28冊目
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腹筋と背筋、腕立て伏せを終えて、膝の屈伸運動を始めた。両手にそれぞれ、握れるほどの大きさの丸い加重石を持ちながら、足を前後に開いて、片足を後ろの煉瓦の壁の出っ張りにかけて、腰を落としては戻す。それを左右で繰り返した。
「ふぅ」
芝生に座って、身体を休ませた。首を回していたら、煉瓦の壁から覗いていたロンドと目が合った。
「っうお、ロンドさん驚かさないでくれ!」
「はは、見つかってしまった。おはよう」
「おはよう、早いな」
ロンドは時々気配を消すのが上手いと思うことがある。店主になる前は何をしていたのだろう。いつか聞いてみようか。
「今日はロゼッタと出掛けるよ。うちは陰の曜日が定休日なんだ。ジュードくんがいたから、早めにコーヒーを入れようかと思ったんだが、マグカップを渡してくれるか?」
ジュードは近くに置いたボディバッグから山吹色のマグカップを二つ取り出して、ロンドに渡した。
「ハルちゃんのマグカップは‥‥‥ないよな」
「ハルはまだ寝てると思うが‥‥‥」
四角い石で少し開けてある裏口の扉からキッチンを見たら、ちょうど階段からハルが下りてきた。
「あ、おはようございます」
これから顔を洗いに行くところだったようだ。
「おはよう。ロンドさんたちが今日は出掛けるから、今からコーヒーを入れてくれるそうだ。マグカップあるか?」
「用意します」
持っていた魔法鞄を椅子に置いて、灰色のマグカップを取り出した。ジュードに渡そうとして、壁の向こうのロンドに気がついた。
「おはよう、ハルちゃん」
「おはようございます。お願いします。ロンドさん、今日も早くお出掛けするのですか?」
「そう。市場と、その後にランチデートをね」
「ふふ、楽しんできてください」
「ありがとう。じゃあコーヒー入れてくるよ」
ジュードが外で待つからと言ってくれたので、任せてハルは洗面所へ行った。顔を洗ってクリームを塗り、薄い化粧をして、簡単に結んでいた髪を革紐で結び直した。最近は普段使いでこの革紐が気に入っている。
キッチンに戻って、パンケーキを焼く準備をした。そのうちジュードが裏口から戻り、ハルはコーヒーが入ったマグカップを受け取って魔法鞄に入れた。
「ロンドさんが言っていた市場って?」
「毎週ではないのですが、陰の曜日に、魔法道具や素材が売り出される市場があるんです。普通の雑貨もありますよ。商業ギルド近くの広場です」
「そんなのがあったのか。市場と魔法道具店では何が違う?」
「店を持たない無名の職人さんが自ら出店したりもするんです。違法性がないか、商業ギルドも見回りも兼ねて参加してるんですよ」
「なるほど、面白そうだな」
「ロンドさんやロゼッタさんも、以前は出店したことありますし、買い付けもしてるんです。気に入ったり気が合ったりした場合は、それ以降も取引相手になったりします。父もふらりと出掛けていましたよ」
「あぁ、そんな感じがするな」
ジュードが、ははっと笑った。
シャワーの後、ハルがパンケーキの最後の一枚を焼くのを横で見ていたジュードが、皿を持った時にふと思い出した。
「そうだ、ハル。ギルドで彼女に会ったぞ。ベーグル屋で俺たちの後ろにいた‥‥‥」
「えっ」
「うわ」
フライパンがこちらに向いたので、ぶつかりそうな皿を上にあげて避けた。料理中に話すべき話題ではなかったようだ。
「ご、ごめんなさい。‥‥‥もう焼き上がりましたのでお皿に乗せますね」
「いや、俺が悪い。ふっくらと焼けたな」
「食べましょう」
嬉しそうなハルに女性冒険者のフレイヤと会った時の話をしながら、パンケーキとサラダをコーヒーと一緒に食べた後は、食器を洗って乾かし、開店の準備をすることにした。
「パンケーキにバニラアイスクリームか。では次に‥‥‥、外に誰かいるな‥‥‥ん?これは」
ジュードが窓テーブルまで行って、カーテンを開けた。
「何でお前がここに」
「お知り合いですか?‥‥‥え?」
窓の外から濃紺のフード付きローブを着て手を振る男。フードから少しだけ見えた月白の髪に、ハルは驚いた。
「え?ルーク様?え?」
ジュードが鍵と扉を開けると、吊り看板が認識できて「おお、なるほど」とルーク・ブレイクが呟いた。
「ルーク、どうしたんだ?」
「やあ、おはよう。少しだけ時間をもらって来たんだよ。古書店と雑貨店が見たくてな」
「ルーク様、おはようございます。どうぞ中へ」
「ありがとう」
ルークは古書店に入り、店内の空気を楽しむように目を閉じて深呼吸した。
「あぁ、いいね。落ち着く」
窓テーブルの椅子を出して、ジュードとルークが座る。ハルはキッチンで昨夜作っておいた冷茶を小型食品収納庫から出してグラスに注いだ。トレイにのせて窓テーブルに持って来るとジュードがグラスを取ってルークに渡した。
「冷茶か、ありがとう。今日は少し外は蒸すな」
「そんなの着てると余計に暑いだろうな」
「美しいと大変なんだよ、お前もそうだろ?」
「自分で言うな」
ハルももう一つの丸椅子を少しだけ離れて向かい合うように座った。
「ルーク様、先日はありがとうございました。あの、隣の雑貨店は今日は定休日で、ロス夫妻は市場に出掛けているんです」
「そうだったか。残念だが、またの機会にするか」
冷茶を飲む仕草も絵になるルークが、グラスをテーブルに置くと、ハルに、果実酒は美味しく飲ませてもらったと言った。
「アーロ‥‥‥副代表のアーロ・アーレントと仕事終わりに飲んでね。濃厚なチーズケーキと良く合ったな」
ルークが魔法鞄から化粧箱を出した。ミルクを入れたコーヒーのような色だ。
「これがそのチーズケーキだ。コーヒーにも合うだろう。二人で食べてもいいし、雑貨店の夫婦と一緒に食べてもいい。八個入りだ」
「じゃあ、皆で食べようか」
「はい、そうしましょう。ありがとうございます」
「化粧箱は汚れにくいコーティングがされているから、そのままハルちゃんが小物入れにするといい。女性に人気だそうだよ」
「素敵な色だと思っていたんです。そうですか、小物入れに‥‥‥」
ハルは何を入れようか考えながら、化粧箱を食品収納庫に入れるためにキッチンへ行った。ハルの後ろ姿を見ながら、ルークはジュードに小声で話した。
「ジュード、答えは出たか?」
「ずっと一緒にいたいと言ったら、ハルも同じ気持ちだと。猫のままでも、と‥‥‥そう言ってくれた」
「‥‥‥そうか」
ルークは何だか羨ましくなった。そんな風に想い合える相手に出会えたジュードに。弟のような存在の友には、人として幸せになって欲しい。
ハルが戻ると、ルークは一日でどのくらい進んだかを聞いた。
昨夜は寝る前にも少し修理をした。ジュードが持っている魔力回復薬を飲み、休憩したら更に少し修理をして、それから眠った。昨日だけで三十頁分の修理は終えていると言うと、ルークは「進んだな」と驚いていた。
少し考えて、魔法鞄から半透明の小瓶を八本出した。魔力回復薬だ。
「依頼人の俺からだから、遠慮なく受け取るように。使うのは一日置きかそれ以上空けるのが望ましい。毎日はダメだ。これは、必ず守ること」
いいね?とルークがハルに言った。ハルは頷いて、それでもできる限りのことはして余裕も欲しいルークの気持ちが伝わった。いつ何が起こるかもわからないのだ。
「次の新月だが‥‥‥」
「「!」」
「十九日後になる。土の曜日だ。かなり厳しいかと思っていたが、随分進んでいるので間に合うだろう。しっかり間違いなく準備をするために、ジュードは、本‥‥‥猫の書にしっかり目を通すこと」
「わかった」
週に一度か二度は、修理状況を報告することにした。
「最終的に可能だと判断したら、前日に馬車を用意する。【銀の女神の神殿】に最も近い宿も。猫の書に何かないとも限らないから、ハルちゃん、悪いが前日の風の曜日と土の曜日は店を休みにしてジュードと行ってくれるか?」
「勿論です」
「ハル‥‥‥」
「同行者は二人。一人は信頼できる人間だが、ハルちゃんのために、もう一人は女性を付けたいと思うが‥‥‥どうだ?」
ジュードを見た。女性が苦手なジュードが嫌がるなら、ハルには女一人で我慢してもらうしかない。
「それなら、フレイヤはどうだろう?ベーグル屋と昨日ギルドの受付で会った。もう少し話をしてみたいが、彼女なら。実は、ハルも会いたがっていて‥‥‥」
「‥‥‥フレイヤ。C級冒険者のフレイヤかな?‥‥‥まあ、少し気は短いが素直だと評判だし、性格は良いようだな。わかった、考えよう。まずは護衛という形で依頼するから、もし近いうちに彼女と会っても、こちらが判断するまで、このことは話さないでほしい」
「わ、わかりました」
残りの冷茶を飲みきったルークは、店内を少し歩いた。
「珍しい古書があるな。それに何だか、この古書店には不思議な魔力があるな。加護に近い‥‥‥例えようもない、何か‥‥‥」
悪意があると店に入れない、その事だろうか。
「まあ、いい。また時間を作って来よう。雑貨店の夫婦にも挨拶したい。それから、これをハルちゃんに貸そう」
ルークがハルの前に来て、自分の手首から月白の髪に似た色のバングルを外し、ハルの右手首に勝手につけた。スッと手首に合う大きさになった。月白の髪をかき上げて微笑む。
「え?」
「ルーク!」
「装備してる時だけ魔力が増える。修理の間だけ貸すよ。国宝レベルだから、内緒だぞ?」
ルークは何かを呟くと、バングルが消えた。
「目には見えないが、触るとわかるだろ?」
「あ、はい。確かにあります‥‥‥え?国宝レベル?」
「ルーク‥‥‥」
ジュードが顔を顰めて、ハルは固まった。簡単に壊れないし、普通に過ごして大丈夫だから、とルークは笑った。ハルの頭をポンポンとした。
「触るな」
「おやおや、恐いから帰るとするか」
古書店の扉を開けてルークがニヤニヤしながら、ジュードとハルを見た。
「頑張れよ」
フードを被ったと思ったら、もうルークは消えていた。扉が静かに閉まった。
「‥‥‥」
「‥‥‥風みたいな方ですね」
ハルがグラスを片付けようとトレイに乗せたら、ジュードが俺が運ぶと言って、トレイごと受け取った。その際に、ハルの頭をポンポンとした。
「ジュード様?」
「な、何でもない」
子供じみた嫉妬に恥ずかしくなり、ジュードは少し顔が赤くなってキッチンへ向かった。
ハルは右手首に触れながら大事なバングルまで貸してくれたルークに感謝し、絶対にやり遂げようと決意した。
「ルーク様、お忙しいのに来てくださったんですね」
ハルがグラスを洗って、ジュードが風で乾かした。
「いろいろ考えての事だろう。わざわざ午前中の営業時間を選んだのは、ここには【月長石】のギルマスが来るぞと、わざと教えたんだ。カルロスたちにも、他の奴らにも」
「では、ジュード様の兄を騙った人たちが?」
「俺がここにいると知ったのだろうな。だからルークが動いた」
「またあの人が喋ったのでしょうか?」
ハルが無表情になった。
アイザックは相当嫌われたようだ。自分も他の女性に対して無表情だと言われているが、こんな感じなのだろうか‥‥‥。
「アイザックは、週に一度しか商業ギルドの警備に立ってないのだろう?他の日は何をしているんだろうか?」
「さぁ、興味ありません」
「‥‥‥‥‥‥話題を変えよう」
昼の休憩時間までもうしばらくあるので、古書店の拭き掃除をすることにした。昨夜は魔力回復薬も使ったので今日はどのくらい修理ができるかわからないが、午後に集中することにした。
滅菌洗浄済みの古布で棚の上から拭いていく。よく見ると古布はユーゴの肌着を使いやすく切った物だった。
「ハル、ユーゴさんのループタイやアスコットスカーフを装飾品に使ったらどうだ?髪紐やリボンに出来そうだ」
「そうですね!良いかもしれません」
ハルの声が明るくなったのでホッとした。アスコットスカーフはハルと同じ髪色、つまり妻のロッティの髪色だった。リボンにしたら髪色と同じで目立たないかもしれないが、それがシンプルを好むハルにちょうど良いように思う。ループタイの留め具はスモーキークォーツで、ユーゴの髪と瞳の色に近いのだろう。髪留めに加工できないか、雑貨店の夫婦に相談しようと言ったら、嬉しそうな顔になった。
十二時になったので、店の鍵とカーテンを閉めた。昼食はプレーンベーグル二個と、オレンジ&ホワイトチョコレートベーグル。プレーンにはレタス・チーズ・トマト・生ハムを挟んだ。
「オレンジ&ホワイトチョコレートは軽く焼いてカットしてそのまま食べましょうか」
「スイーツ感覚だな。飲み物は癖のない紅茶にするか。コーヒーは午後の休憩時間にアイスクリームと食べよう」
「いいですね」
休憩時間を楽しみに、午後は猫の書の修理をしてジュードは本を読むことにした。
「今日は十二頁分が修理できたら、きりが良さそうなんです。明日、午前中に猫の書を読み始めますか?」
「そうだな。では【勇者ディラン・ランディの冒険 下】は今日中に読み終えるようにしよう。勇者たちはいよいよ魔王との決戦だ」
「そこは集中が大事ですね」
食べ終わり紅茶を飲んだら、ハルが食器を洗ってジュードが乾かす。
ジュードがこの先も冒険者として生きていく以上、ハルが一人でいる時間は今より多くなるだろう。それでも、ここで過ごす穏やかな時間がこれからも続けばと、ハルもジュードも願った。
読んでいただきありがとうございます。




