一、
いつからか、私は毎日死にたいと思いながら生きるようになっていた。何故だろう、それもよくわからない。ただ生きているのが苦痛で、自分のいるべき場所にいたくなくて、消えてしまいたくて。ずっと心の中で死にたいと呟いていた。
それでも死ななかったのは、死ぬ事で迷惑をかけてしまうから。生きる価値もないけれど、死ぬ価値もないと思ってしまうから。何よりこんな自分でも大切にしてくれる家族がいるからで。手首を切ったこともあるけど、それでも死ぬほど深くは切れなかった。家族の顔が浮かんできて、私の手を止めるから。
家族のありがたみなんて特に感じたこともなく、あって当然のもののように生きてきて。当たり前のように家を出て一人で暮らすようになって、いつしか一緒になった妻と、ようやくできた子どもと過ごして。
親の顔が浮かんで死ねない、妻の、子どもの顔が浮かぶなんてどうかしているのだろうか。自分の中でそんなにも価値があるものだなんて、こんな状態にならないと気づけなかったのだから、やっぱり私は愚か者で生きる価値なんてないのだろう。
そしてまた死にたくなるのだ。
自殺する夢を見たり、誰かに殺される夢を見たり、殺されることを願う気持ちばかりがあって。でも実際そんなことになればまた家族に迷惑がかかってしまうからそれも駄目だ。自殺も他殺も無理なら事故死か、さてどうやってまわりに迷惑をかけずに死のうか。そう考えてばかり。
答えが出たことがないから今も私は生きていて、きっとこれからも死ねない。家族から受けた愛が私にとっては呪いだった。
愛と感じたことはなかった当たり前の日々が、いつしかこんなにも強く私をしばりあげるものになっていることを家族の誰も知らない。私が死にたがってこんなにも死について考えている事を、家族は知りもしない。
この事を知っているの私と、書き上げてきた物語の主人公たちだけ。
彼らは私なのだ、私が生きてみたかった私。死にたくなることが生きているための呪いになってしまった私の、沢山のかけらたちなのだ。]
真っ暗な部屋に、明々と輝くのはパソコンの画面だった。流石に今日は山場で、ずっと画面を見つめて作業をしていたため眉間が痛くなっていた。また視力が落ちてしまうだろう。
そろそろコーヒーでも飲まないと。頭がぼんやりとして思考がまとまらなくなってきていた。立ち上がろうとするとめまいがして目を瞑った。
ーー無理だ、動けない。
仕方なく側にあったタバコに手を伸ばし一息つく。急に動こうとすると良くない、歳を重ねてきて気になるのは老化のことばかり。三十手前になってきて、徹夜や夜の仕事は身体に悪い事しかない。画面の見過ぎで目が痛い、眉間が痛い、作業が行きづまり頭が痛い、凝り固まった首や肩が痛い、座ったままて腰や足が痛い。
この頃は食も細くなってきて、寝るにも寝付けない日が増えて体力の回復も遅くなった。老化とは、回復までも遅く、少しずつ弱っていく事を実感する事なのだろうと思い知らされた。
溜息が溢れて、すっと深くタバコを吸い込んだら一気に眠気に襲われた。
今は何時だろうか、昼に加藤が来るからそれまでは寝てしまおうか。とりあえず書き終えただけの文章になってしまったが、これでも納得してくれるだろう。一区切りついたと思うくらいには原稿は仕上がってきていた。
何度かデータを保存して、これでもう消えない、大丈夫だと確認して少しだけ安心する。パソコンの明かりを消して、そのまま後ろに倒れた。冬から出しっぱなしの炬燵が少し暑くなってきたが、まだ明け方は布団が欲しい。炬燵布団を引っ張って首元までかぶり、眠ることにした。
腹が減っている、のども渇いた気がする。それよりももっと、何をするよりも寝たい。今は何も考えず寝なければならないと、警鐘がなっているのだ。起きてからでないときっと身体を動かす事もつらいからと、とにかく言い訳をたくさん並べているうちに意識は飛んだ。
今日は生憎のかんかん照りで、汗っかきの僕には地獄でしかない。まだ五月だというのにこのところ夏日だのなんだのが続いで、季節はもう変わってしまったようだ。梅雨も湿気がまとわりついて嫌いだが、夏はもっと嫌いだった。
今日は待ちに待った原稿を受け取りに行かなければならない。嬉しい反面、昼時に約束していた事だけが恨めしい。
それもこれも堀田さんが夜型で、原稿は夜に書くもんだと常々言っているからだ。締め切りの日はいつもギリギリまで書いて寝落ち。お昼にご飯を買ってから家に生存確認に行くというのが、ルーティン化していた。
今時メールで原稿を渡してくれれば問題がないのだが、あの人には生きる事に問題がありすぎる。放っておくと死ぬかもしれないってタイプのダメ男だった。
弁当屋によって予約していたおばんざいセットを受け取った。この一瞬だけでも涼めるのが嬉しい。
堀田さんが住んでいる場所はここから十分程度のところ。もう少しの辛抱だ、そう言い聞かせながら日差しを浴びていた。
今回は死んだように寝ているのか、また先月のようにしれっと締め切り延長を言ってくるのか、どっちだろうか。あの人は書き始めれば早いんだが、それまでが遅い、いや長いのだろうか。
僕らは打ち合わせというものをほとんどしない担当と編集だった。そもそもあの人が何も受けつけてくれないせいなのだが、それでもそれなりに人気があるから注意もできていない。あの人の書くものには不思議な魅力があって、なんだか簡単に読み終わってしまうのだ。読みやすいというか、すいすいと進んでもう終わりという感じと、いえばいいのだろうか。僕の仕事はあの人が死なないように時々見に行く事と、あの人の書くものを大切に読んで読んで読みまくってもっと良くする手助けをする事。言い合いになりながらも、あの人は自分でもダメだと思った事だけは聞くから。
本当は悪い人ではないんだけど、別に悪い人ではないのだろうけど、ダメな人。それが堀田煌という男なのだと思う。
日差しの強かった大通りから住宅街へと曲がると、家の影があって少し涼しく感じた。汗をタオルで拭きながら歩き続けて、タオルがもう蒸しタオルになりそうだ。きっと絞ったら汚い水分が出てくるのだろうと思うと、自分でも気分がいいものではない。
早く着けばいいのにと思うだけで、暑さでだるい足は速くは動かなかった。
もう少しなのに足を止めて自動販売機でコーラを買ってしまった。炭酸の爽快さで少し気を紛らわそうとしていたのだが、炭酸という炭酸はみんな売り切れだった。
諦めて次の自動販売機を待とう。
この辺りは専門学校やら大学の近くで学生が多いせいか、アパートの周りに自動販売機が多くある。こんな日の僕にとってはありがたい。
結局堀田さんの住むアパートの前まできて、やっと見つけたファンタオレンジを飲む事になった。三個買ったら売り切れになってしまって、これではきっと足りないだろう。ついでに水とスポーツドリンクも買って行こう。原稿ができていれば、あの人は死ぬほど飢えているだろうから。
二階の真ん中の部屋、合鍵で部屋に入ると、むっとした空気が溢れてきた。窓も開けずに何日もこもっていたのだろう。部屋に入っても全く涼しくない事に呆れ、悲しみ、そして台所を抜け狭いリビングの戸を開けた。
ざっと、音がして強い光が瞼から透けて見えた。
「……眩しい」
炬燵布団を目深に被り、もう一眠りしよう。
寝返り頭の位置を探っていると今度は窓の開く音がした。
「堀田さん、時間ですよ」
加藤の声だった。もうタイムリミットだったらしい。逆光で暗いが、多分パソコンを開いてチェックしているようだった。
「おはよ、加藤くん。眩しいからカーテン閉めてくれるかな。あと窓も」
「ダメです、少しは陽に当たってください。窓は開けないと僕が溶けます」
いつの間にか、押入れにあったかなかったかよく覚えてない扇風機を出してきて風に当たっていた。
「本当はエアコンつけたいんですけど、堀田さん寒がりだし、炬燵あるし訳わかりません」
身体を起こしてテーブルに顔を預けた。
近くに見えた彼の顔には汗が粒になって光っていて、真剣にパソコンを見ながらも手はタオルを掴んで顎のあたりを押さえていた。
「君はなんで、それほど太ってもいないのに、そんなに汗が垂れるんだろうね。俺にはそっちのが不思議なんだけどな」
加藤は少し顔をこちらに向けると、またパソコンに視線を戻した。
「ご飯と飲み物は買ってきましたから、とりあえずシャワー浴びてください。臭いです」
加藤が指差した方に好きな弁当屋の袋とペットボトルが置いてあった。彼が来るときはいつも買ってきてくれて、俺の命はいつも救われている。年下だった気がするが、まるで母親のようだ。
「え? 臭いの俺? 君の汗じゃないの?」
冷ややかな視線で睨まれて、答えはなかった。
ふうと息を吐くと唇の端が切れて慌てて抑えた。飲み物をいただき、まずはたばこを吸いたい。シャワーは後回しだ、この前はいつだったかな、三日前かもしれない。
袋に手を伸ばして手繰り寄せ、いい匂いを嗅ぐとお腹が鳴った。やっとまともに飯が食える。
彼が買ってきたのはおばんざいが何種類も入ったセットを三個、それとおにぎり十個。いつもこのくらい買ってきてくれるので、外に出たくない俺としては助かっていた。
彼は俺の事はもう見向きもせず、自分の家のように原稿を印刷し始めていた。自分の分と彼の分と、予備分と。いつもとても時間がかかるのだが、彼は紙でしか作業しないので仕方がない。
彼は一番の俺の読者で、そして共に作品を作ってくれる戦友なのだろう。俺には唯一と言っても過言ではない、友なのだ。
「また主人公は死ぬんですね」
加藤がぼそっと言った。
「俺は死ぬ場面から小説を書いてるからね。その人がこう死ぬためにはどんな人生を送ったのか、って想像しながら組み立てるから」
もう何回言ったかわからない台詞をまた返した。このやり取りも毎回のように行われる、いわゆるお約束になってしまっている。
「今回は小説家なんですね」
「うん、俺とは違って結婚して子どももいる人だけどね」
「ネタバレしないでください。楽しみが一つ減りました」
加藤はこういう男だった。まずは自分が楽しんで読んでから、仕事に入る。俺はこういう些細なこともすぐ言ってしまう素直なところを買っている。
彼がゆっくりと読む間、俺はゆっくり飯を食って、さっとシャワーを浴びてもうひと眠りする。夜には一緒に酒を飲みながら感想を聞いて、深夜には帰っていく。
数日後にまたきて修正箇所や疑問を持ってきて、俺と喧嘩して、帰って、また来て。それを三年も続けているのだ。なんとも健気な男である。
新人作家と新人編集で出会って、手探りで仕事をしてこの形になって。よくもまあこんな俺を投げ出さずに共に頑張ってくれているなと感心してしまうほどだ。
俺がもっとまともで売れる作家だったら、彼はこんなには苦労しないだろうに。そう思った事もある。俺は結局ほどほどな作家で、ほどほどな人生を送るだけの人間なのだから。
「これは君へのプレゼントのようなものだからね」
半分ほど印刷し終わり、とりあえず読む事に集中し始めた彼には聞こえなかったようだ。
俺はいつものようにゆっくりと食事始めた。
「今回は、なんというか現実味のある話ですね」
「そうだね、話を作る人という意味では俺と同じだから。気持ちや状況とか、まんま俺の部分もあるよ」
「それはわかりました。この話では堀田さんよりもだいぶ病んでる感じがしますけどね」
「いや。まぁ、でも彼には恋人、あ、奥さんがいて支えてくれてるから。子どもが生まれてからは幸せそうでしょ」
「やっぱり恋人の存在は重要だと思います。でもこの子どもも含めて問題だと思うんですけど、堀田さんの経験値が低いのがバレバレです。嘘っぽいです」
「やっぱり子どもとの生活はね、ちょっとした事ないからね」
「いや恋人のところからです、支えてくれてるのはわかりますけど、なんかもっとこう恋的な感情とか葛藤が欲しいです。人間らしさが足りません」
「いや君も恋人いないでしょ、そんな知った風な口で……」
「僕彼女いますから、結婚前提で。そろそろ結婚考えてますから、一緒にしないでください」
覚えていたのはそれくらいだろうか。
昨日の記憶が曖昧で、はっと目が覚めたのは夕方だった。
「恋人がいたのは意外だったな」
彼は俺のように堕落した生活を送っていると思っていた。俺に恋人がいたのはいつのことだったか、そんなことはなかったかもしれない。
夕暮れの空、オレンジと紫の混じった綺麗なのか汚いのかよく分からない空だった。ベランダにでて、深呼吸する。夏の匂いがした。
火をつけて一口しか吸っていない煙草の煙が風で飛ばされて散っていく。
とてもいい夜だ、気分がとても良かった。
沢山の物語を書いて、俺はすべての作品において主人公だった。勇者だったり、社長だったり、女になった事もあったし、妖怪になったこともあった。世に出なかった物語もあれば、頭の中で考えたものの書き起こしていないものなんてもっとあると思う。夢を見て惚れ込んだけれどよく思い出せない物語もある。
つまり、自分が誰であるか、とても曖昧になってしまったんだ。
全ては俺の人生であり物語である。
そう思うと、とても豊かな沢山の人生を歩ませてもらったと思う。頭の中でしかないが、物語は物語でも、それは夢の中だとしても、俺はそれを俺の物語だと思っている。俺の人生だった、とても幸せだったのかもしれない、とても不幸だったのかもしれない。他人にはどう言われるかわからないが、とても濃密で満たされたものだとは思う。
沢山の物語を読む、書くことで俺は世界を知って、世界を生きてきた。生活の一部ではなく、全てだったと思う。それは今までもこれからも変わらない。