4.あたしも小さい頃そうだったから
――その日、サンダルクト南に位置するベスレム総合病院はいつになく、子供たちの活気ある声に満ちていた。
解放された多目的室に集まった入院中の子供たちは、自らが病気やケガに苛まれていることなど忘れたかのように、彼らの輪の中心にいる若いシスターが教えたメンコ遊びに目を輝かせて熱中する。
初めこそ、基本的なルールを理解はしても、カードを叩き付けることの何が面白いのかと半信半疑だった子供たちも、遊んでいるうちに、場のメンコを裏返すために色々な技術があることや、そもそもメンコをうまく叩き付けたときの小気味よい音にハマってきたのだろう。
今では、メンコ一枚の行く末に一喜一憂していた。
「……あ~!
っくしょー、また取られた!」
勝負用ステージにと借りてきた、小ぶりな机の上で裏返った自分のメンコを拾い上げ、少年は悔しそうに拳を震わせる。
「あっはっは、まだまだねー。
それじゃ、あたしたち女子チームには勝てないよー」
彼らにメンコ遊びを教えた張本人のシスター――教会の慈善活動でやってきていたマキは、少年の手から取り上げると、にまっと無邪気な笑みを浮かべた。
「シスターが味方につくの汚ねーよー」
「なーに言ってるの。少しのハンデぐらい乗り越えてこそ男でしょ?
……ほら、グチってるヒマがあるなら修行修行!
油断してると、あたし以外の女の子にも負けちゃうよ?」
マキは、後ろで練習中の少女を指す。
その片足を骨折しているらしいギプスに松葉杖といった格好の少女は、それでも器用に、いい音をさせてメンコを机に叩き付けていた。
「う。く、くそー……よーし、男チームしゅーごー!
修行だ修行ー!」
「……お、火が付いたか。ホント、男ってのは修行とか好きよねえ。
ま、あたしたちも負けないように頑張ろうっ」
「おー!」
少年やマキの号令に応じて、男女それぞれの声が挙がる。
おりしも、部屋の備品である大きな移動型のホワイトボードには、さすがにメンコ遊びに興じるほど体調が良くなかったり、そうでなくても裏方の方が好きな子供たちが集まった『大会委員会』によるトーナメント表が張り出されたところだった。
「本当、神父様たちのおかげで助かりましたわ」
廊下から、子供たちが盛り上がる多目的室の様子を見守っていた医師のポーラ・リンケードは、傍らに立つ若い神父に、何度目になるか分からない礼を述べる。
「お礼ならこちらが言いたいくらいですよ。
こちらからの連絡をいただかなければ、マキ君に、大嫌いな礼拝堂掃除を押しつけるところでしたからね」
そう答えて、マキがアルバイトでシスターとして仕事を手伝っている教会の管理者、神父のアーサー・マリーゴールドは柔和に笑った。
「……情けない話です。
少しでも入院中の気晴らしになればと、学生の頃、しばらく滞在していたことのある日本で目にした、昔の遊びの話を子供たちに聞かせたら、想像以上に興味をもたれてしまって。
でも私の知識など大したものではないし、そもそも日本の遊び道具なんて実物がないしで……結局、助けていただくことになってしまうんですから」
「いえ、あなたはご立派ですよ、ポーラ先生。
子供たちに、他国への興味と理解という、大切な想いの種を蒔かれたのですから。
僕たちは、それが芽吹くのを少しお手伝いしただけです」
「『僕たち』なんてよくもまぁ平然と。
……神父様、なーんにもしてないじゃない」
二人の会話に、そんな不満げな声を差し挟んだのは……。
一息つくためか、子供たちの輪を一人外れて廊下に出てきたマキだった。
「メンコはウチのパパが集めてたやつだし、ここまで車運転したのもあたしだし」
「ははは、気付かれましたか。
ではそうですね、僕はマキ君の分まで神へ祈りを捧げるとしましょう。
……というわけで、次の日曜礼拝の準備、適当にサボっていいですよ」
「うわ……。いいのかなぁ、聖職者がこんなことで」
「そうですね、いけませんね。ですからやっぱりキチンと仕事して下さいね」
「……べらんめー。
つまり結局、何らあたしに報いようという気はないわけか」
軽妙なやり取りを交わす二人の様子に、ポーラはさも可笑しそうに笑った。
「マキさんも……今日は本当にありがとう」
「えっ? もう、やだなぁ先生。
こっちも楽しんでるんだから気にしないで下さい」
はにかみながらマキは自身のポニーテールをなでつける。照れ隠しのクセだ。
「……でもすごいですよね、子供って。
あたしが教えたのは基本的なことだけなのに、この短時間で自分たちなりのルールも交えて、みんなが楽しめるように、自分たちで色々工夫していくんですから」
「ええ、そうね。私たちもここから見ていて驚いたもの」
「――あの、リンケード先生?」
唐突に第三者に名を呼ばれて、多目的室内に見入っていたポーラは振り向く。
彼女を呼んだのは、若い看護士だった。
「あの、ロイは……そろそろ病室に戻った方が……」
「え? ああ、そうね……」
ちらりと腕時計に目を落とした後、ポーラは一つ息を吐いた。
「盛り上がってるところをかわいそうだけど……しょうがないわね。お願いできる?」
「はい、分かりました」
看護士もまた、どこか残念そうにうなずくと……部屋に入り、ホワイトボードの前にいた10歳前後の少年を連れだしてくる。
自ら積極的に参加することはなかったが、ともすればはしゃぎすぎそうになる子供たちを上手く抑え……裏方の中心人物となってよく自分をサポートしてくれた、集まった中では年長の部類に入るその少年、ロイ・ドレフィスのことは、マキもよく覚えていた。
ロイは連れ出された部屋を、いかにも名残惜しそうに何度も振り返っていたが、自分が抜ける理由に納得しているのか、手を引く看護士に逆らおうとまではしない。
しかし廊下にマキがいるのを確認すると、看護士を逆に引っ張るようにして近付いてきた。
マキは自ら片膝を付いてロイを迎えると……。
先程までの遊びの興奮、その正常な余韻としては少々行き過ぎと思われる、少年の熱を帯びた額から頬にかけてを、そっといたわるようになでてやる。
「ちょっとムリしすぎたみたいね、ロイ?
また今度来るから、今日はもうゆっくり休みなさい?」
「……ホント? ホントにまた来てくれるの? お姉ちゃん」
「あなたがいいコにしてたらね。
……いや、んー、それよりも……あたしがいいコにしてて、鬼教授に追加のレポート提出食らったりしなければ、かな?」
マキが冗談めかして困ったように笑うと、ロイもそれを受けて素直に笑んだ。
「――うん。待ってるよ。だから、ちゃんといいコにしててよね」
「……言ってくれるなー。
じゃ、意地でもまた来て、そう言うあなたがどれだけいいコでいたか確かめてあげるから、覚悟してなさい?」
「ぼくは大丈夫だよ」
「ホントにー? 悪いこととかしてたら、あたしのゲンコツが落ちるからね?」
マキはグッと握りしめた拳を見せると、コツンとロイの額に押しあてる。
「あ、いいコのシスターが暴力なんて振るっちゃいけないよね?」
「……ああ、正論だわ、べらんめー」
マキは苦笑混じりに、改めてロイの頭をくしゃくしゃとなでた。
当のロイは上手くマキの揚げ足を取れたのが面白かったのか、ちょっとばかり意地悪に笑い返すと、別れの挨拶を残し、看護士に引かれて廊下を奥へと歩み去っていった。
その背を見送りながら、アーサーもまた、愉快そうに笑う。
「はっはっは。一本取られましたね、マキ君」
……しかし、マキからは何の反応もない。
いぶかしんだアーサーは、もう一度マキの名を呼びながら肩を叩く。
それに応えてというよりは、ロイが廊下の角を曲がって見えなくなるのを確認してから立ち上がったと思われるマキの表情は、いつになく硬かった。
「ポーラ先生。
あの子……ずいぶん悪いんですね」
悪いんですか、という問いかけではない。
自信を持ったマキのその言葉に、ポーラは驚きながら、一拍の間を空けてうなずいた。
「――ええ。いわゆる白血病の一種なんです。決して治らない病気ではないのだけど、状態はあまり良くなくて。
でも、よく分かりましたね……普段ならともかく、今日は調子がいいから、見た目でそうと分かるほどじゃないのに」
「知識とか、そういうのじゃないんです。でも……何となく、分かるんです。
――多分、あたしだから。
あたしも小さい頃、そうだったから」
「――え?」
思わず問い直そうとするポーラ。
しかしそれをさえぎるように、多目的室から顔を出した少年が、苛立った声でマキを呼ぶ。
「あぁ、もう、遅いよシスター!
次、シスターの出番だぜー!」
「あ、こら! すぐ行くから、おっきな声出すの止めなさい、怒られるわよっ」
マキは少年を軽く叱責すると「それじゃ、あたし戻ります」と、困ったような笑顔でポーラに一礼し……多目的室の中、子供たちの輪へと戻っていった。
結局何を言うこともできず、曖昧にマキを見送ったポーラは、困惑の浮かんだ顔で、かたわらのアーサーを見上げる。
それで意を得たアーサーは、厳かに一度うなずいた。
「……本人の言った通りです。僕も専門家ではありませんし、詳しい病名までは知りませんが……マキ君は幼い頃、重い病を患っていたそうですよ。
長くは生きられないと、お医者様がさじを投げるほどの」
「――そうでしたか。
では、今も何らかの治療を続けて……?」
「それがですね……ご覧の通りのじゃじゃ馬っぷり、すっかり元気なんですよ、今の彼女は。
高名なお医者様が、先は長くないとありがたくない太鼓判を押した難病に、彼女は打ち克ったわけです」
「それは……担当した医師が、見立て違いをしていたのですか?
でなければ、危ないところで治療法が発見されたとか……」
「……こう言うと……。特に、一応は聖職者である僕の口から言うと、余計に冗談めいていて笑われるでしょうが。
それは『奇跡』だと、お医者様はおっしゃったそうですよ。
……自力で快復するなど、神の奇跡に違いないと」
「奇跡……」
アーサーの口にした、ある意味荒唐無稽な単語を、ポーラは大切なもののように何度か口の中で繰り返した。
「いえ、医師の予想を超える生命の不思議というものは、現実にあることですから。
私は笑ったりなんてしませんわ。
……ですが、そうですか、神の奇跡……」
ポーラは多目的室の中のマキを見、そして続く視線を、廊下の先へと向けた。
神の奇跡ほどのものでなくていい。
ただ、諦めずに病に立ち向かおうという意志を助ける力があるなら、どうかそれがロイの中にも生まれるように――そう願いながら。