を閉じて呼吸を落ち着けると、真っ直ぐな目で俺を見上げた。
「お兄さん、私、お兄さんのことが好きです」
「……え?」
「え、お兄ちゃん……?」
その言葉に俺たちは困惑した。冗談でも言っているのかと思ったが、クマは決意と諦めたの篭った目で俺をまっすぐ見ていた。
「お兄さんがヒロインたちモテたいからそれぞれのヒロインを攻略する、だとかいう話を入華ちゃんから聞いて、これでお兄さんに近づけるって思いました。運良くというか悪くと言うか、クマとして素性隠していたのにお兄さんに見つかっちゃって、それでリアルで関われるようになって、……すごく楽しかったです。本当に楽しかったです。……楽しければいいかなって思ってました」
俺も入華も言葉を発せず、しゃべり続けるクマの言葉を受けとることしかできずにいた。乙葉の予想通り、クマはもう感情を抑え込んでいるのが我慢ならないとでもいうようにすべてを話した。
「でも、乙葉さんと仲良くなっていくのを見てすごく嫌な気分になりました。好きな人が他の女の子と、しかもすごく可愛い子と仲良くしてていい気分になるわけなかったんですよね。……それでも私は必要とされてるから、いいかなって。乙葉さんくらい仲良くなれなくても、二番目でも、三番目でも、お兄さんが必要としてくれるから、私の場所があるならいいやって納得させました。でも実際そんなことなくて、私がいなくても上手く行っちゃうから、嫌だなって。これからも一緒にいたら、もっといろんな女の子と仲良くしてるお兄さんを見ることになるし、私も必要なくなってくし。好きな人なのに、近くにいたら幸せ以上に嫌なことばっかり起きるから……。これからもっと嫌な気持ちになるのかなって思ったら耐えられなくなっちゃったんです。だからお兄さんから離れようと思って」
「……あの、クマさ、私のことストーカーしてたじゃん。それでお兄ちゃんの方好きなの?」
「うん。……入華ちゃんにはすごく悪いことだけど最初お兄さんと間違えてたんだ。でも入華ちゃんのこと好きなのも本当だよ。すごくタイプだし……。お兄さんなわけだから似てる入華ちゃんのことも好きになって当然な気はする……。でも、入華ちゃんのこともすごく好きだけど、お兄さんの好きはなんか、もっと特別な感じ」
なんだこいつ……。
「え、ええ……。私とお兄ちゃん確かにら小学生の頃はよく間違われてたけどさすがにいまは間違えなくない?」
小学生の時は生徒はもちろん先生も間違えるくらいに俺たちは似ていた。中学に上がると徐々に骨格の違いが出てきて間違われる回数は大幅に減った。とはいえ、だ。表情と振る舞いはまるで違うのだから、少し付き合いがあればわかる。
「だよな。いまも似てはいるけど……間違うか?」
「私が初めてお兄さんに会ったのが小学生の時にだったので。高校になって見たとき入華ちゃんみたいに成長したのかなって勘違いしたんです」
「いや好きな相手勘違いすなよ。てかお前俺と小学校違うだろ」
「…………やっぱりわかんないですよね」
寂しそうに眉を下げるクマ。
「私のお父さんの名前が佐藤吏で、お父さんの妹が佐藤鶫。いまは結婚して高橋鶫に変わっています」
「母さん⁉︎」
いきなり母親の名前が出たので驚く。
「クマいとこなの⁉︎」
「うん。お母さんから聞かなかった? 私は後からお父さんに教えてもらったけど」
「いや、私聞いてない……聞いてないよね……うん、絶対聞いてない。なんでお母さん教えてくれなかったの……? いやお母さんなら教え忘れるか……」
「俺らの母親だからな……」
母の鶫は俺をさらにお調子者にしたような人間なので大事なお知らせなどをよく伝え忘れる。あの母ならばあり得るとすぐ納得してしまう。
「じゃあお前あれか、母さんの実家にいたメガネの女か?」
「あっ、あ、あそ、そうです……! おっ……覚えてたんですか……⁉︎」
「覚えてるけどあれマジでお前?」
「は、はい! そうです! 一緒にお祭り行きました……!」
「お前見た目変わりすぎだから。髪型違うしメガネもしてないしメイクまでして……わかるわけなくないか?」
「でも私はひと目でわかりました!」
「嘘つくな入華と間違えたんだろ?」
「…………いやっ……んー…………はいぃぃ………………」
「私がお兄ちゃんの代用だったのわりとショックなんだけど……」
「いやっ、入華ちゃん違うよ! 入華ちゃんは入華ちゃんで好きだからね!」
八方美人の様相を呈してきた。
「クマは女が好きなのかと思ってたけど」
「いや、なんというか、髪の毛が短かったり背が高かったり筋肉がついてたり体毛が濃かったりみたいな男性的な感じが苦手で……。お兄さんはひょろっとしてて背も低いし力弱いし……」
「……貶してる?」
「ち、違います! それと話を戻させてください」
「そうだったな……」
シリアスな感じを出してたのに話していたらいつもの状態に戻ってしまった。俺は先程のような神妙な顔に戻る。クマも悲しそうな感じの顔に戻った。入華だけ新たに入ってきた情報に対し「んぇ〜?」という感じで顔を曲げている。空気を読め。
「……それで?」
「お兄さんから距離をとったのはいいですけど、やっぱりまだ好きです。諦め切れないです。……だからもう諦めさせて欲しいんです。私と付き合えないって言ってくれたら、もう勝手になにも望まなくて済みます。お兄さんの周りの人を嫌いにならなくて済みます。私が嫌な人間になる前に、ちゃんとお兄さんに終わらせて欲しいです。私、自分では諦め切れないです。はっきり拒絶してください」
「そうか……悪いな。そんなふうに思ってたってぜんぜんわかんなかったよ」
「私が勝手に好きになったり嫌いになったりしてるだけですから……だから、お兄さんはなにも悪くないです」
「……実際あんまり悪いとは思ってないんだけどね」
「お兄さん……いま真面目な空気なので、それやめてください……」
「ごめん……」
「……いまのは、お兄さんが悪いです……」
「ああ……」
しかし、である。
クマはこういっているが、実際彼女は有能で人脈もあり人柄も良い。変化の波で地位が脅かされる不安であったり、焦り、嫉妬などで落ち着けなくなっているだけだ。クマほど魅力的で俺に協力的な者など他にはいないのに。
俺がそんなふうに思っているなど知るよしもないか。彼女は俺ではないのだから。
しかしどうしたものか。クマと付き合ってしまえば「ヒロインたちをデレさせる」という俺の志しは夢半ばで終わってしまう。断ればもうクマとの縁は途切れてしまうのだろう。この選択肢もまたヒロインたちをデレさせるという志しに大きな負の影響を与えてしまう。
ヒロイン一人目にして俺は大きな別れ道に立っていた。どちらに進もうと必ずもう片方を失うことになる。
「……お兄さん、私と付き合ってください」
悩む俺に追い討ちをかけるようにクマが告げた。
クマを失うことなく、ヒロインたちの攻略は続けたい。ならばどうすればいい。
考え、考えに考えて、
俺はついに答えを出した。
「わかった。クマ、付き合おう」
「えっ⁉︎」
クマよりも先に入華が反応してしまった。いまは俺とクマとの時間なのだ、どこかへ行っていて欲しい。
「ほ……本当ですか……?」
暗い表情だったクマが、信じられないという驚きとじわじわと湧き上がる歓喜で色づいていく。
「ただ一個だけ条件がある。約束でもある」
「なんでしょうか……!」
嬉しさを抑え切れないというようにクマ迫ってくる。入華は呆然としていた。
俺の答え。それは、すべてを失うことなく、俺の望みも折られない、これしかない。
「ヒロイン全員をデレさせたら付き合う」
「…………え?」
◇
「あ! 高橋ー! 風邪治ったの?」
「治ったよ」
部室棟へ向かう途中の道で乙葉に見つかり声をかけられる。
「いや〜今度は風邪ひけてよかったね! しかも夏月さんに看病してもらえてラインも貰えてさ〜」
「看病と呼べるほど部屋に滞在してないけどな。最低限のことだけやってすぐ去っていくからあいつ。思ってたのとかなり違う。看病ってなんかもっと人の優しさ感じるもんだと思うけど、あいつ完全に作業と義務で接してきたから」
「でもでも! 佐藤さんにも看病してもらって〜イチャイチャしたんじゃないの?」
「いやクマ来なかった。というかあの日以来会ってないし」
「え⁉︎ うまく円満解決したんじゃなかったの……?」
「したよ。したのに来なかった」
「え?」
「なんだかんだずっと風邪ひいてる間面倒見てくれたの入華だったな……」
「ええ……。そういえば今日もなにかやるつもり?」
「ああ、新しい部活入ろうと思ってな、オカルト研究会ってとこ入ろうと思って。やっぱ主人公って変な部活入ってるもんじゃん? ヒロインの新規開拓したいしさ」
「あんな条件飲んでくれた佐藤さんに悪いと思わないの……? なんでヒロイン増やそうとするの?」
「んじゃ俺いくわ。お前も頑張れよ。真ヒーロー攻略」
「…………。うん、頑張るよ! わたしが困った時はちゃんと手伝ってよねー!」
乙葉はぱたぱたと走り去っていった。あいつが漫画の主人公を真似て振る舞っていたと聞いた時はゾッとしたが、改めて接するとどちらの面の乙葉も大して変わらない。キャラクターを真似るためにテストの点を低く取るなんてどう考えてもバカなのだから、やっぱり頭は良くないし特に気にすることではないのだろう。
歩くのを再開すると電話がかかってくる。
「なんだ」
『入華ちゃんも合流するそうです』
あの耳障りな犯罪者の声を加工したようなクマの声。いつのまにか肉声での会話に慣れたので急に戻されると慣れない。
「なんでその加工した声に戻ってんの? 風邪ひいてるとき見舞いも来ねえし」
『え、いやぁ……なんか急に恥ずかしくなっちゃって……』
「なんだお前」
『じゃあすみません! 僕はちょっと外せない用事あるので……』
クマとの電話が終わってすぐに入華が近づいてきた。学校で話しかけるな、近づくなと口酸っぱく言われているが、これは入華から近づいてきたのでセーフだろうか。
「お前もオカルト研究会はいんの?」
「うん。個人的に」
「いや公的に入ることないけど」
がじっとくるぶしを蹴られる。
「いたっ!」
「お兄ちゃんのやつと関係なくって意味」
「わかってるよ……」
校内でこうやって並んで歩くのは何気に初めてなのではないだろうか、と感慨に耽っていると後方から可愛らしい声が聞こえてくる。
「輝倫くーん!」
俺も入華も同時に振り返った。
輝倫という名前は親戚ですら気を遣って呼ばないのに、こうも遠慮なく呼ぶ者はそうそういない。
艶がありサラサラの灰色の髪を揺らしながらその女子生徒は近づいてきた。
「えっと……新名先輩。どうしたんですか?」
彼女はヒロインのひとり、新名羽柔。羽柔リストなどという付き合うにあたっての条件が五十個もあるリストを作る狂人の三年生だ。しかしその顔はとても美しく、ムラなく染められた暗い灰色の髪も相まって儚く柔らかな雰囲気も纏っている。
俺と彼女の関わりは一度だけで、その件の羽柔リストを受け取って以来一切の会話もない。
なので当たり前のように輝倫くんなどと呼びかけられたことにも驚いた。
「あのね、輝倫くん」
「はい」
「私と付き合うことを前提に友達になって欲しいの!」
目を細め、にこりと微笑む。
「……え?」
俺のラブコメは、未だ始まったばかりだ。