46冊目
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目が覚めると、青茶の艷やかな毛並みが見えた。
「ジュード様、起きてください」
「‥‥‥」
「トレーニングの時間です」
「‥‥‥ハル」
「はい、おはようございます」
「‥‥‥おはよう」
やはり夢ではないのだと、どうやら落ち込む時間も与えてくれないらしい。
この山吹色の瞳のほっそりとした美しい猫が、いつも通りに起きて、トレーニングの時間だと言う。ジュードは起き上がると、猫になってしまった恋人のハルと向かい合った。
ここはハルの父ユーゴの部屋だったが、今はジュードの部屋になった。床の厚敷きで寝るのも、素足で過ごすのも、まあまあ慣れた。踵の潰れた靴にもそのうち履きこなせるかもしれない。ユーゴはよく転んでいたらしいが、サイズが大きかったのだろう。ジュードの足にはピッタリで、走ることは難しいが家の中で歩くのは可能だった。
「さ、トレーニングの時間ですよ」
「‥‥‥こんな時にも?」
「こんな時だからです」
猫の書を開いて閉じて、昨日は何度そうしても、ハルは人間に戻らなかった。その代わりに、ジュードはもう猫にはならなかった。
「私は別メニューで、この姿でどれだけの事が出来るのか試したいのです。それに、聖獣様と夢でお話ができましたよ」
「‥‥‥聖獣と?」
昨日も猫になる前に、猫の書から声がしたそうだ。
ジュードが支度をして自室を出ると、階段を下り、顔を洗う。ハルはジュードの足元で、夢の中のことを思い出しながら話した。
トラ様が少し大きくなったくらいの猫。まだ小さいが間違いなく銀の女神の聖獣で、ジュードから離れ、猫の書に戻ったとの事だった。ジュードの呪いは解けたらしい。
「そもそもジュード様の呪いは、女神様からではなく、聖獣様の悪戯?のようなモノだったそうです」
「悪戯‥‥‥?」
食品収納庫から冷茶を出す手が止まった。
「では、女神の呪いを受けたのは‥‥‥」
「警備隊長さんだけのようですね」
では何故、ハルが猫になったのか。
「これから毎晩、夢の中で少しずつ教えてくれるそうです」
「そうか‥‥‥」
それからハルは、大事なことを確認できたと言った。トイレと食事の問題だ。トイレは砂場ではしたくない、ジュードの気持ちがようやく理解できたらしい。
「配慮してくださったらしくて、猫になったまま時間が止まった状態にしてくれたのです。お腹も空かないし、トイレも大丈夫です」
「‥‥‥」
ジュードは、自分の時もそうして欲しかったと思った。
「それと、アイスクリームは食べても良いそうです」
「‥‥‥は?」
どうやら、ヴァージルのアイスクリームは、聖獣の故郷の地力を感じるらしい。それを聞くと何となく理解できた気がした。アイスクリームを作るのに、永久の魔氷銀石を使っているはずだ。もしかしたら、それ以外にも【ヴィラゲル】の地の何かを材料にしているのかもしれない。
「食べたアイスクリームは、体の中で魔力になるようにしたそうです」
「‥‥‥な、なるほど?」
聖獣は、随分とハルには甘い気がするが、ジュードの場合は聖獣の指輪を商人に渡した『お仕置き』も含まれていたのだろうから、文句は言えない。
「ジュード様、そろそろ‥‥‥」
「ん、ハル、肩に乗れるか?」
「はい」
ハルを抱き上げて左肩に乗せた。昨日はそこまで気が回らなかったが、軽過ぎる。これも聖獣の力だろうか。
「あの、重くないですか?」
「いや、逆に‥‥‥重さを感じない」
「それはこちらも助かりますが‥‥‥一応、今夜にでも聞いてみます」
キッチンの扉を開けて、いつも通りに四角い石を置いて扉が閉まらないようにする。
「「おはよう」」
夫婦は既にストレッチを始めていた。ハルが言うように、『こんな時だからこそ』いつも通りに日々を過ごす。その大切さを、ロス夫妻も知っているのだ。
「おはよう」
「おはようございます!」
* * * * * * * * * * *
陰の曜日。雑貨店は定休日だ。
ロゼッタは、古書店の店番をさせてほしいと言った。ここは安全だし、店の本を読んだり縫い物をしてのんびりすると言えば、夫も賛成してくれた。
接客には慣れているし、古書店には殆ど客が来ないことも知っている。
「ロゼッタさん。もしも本を売りに来たお客様がいらっしゃいましたら、後日のお支払いでも宜しければ、お預かりしてください」
「わかったわ。念のため連絡先を聞いておけばいいかしら?」
「はい、お願いします」
ハルとジュード、それからロンドの三人は、今から商業ギルドへ行くことになった。少しでも信憑性を高くできたらと、ハワード夫妻の友人でもあるロンドが同行してくれることになった。
「まあ、あの二人なら俺が行かなくてもキミたちを信じるだろうがね」
予定では、商業ギルドには水の曜日に行くはずだったのだが、昨日、ルーク・ブレイクに『出来ることから一つずつ解決していって欲しい』と言われたのだ。
青白い顔のルーク。ジュード自身も酷く落ち込んでいたので、何も言ってやれなかった。
「バートくんが来たら商業ギルドへ行ったと伝えていいのよね?」
「はい。午後には帰れると思いますが、よろしくお願いします」
しばらく店を閉めて、本の修理も受けないようにすることも考えたが、この姿でも魔法が使えることがわかったので、一先ず保留になっている。
商業ギルドに行って、代表のソフィア・ハワードか、夫で鑑定士のオリー・ハワードの、どちらかでも面会できたなら、猫の書の話をしなければならない。
「ロンドさん。せっかくの休みに、すまない。だが、一緒に来てもらえて俺は心強い」
ロンドは、弟のような存在となったジュードの肩をポンポンと叩く。まだ少し元気のない彼が心配でもあるし、自分が虫除けにならなくてはと思っている。
ハルが隣に居ない今、憂い顔のジュード・グレンを一人で街歩きさせるのはマズイと、妻のロゼッタが言ったのだが、まさにその通りだった。人通りが多い場所を歩き出した途端に、熱い視線を感じるのだ。
美形ってのは、ただ歩くだけで大変だな‥‥‥。
「ハルちゃん、苦しくないか?」
ロゼッタが布で簡単に作った紐付きの袋を、前側に斜め掛けしたロンドが話しかけた。
「こちらは快適です」
袋から頭をヒョコっと出した姿が愛らしい。
青茶の短毛種の細身の猫となったハルを、今ジュードの肩に乗せて歩くには目立ち過ぎる。かえって人を寄せてしまいそうなので、こうしているのだ。
「ジュード様、この姿でも依頼完了の手続きが出来るといいですね」
ハルが山吹色の瞳をジュードに向けると、ジュードは「そうだな」とハルの柔らかい額部分を撫で、そう出来た場合を考えてみた。
『ジュード様』から『ジュードさん』に、依頼人でなくなれば、ハルはそう呼ぶようになる。
「よしっ」
「おおっ?どうした?」
急に意気込んだジュードに、ロンドが驚いた。
商業ギルドの外階段を上ると、扉が開放された出入口に立つ顔見知りを見つける。
「デリックさん」
「おお、ロンド。ジュードさんも」
先日、雑貨店を訪ねて来たデリックが、今日の警備人だった。ロンドが十代の時、ここの警備をしていた頃の先輩で、アイザックがクビになった事で、ギルドに頼まれて復帰した。結んでいた茶色の癖のある髪は、スッキリと切ってしまったようで、警備の服装と、髭もキレイに剃ったことで、若返ったように見えた。
「今日が復帰初日だ。まさか二人とも、俺のこの勇姿を見に来たのか?」
「あ、いや」
「残念ながら偶然だ、デリックさん」
「ブハッ、正直な奴らめ。そこは『そうだ』って言っとけよ‥‥‥っと、いけねぇ。ようこそ商業ギルドへ」
「何を今更」
「ふっ」
三人で笑うと、デリックはロンドの腹の麻布の袋に視線を移した。笑顔が消える。
「動いたな。悪いが、知り合いでも確認させてくれ」
ロンドが困った顔をした。昔から仕事に手を抜かないのがこの人の素晴らしいところだ。
さて、どうしたものか。飼い猫を連れてきた、が無難だが、何故?と聞かれると困る。可愛くて離れたくないんだと、ジュードにそう言ってもらうのはどうだろう? 実際、本当にそんな感じだし‥‥‥。
「ロンドさん、デリックさんの言う通りに」
「ん?‥‥‥ああ、わかったよ」
警備ならば確認は当然だとジュードは思っているし、逆に信用できるというものだ。
ロンドは袋の中を見せた。
「‥‥‥猫?」
あ、どうも、おはようございます。
そんな顔で、猫が袋の中からデリックを見つめていた。青茶の艷やかな毛並みに山吹色の瞳。デリックは、顎に手を当てて、考え込むような仕草をした。
この色、見たことがあるな。
「んー‥‥‥この猫、魔力があるな。ただの猫じゃないだろう。使い魔なら登録証を出してくれ」
「あ、いや」
「まさか、違法素材‥‥‥」
「「違う」」
受付にすら辿り着けるかどうか、わからなくなってしまった。やはりハルを連れてくる前に、先に話を通しておくべきだった。
ここで調べられたり目立つようなことがあっては困るのだ。ロンドとハルには外で待ってもらい、ジュードだけ受付に行くしかない。
「わざわざ、猫を連れてきた理由があるのか?」
「‥‥‥ある。だが、急に来たこちらが悪い。俺だけ入って受付に行くのは構わないだろう?」
「そうだね。今日の面会と許可が無理ならば、出直そう」
デリックは溜息を吐いた。
「この猫の名前は?」
ジュードとロンドが顔を見合わせる。
「ハル、だ」
「‥‥‥ハル?」
猫が名前に反応したので、デリックはスッと手を伸ばした。どうするのかと見ていると、デリックは人差し指で猫の鼻をツンとつついた。
「お前さんの名前は、ハルちゃんか?」
そうです。
猫のハルは、黙って一度だけ瞬きをした。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥アイザック」
猫の目が皿のようになると、ブハッとデリックが吹き出した。
人の気配と話し声が聞こえて、中から年配の夫婦が出て来た。デリックは一度離れて「お気をつけて」とにこやかに挨拶した。
誰もいないのを確認すると、デリックは再びロンドの前に来て、猫の頭を撫でた。
「‥‥‥それで、誰を呼べばいいんだ?」
「シアという女性を‥‥‥」
「ちょいと待ってろな」
デリックが自分の耳のピアスに触れた。ロンドが慌てる様子がなかったので、ジュードは大人しく流れに任せることにした。
すぐに険しい顔のギルド員の男性二人が中から現れたが、デリックが「危険ではなく秘匿案件だ。受付はシアで頼む」と言うと、ギルド員の表情が変わり「ご案内します」と言った。
デリックは何も言わずに仕事に戻り、ジュードとロンドは、ギルド員について行った。
一階の個室に案内された。この部屋では魔法が使えないようだ。ソファーに座って少し待つと、シアが現れた。
「ロンド・ロス様、ジュード・グレン様、ようこそいらっしゃいました。本日は如何なさいましたか?」
「【月長石】の代表ルーク・ブレイクと俺が、ベネット古書店に依頼した本の修理が終わったのだが、どうにも相談しないとならない事態になった」
「失礼ですが、ハル・ベネット様はご一緒では?」
「‥‥‥来られない理由がある。ルークから預かった、修理を確認した書類とサイン、手紙がここにある」
「‥‥‥私がお預かりしても?」
「書類は渡せるが、すまないが‥‥‥、手紙はハワード夫妻のどちらかに必ず手渡すように言われている」
シアは少し考える素振りを見せた。ハルがいる時とでは随分と雰囲気が違うので、ジュードは驚いていた。ハルが来られないと聞いて、更にシアの表情が硬くなった気がする。
「鑑定士オリー・ハワードでしたら、そろそろ鑑定場から戻る時間ですので、今しばらく、こちらでお待ちいただけますか? その間に、グレン様も本の修理を確認出来ましたなら、サインをお願いします」
「わかった、宜しく頼む」
「急に来て申し訳ないね。ありがとう、シアちゃん」
ロンドが礼を言うと、シアはようやく笑顔を見せた。
* * * * * * * * * * *
「‥‥‥だったら、何時に帰ってくるかわからないね」
会計カウンターの椅子に座って縫い物をしていたロゼッタは手を止めて、客に冷茶を用意した。男はグラスを受け取ると、窓テーブルの丸椅子に座った。
「まあ、俺も早く来ちゃったからなぁ」
「時間があるならここで待てばいいわ」
「そうする。‥‥‥お姉さんは何を縫ってるの?」
バートはロゼッタを『お姉さん』と呼ぶ。何となくニヤけてしまいながら、バートに小さな服を広げて見せた。
「可愛いでしょう?ハルちゃんが赤ちゃんの時に着ていた服を、頼まれたから猫ちゃん用にしてるのよ」
「わ、ちっちゃ!」
「ふふ、本当はトラ様に着てもらうつもりだったんだけど、ハルちゃんが着ることになってしまったわ」
「これ着て人間に戻ったら大変なことにならない?」
「伸縮できるよう魔法をかけるから大丈夫よ」
バートが目を丸くして「お姉さんてスゴイんだね」と素直に褒めると、ますます気分良くなったロゼッタは鼻歌で縫い物の続きを始めた。
「あのさ」
「ん?」
「この前の奴らに襲われることは、もうないと思うよ」
冷茶を飲んで窓の外を眺めながら、バートが言った。
「‥‥‥そうなの?」
「うん」
ジュード・グレンが関わった、商人の方はまた別だけど。
冒険者ジュード・グレンに依頼した『聖獣の指輪』の入手方法について説明が不十分だったばかりか、指輪を手放したことで呪いを受けたジュードに、金だけ渡して『自分でどうにかしろ』と突き放したのだ。
更に、本はもう要らないと言ったのに、やはり必要となったら、他人を利用して取り返そうとした。ハルをも巻き込んだ。
やり方が汚いんだよ。
派手に古書店の窓が吹き飛んだあの騒ぎで、さすがに引いて大人しくなったようだが。
「教えてくれたのは、私を安心させるためね? バートくんは優しいわね」
「‥‥‥」
バートはロゼッタの言葉に振り向いて瞬きした後、冷茶を飲んでまた窓の外を見た。耳が赤い。冷茶のグラスはカラになっていた。
「冷茶のおかわりは?」
「うん、ください。‥‥‥今日は暑いね」
「ふふ、そうね」
* * * * * * * * * * *
鑑定士オリー・ハワードの判断で、代表室へ行くことになった。
「先に言っておくよ。ちょっと嫌な思いをするかもしれないけど、我慢してくれるかい?」
嫌な思いとは何なのか、ジュードとロンドが案内された代表室で、紅茶を運んできた人物を目にした時に、なるほど、と理解した。
「‥‥‥どうぞ」
「‥‥‥どうも」
紅茶と菓子をローテーブルに並べる。
「「「‥‥‥」」」
「もう下がっていいよ、アイザック」
「‥‥‥はい、失礼します」
ギルドの元警備の男は、白い歯が売りの作り笑顔が消えて、無愛想になっていた。
読んでいただきありがとうございます。




